◆第3節 こじあけた「青春の門」
1977年、昭和52年4月、光輝は高校3年生になった。大学受験が視野に入ってくると、父俊が再び進路について口うるさく言うようになった。
「大学はどこに行くつもりなんや? 東大か京大か、まぁ阪大でもええぞ。医学部目指すんなら私学でもかめへん。お金はキツイけど何とかしたる」
「大学に行く意味などあるのか?」
それが光輝の本音だった。しかし、そんなことを言っても父が納得するはずはない。高校受験の時を思い出せば明らかだった。学歴主義の社会に反発しているなら勘当されても大学受験を拒否し、家を出て働きながらやりたいことをする。そういう道もある。だが、自己肯定感の低い光輝にそんな自信など持てなかった。
「まだ、決めてない。もうちょっと考えてみるわ」
そうごまかすしかなかった。それでも国立一期校をはじめ、いわゆる名の知れた国立大学を選ぶ気はなかった。その頃の光輝は「親の期待をいかに裏切るか」がテーマになっていた。このままズルズルと言いなりになって歩む人生を想像するとぞっとした。手始めに両親の反対を押し切って3年になっても光輝は部活動を続けた。進学校では2年で引退するのが「常識」だったが、あえてそれに逆らったのだ。父俊は怒ったが無視した。
他にはキータン、タケちゃん、ツジやん、そしてユウが光輝と行動を共にしてくれた。この4人とは卒業後も親友として付き合い続けることになる。
「大学受験は親との今までの関係にケリをつけるいいチャンスだ」
光輝はそう思っていた。数学が得意だったため、漠然とどこか理系の大学に行ってお茶を濁そうと企んでいた。父も教師だし「数学の先生になりたい」とでも言えば説得できるんじゃないか、と軽く考えていた。ところが、模試で大失敗をする。皮肉なことに数学の点数が低く、「ここなら受かるだろう」と思っていた大学の合格レベルにさえ達していないという結果が出てしまったのだ。
できないとすぐに諦める。その癖はここでも発揮された。光輝は一気に方向転換を図る。
「よっしゃ、数学で受験できる文系の大学を探そ。文系の数学レベルなら何とかなる」
目に留まったのは早稲田大学第一文学部だった。受験科目は英・国と社会か数学のどちらかだった。当時、五木寛之の『青春の門』を読んでいたこともあり、すぐさま早稲田の一文を受けることに決めた。一応名前は通っている大学だし父も反対しないだろう。しかも、家から出られるじゃないか!
「お父さん、僕、早稲田の一文に決めた」
「早稲田? 東京の私学やないか。関西の国立で行きたいとこはないんか?」
父はあまり乗り気ではなかった。東大でないなら、関西の国立大学に家から通うことを望んだ。光輝は、そこで国立には行けない「実績」を作ることにした。その日から社会(日本史・世界史)と理科(物理・生物・化学)の勉強をやめ、学校のテストでは白紙で出すか、サボりを決め込んだ。おかげで5教科全体の成績は急落、保護者面談では学校側から「3教科勝負」を勧められた。
「しゃあないな、浪人するくらいなら早稲田に行け。その代わり現役で合格するんやぞ」
父俊は、光輝の早稲田受験をしぶしぶ認めざるを得なかった。
「ありがとう、絶対現役で受かってみせるから」
自信などないのに、光輝は胸を叩いた。
しかし、そこからが大変だった。国語嫌いの光輝は教科書に出てくるような文学作品には今まで見向きもしなかった。読んだことがある本といえば、ポプラ社の『名探偵ホームズ全集』『怪盗ルパン全集』くらいのものだ。最近になってようやく『青春の門』という子供向けではない小説を読み始めたのだった。
「なんか、こう夏目漱石とか森鴎外とか、そういうの読んどかんとマズイかな」
自分なりに考え手にしたのが、何を思ったのか、太宰治の『人間失格』だった。
「恥の多い生涯を送って来ました。」……いきなりこんな文章と出合い、光輝は面食らった。
「なに、コレ? 文学って、こんな暗いん?」
それでも、我慢して最後まで読み進めた。最も印象に残ったのは「停車場のブリッジ」に関する記述だった。「構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思って」いたのに、「それはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚め」た、という下りには大いに共感した。
「太宰という人も社会と折り合いをつけるのが難しい人やったんかな」
そう思うと急に親しみが湧いた。
この年は、9月に大きな出来事が相次いだ。3日、プロ野球で巨人の王貞治選手が通算756号のホームランを打ち、ハンク・アーロンの米大リーグ記録を抜いて当時の世界最多本塁打記録を達成する。ビッグニュースに沸き返った国民だったが、それからひと月も経たないうちに、今度は恐ろしさに震え上がることになった。28日、パリ発東京行きの日航機を日本赤軍グループの5人がハイジャックし、バンデラデシュのダッカに着陸させたのだ。犯人は乗客・乗員151人を人質に取り、服役中の過激派活動家9人の釈放と出国、身代金約16億円を要求。当時の福田内閣は、これを受け入れた。福田赳夫首相の「人の命は地球よりも重い」という言葉を、当時の日本人は当然のこととして受け止めた。
時は流れ、1978年、昭和53年になった。2月、光輝は早稲田大学第一文学部を受験、現役で合格する。その結果に、本人が一番びっくりした。5問も全くわからない設問があり、あてずっぽうで答えていたからだ。
「嘘やろ! ほんまに?」
オールマークシート方式だったのが幸いした。実は光輝は『赤本』で過去問を勉強していたとき、ア~オの選択肢がどういう順番で正解になるかを「分析」していた。わからないところは、その「研究」に基づいて答えを選んだ。
「アの次は意外にまたアやったりするんやで」
といった具合だ。それが見事に的中したのだ。マグレ当たりに、光輝は運の良さを喜ぶより先に「今回はたまたまうまくいっただけだ」と自分に言い聞かせた。自己肯定感の低さとマイナス思考は依然克服できていなかった。
親元を離れて暮らす。そのことへの不安と期待は日を追うごとに膨らんでいった。
「【第5章】〝熱い魂(ソウル)〟の交差点◆第1節 呪縛から解き放たれた孤独」は、明日2月13日(木)19時投稿予定です




