◆第3節 オールナイトニッポンが始まりだった
2年生になると光輝はラジオの深夜放送に興味を持ち始めた。
「テレビなんか見てる奴はガキんちょや。中学生になったらラジオの深夜放送くらい聞かな、カッコ悪いで」
学校に一人は必ずいる背伸びをしたがるませた男子。エロ本を教室に持ち込んでは女子生徒の眉をひそめさせて喜んでいる福井康太(フクイ コウタ)が、授業前にわざと机に尻を載せ演説していた。パン屋のせがれで、始終エッチな話題ばかり口にすることで「パンツ屋」と命名された男だ。
パンツ屋の言葉に誘われるように、その夜、光輝はラジオの電源を入れた。確かにそこで展開されているのは、それまでに体験したこともない音の世界だった。流れる音楽さえ違っている。親と一緒にテレビを見ながら耳にしていた歌謡曲とは似ても似つかない曲が、次から次にかかった。夢中になった光輝は毎日のようにラジオを聞くようになった。
この頃よくCMで流れていたのは、 ミッシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ」(1972年)だ。この曲が光輝にとって洋楽初体験だった。日本の曲では、まだメジャーになる前のRCサクセション「ぼくの好きな先生」(1972年)、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのデビュー曲「知らず知らずのうちに」(1973年)、海援隊「母に捧げるバラード」(同)が毎日のようにかかっていた。翌年には、ルベッツ(The Rubettes、ルーベッツ)のデビュー曲「シュガー・ベイビー・ラヴ」(1974年)が登場し、光輝はそのファルセットに圧倒された。
ちなみに、この「シュガー・ベイビー・ラヴ」では、最初のファルセットの部分を「絶対女性やろ」と思いパンツ屋と言い争いになった。それも今となってはいい思い出だ。「パンツ屋、お前の勝ちやったな」
こうして初めて知る「サブカル」的なものに、光輝は次第に惹かれていく。そんな彼がハマった深夜放送は「オールナイトニッポン」だった。1967年、昭和42年10月2日からニッポン放送をキーステーションに全国ネットで放送されている長寿番組である。今も続くこの番組の1973年、昭和48年当時のパーソナリティは、6月までは毎日、亀渕昭信が務めた。7月に入ると月曜日深夜:小林克也、火曜日:泉谷しげる、水曜日:あのねのね、木曜日:斉藤安弘(ニッポン放送アナウンサー)、金曜日:カルメン、土曜日:岸部シローという体制になる。10月から 、あのねのねが岸部シローの後釜として土曜日に移った。
この土曜日のあのねのねの「オールナイトニッポン」に光輝は夢中になった。さすがに平日は学校があり、深夜1時から放送されるこの番組は我慢するしかなかった。その分、土曜日が待ち遠しく、あのねのねの軽妙なトークに酔いしれた。彼らのメジャーデビュー作である「赤とんぼの唄」も好きになり、ギターへの興味も湧いた。エンターテインメントの世界に近づく第一歩だった。
土曜日に聞いた「オールナイトニッポン」の話題を嬉々として話す光輝に声をかけてきたのは、池永真(イケナガ マコト、通称イケシン)だ。中学校から程近い神社の裏手に住むイケシンとは、この時初めて言葉を交わした。
「華原君、ラジオ好きなんか?」
「池永君も好きなん?」
「うん、僕もあのねのねの『オールナイトニッポン』のファンやねん」
「ほんまか!?」
2人は急速に親しくなりすぐに「ミツキ」「イケシン」と呼び合う仲になった。イケシンも、テレビで流れる歌謡曲よりラジオで聞くフォークやロックに興味があるようだった。眉が太くいつも穏やかな笑顔を浮かべているイケシンは、小柄だが力が強く、硬式テニス部にも所属しているスポーツマンだった。
「イケシンはどんな曲が好き?」
「陽水とか拓郎とか……」
後に日本ポップス界の大御所になる2人のことを光輝も知っていたが、まだ聞いたことはなかった。家に帰ると親にねだって小遣いをもらい、光輝はレコードショップに向かった。買ったのは3枚目にして陽水をスターダムへと押し上げたアルバム『氷の世界』だった。人生で初めて買ったLP。ワクワクしながら針を落とすとポップなイントロが流れ始めた。
「あかずの踏切」だ。タイトルや歌詞からは想像もつかないオシャレなメロディーに、光輝は度肝を抜かれ聞き惚れた。
それからは、休み時間になるとイケシンと音楽の話に花を咲かせた。2人ともギターが欲しいと思っていたが、土台無理な話であることもわかっていた。今とは違いギター、特にエレキギターは「不良の象徴」とされた時代だ。クラシックギター以外は、大人達に認められていなかった。今では教科書に載るビートルズでさえ聞くのを止められていたのだ。
「ギター欲しいな」
「うん」
最後はいつもこうして2人でため息をついた。
「【第3章】「あかずの踏切」があけた扉◆第4節 ホームレスにはなりたくない」は、明日2月9日(日)19時投稿予定です




