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(ゆ)  作者: 七宝
1/6

寿樹

 (はえ)が飛んでいた。


 それが最初に目に入ったものだった。


 目覚めると俺は硬くて臭くて冷たい場所にいた。

 壁や床には白い線の入った青いタイル。目の前の壁には黒いシャワーホース。シャンプー、リンス、ボディソープ、そして。排水口に詰まった大量の髪の毛。


 見覚えのある風呂場だった。

 とりあえず立ち上がろうと思ったが動けない。手足をテープでぐるぐる巻きにされていた。


 浴槽のほうから腐った魚のような臭いがするので身をよじって中を覗いてみると、(ウジ)の湧いた赤黒い水に親友(ゆうや)が浸かっていた。彼の息の根は止まっていた。顔を這い回る蛆と、濁った目を見れば一発だった。


 雄也が死んだ。


 俺が4歳の時にこの町(ここ)に引っ越してきてから10年近く、何をするにもずっと一緒だった雄也が、死んだ。


 悲しい。


 つい先週、遊んだばかりなのに。ここで。


 ⋯⋯頭が痛い。

 そうだ、夜歩いてたら急に頭を殴られて⋯⋯それからも色々やられたらしい。特にケツが痛い。おそらくケツバットを数発食らっている。


 と、右手にあるドアが開いた。


「やっと起きたか」


 そう言いながら、おじさんが入ってきた。


「これ、おじさんがやったんですか」


「当たり前だろ」


 おじさんは手にペンチと金槌を持っていた。


「なあ寿樹(としき)。出来るだけ苦しませて殺してやりたいから、雄也みたいに暴れてくれるなよ」


 本気の目をしていた。

 本能でヤバいと即座に理解した。


「わーーーーー! 助けてくださーーーい! 助けてくださーーーい! 助けてくださーーーい! 助けてぇーーー!」


 俺は全力で叫んだ。

 喉がちぎれるほど、家が揺れるほど、何度も何度も叫んだ。


「ははは。どれだけ叫んでも無駄だよ。ご近所には前もって言ってあるんだ。誰も通報しねぇよ」


 嬉しそうにおじさんはそう言った。

 生まれて初めて〈鬼〉を見た瞬間だった。


「さぁて」


 右手に握ったペンチをゆっくりこちらに向けるおじさん。爪でも剥がすつもりなのだろうか。

 俺はどうすれば逃げ出せるか必死に考えた。


 縛られてはいるものの、上手くやれば立ち上がって、おじさんを押しのけて脱出することは出来ないだろうか。でも武器を持ってるか⋯⋯なら別の方法で、ガッ!?


 突然口の中にペンチを入れられた。金属部分の冷たさと錆の味の気持ち悪さに嘔吐(えず)いていると、ガシッと奥歯を掴まれた。途端にペンチに力がかかる。


 歯を抜くつもりか!


「らめらよおりはん! 歯は! 歯はらめ!」


 首を振って涙ながらに懇願してもおじさんの力は緩まなかった。痛い。麻酔なしで抜歯なんて絶対に耐えられない。死んでしまう前に何とかやめさせないと。


「ひんりゃう! ひんりゃうよおりはん!」


 必死に訴えると、おじさんの手が止まった。


「死んじゃうのか。それは困るな。じゃあ別のところをやろう」


 そう言ってすぐに俺の手を取り、左手の人差し指の爪を挟んだ。それからゆっくり、力がかかってくるのが分かった。刺されるような痛みに(さいな)まれながら、べりべりと、ぶちぶちと音を立てて指から離れた。


 見た目こそグロテスクだが、痛みは普通の怪我と変わらないように思えた。


「なんか余裕そうだな。気に食わねえ」


 次におじさんは右足の親指にペンチを持っていった。足の親指は、手の指とは次元が違った。全身に電撃が走るような痛みが永遠に思えるほど続き、汗と涙が滝のように流れた。


「おい」


 硬いもので頭を叩かれたので前を向くと、おじさんがペンチを差し出していた。


「左足は自分でやれ。縛られててもそれくらい出来るだろ」


 言う通りにしないと殺される。そう思った俺は意を決してペンチを握った。怖かったけれど、ゆっくり剥がされるよりマシかもしれないと思った。


 けど、違った。いざ自分でやろうとすると、あるところから一気に力が入らなくなる。怖いからなのか、痛いからなのか、力が足りていないせいなのか、自分では分からなかった。もう、何も分からなかった。恐怖にむせび泣くことしか出来なかった。


「おい、泣いてる暇があったら早くやれよ。遥香(はるか)はもっともっとつらかったんだぞ」


 そんなこと言われても、体が動かないんだからしょうがないだろ。


 恐怖の中に、だんだんと苛立ちのようなものが生まれてきた。


「こんな酷いことを⋯⋯」


 そうボソッと呟いた。それが間違いだった。


 それを聞いたおじさんは血相を変えて、何度も俺の顔を殴った。


「酷いってなんだ? なにが酷いのかさっぱり分からねぇよ。当たり前じゃあないのか? 俺の娘にあんなことをしたんだぞ? こうなって当たり前じゃないのか? なぁ、なにが酷いんだ? 説明してくれよ! なぁ! おい!」


 顔がボコボコに腫れるくらい何度も殴られて、最後に剥がしている途中の爪を金槌で割られた。割れた爪の欠片がいくつか肉に刺さったが、指の骨が折れた痛みしか感じなかった。


「なぁ、早く説明しろよ」


「あんたは間違ってる。許さない⋯⋯絶対に許さない!」


 こいつにはもはや憎しみしかなかった。

 親友を殺され、爪を剥がされ、割られ、縛られ、殴られ、蹴られ、暴力の限りを尽くされた。


「許さないだと⋯⋯? お前。自分が何言ってるか分かってんのか? 驚きも呆れも通り越してもう、怖いよ。お前怖いよ。なんなんだ? 本当に人間か?」


「人間じゃないのはあんただ! 中学生にこんな拷問を!」


「黙れ!」


 大きな拳が鼻目掛けて飛んでくる。


 頬にペンチを当てられたかと思うと、物凄い力でつねられ、引きちぎられた。顔が半分になったのではないかと思うほどの激痛だった。


「なんでこんなに血が出るんだよ! こんなヤツから赤い血が⋯⋯!」


「なに訳の分からないことを言ってるんだ! この悪魔め!」


 悪魔に殺される。悪魔に殺される。


「俺が悪魔だと⋯⋯!? 遥香は妻と2人で育ててきたかけがえのないたった1人の愛娘だった! あいつこそが俺の、俺たちの、人生だったんだ! それをお前らが奪った! だから殺すんだ! なにが悪いんだ! どこが悪魔だ! 言ってみろ!」


 怒鳴る度に拳か足が飛んでくる。

 腹を蹴られ、爪の割れた足も踏み抜かれ、頭の形が変わるほど殴られる。こんなの悪魔じゃなきゃなんだっていうんだ。


「反省するとは(はな)から思ってなかったが、まさかここまでとはな⋯⋯」


 悪魔はそう独りごちながら排水口の蓋を開けて中に手を入れ、詰まっていた髪の毛を引きずり出した。乾いている部分と湿っている部分があり、湿っている部分は正体不明の汚れにまみれていた。


「食え」


「えっ」


「お前が粗末にした命の一部だ。全部食え」


 有無を言わさぬ悪魔の気迫は到底反抗出来るものではなかった。逆らえばまた殴られる。蹴られる。耳をちぎられるかもしれない。目を潰されるかもしれない。舌を抜かれるかもしれない。


 とりあえず痛いことはないだろうと、悪魔から受け取った髪の毛を口へ運ぶ。排水口そのものの臭いがする。部屋中に漂う生臭さとの合わせ技のせいで、すぐに吐き気を催した。


 口に入れた瞬間、遥香姉ちゃんの匂いがした。憧れの、愛しの、遥香姉ちゃんのいつものあの匂い。

 すぐ後に、泥と混じったような石鹸の香りがした。垢の味と、埃の味と、血の味もした。


 それら全てが混じった味の不快さは、想像を絶するものだった。

 吐き気が何度も襲ってきた。胃液が逆流する度に飲み込んだ。


「絶対に吐くなよ」


 そう言って悪魔が風呂場から出ていった。

 チャンスだと思った。


 風呂場を出てすぐのところに勝手口がある。芋虫状態でもそこまで行けば出られる可能性はある!


 髪を吐いて出口へ向かうと、すぐに悪魔が帰ってきた。


「吐くなって言ったよな」


 悪魔は手に接着剤のチューブを持っていた。


「いいか、2度と出すな。全部食え」


 そう言って俺の口に無理やり髪を詰めると、チューブの口を唇にあてた。


「食べるから! やめて!」


「黙れ。お前らが遥香にしたことだ」


 唇に接着剤を塗り、無理やり閉じさせてくる悪魔。必死の抵抗も虚しく、唇は完全にくっついてしまった。接着面はとにかく硬くて、自分の唇ではないようだった。


「全部食わなかったら殺すからな」


 それから何分経ったのか、何時間経ったのか分からないが、俺は口の中に何度も嘔吐しながらもなんとか全てを胃に収めた。

 その間に、残っている爪を全て剥がされた。


「なぁ」


 悪魔が口を開いた。


「お前らなんで娘にあんなことしたんだ?」


「んんんー」


「そうだったな。今開けてやるよ」


 悪魔はそう言うとペンチを手に取り、大きく開いて唇の真ん中を挟むようにセッティングした。


 次の瞬間、ぶちん! と音を立てて俺の唇は破裂した。∞の字のホースから飛び出したような勢いの鮮血は、もはや夢のような量だった。


 空いた穴にペンチを突っ込まれ、ぶちぶちと拡げられ、俺の口はまた開くようになった。


「なんで遥香殺したんだ」


「殺してませんよ」


「お前らのせいで死んだんだ。お前らが殺したようなもんだろ。なんであんなことをした」


 あんなこと。

 あんなことや、こんなこと⋯⋯


 えへへ。


「遥香姉ちゃんが美人だったからです」


「は?」


「すっごく美人だったから。素敵だな、可愛いなっていつも思ってて。努力して、頑張って生きてるんだろうなって思って。だからやりました」


「何言ってんだ⋯⋯お前⋯⋯」


「殴りましたし、犯しましたし、髪も毟りましたし、動画もたくさん撮りました。でもまさか、自殺するとは思いませんでした。勿体ないですよね、まだまだ若いのに。本当に残念です⋯⋯」


「残念って、お前! お前がやったんだろうが!」


「俺ももうこんななんで、生きていけません。早く殺してください」


「ダメだ。もっと苦しませる」


 やっぱり悪魔だ。


「人差し指を食いちぎれ」


 何言ってんだコイツ。もう死も脅しにならないってのに。


「やですよそんなの。痛そうだし。もう命令しても無駄です。解放してくれないのなら舌を噛んで死にます」


「漫画やアニメの見すぎだ。そんなことしたって死にやしねえよ」


 だからって、指を噛みちぎれだなんて⋯⋯


 俺、なんでこんなことされてるんだろ。

 まだ13年しか生きてないのに、なんでこんな⋯⋯


 生きられるのなら生きたい。

 こんな体になっても、生きていれば絶対にいいことがあるはずだから。


 だから。


 だから⋯⋯


 やっぱり生きる!


 今はこいつの言う通りにしてチャンスを伺うしかない! こうして希望を持たないと気力が保てない!


「早くやれ」


 人差し指に歯をあてる。柔らかい。深呼吸。


「お前らはサイコパスだったんだな。普通の人間ならここまで他人事に思えねぇはずだ。いや、そもそも普通の人間はあんなことしねぇか」


 勇気を出して噛んでみると、思いのほかサクッと歯が入った。普通に売っている肉と同じか、それ以上に柔らかかった。指がじんじんと痛むが、なんとかいけそうな気がした。


 が、全然そんなことはなかった。骨に歯があたるだけで激痛が走るし、そもそも骨が硬すぎて歯が立たない。


「奥歯で咥えて、関節グリグリしてちぎってみろ」


 聞いただけで寒気がした。なんて恐ろしいことを思いつくんだこの悪魔は。


 俺は言われた通り、奥歯で指を噛んで固定し、グリグリやりながら引っ張った。あっちの方向にこっちの方向に、歯を食いしばりながらちぎれるまで何度も引っ張った。


 血管か神経か分からない紐が伸びている患部は、グリグリ回す度に熱くなったり冷たくなったりしていた。


 永遠とも思える時間が過ぎた頃、ついに人差し指が俺から離れた。


「おじさん! 終わったー! 取れたー!」


 もはや痛みなどは感じず、達成感でハイになっていた。


「なんだそのガキの頃みたいな笑顔は⋯⋯寒気がする」


 悪魔にドン引きされるなんて。


「お前、雄也とは親友だったんだよな」


「うん! 10年近く一緒だったからね!」


「じゃあ最期くらい一緒にいたいよな」


「うん?」


 悪魔はそう言うと俺を抱き上げ、雄也のいる浴槽に沈めた。血の臭いと、腐った生魚のような吐き気のする酷い臭いがした。


 目の前で息絶えて蛆の巣になっている雄也の顔が、未来の自分のように思えた。

 夏場でも水が冷たかった。

 それに、雄也は太っちょなので浴槽が狭い。


 おかしくなりそうだ。


「よいしょ」


 まだなにかするつもりかと悪魔の方を見てみると、手にペンチと金槌を持っていた。


 金槌で口を叩かれ、歯を折られた。


 おそらくここで俺は気を失った。







 目を覚ますと、あいつが居なくなっていた。

 前には相変わらず雄也がいた。


「なあ雄也、本当に死んでるのか?」


「⋯⋯⋯⋯」


 どう見ても死んでいる相手に話しかけてしまうほど、心細かった。静かな風呂場にあるのは俺の声と蠅の翅音だけだった。


「昔はここで3人で入ったりしてたな。遥香姉ちゃんが大きくなってからは2人で入るようになって、お前が横に大きくなってからは一緒に入らなくなったよな」


「⋯⋯⋯⋯」


「お前、綺麗な体してるな。どっか刺されてすぐに死んだのか? 俺も暴れればよかったかな。いや、これでよかったのか。俺はまだ生きてるし」


「⋯⋯⋯⋯」


 少し窮屈だったので足を伸ばしてみると、雄也の腹に当たった。いつも柔らかかった雄也の腹はさらに柔らかくなっていて、力を入れなくてもズボズボと足が埋まった。その時、雄也は「ぐぶう」と声を出して黒いものを少量吐いた。一瞬生き返ったのかと思ったが、それから雄也が動くことはなかった。


 どこかから泣き声が聞こえる。女の人のようだった。おばさんかな。


 それにしてもこの風呂の感じ、おじさんもおばさんもあれから風呂に入っていないのだろうか。不潔すぎるだろ。


 傷が痛む。


 こんな臭いの浴槽に怪我まみれで入って、全身病気だらけになりそうだ。


 喉が渇いた。


 腹が減った。


 外が明るい。

 何時間飲んでいないのだろうか。食べていないのだろうか。


 さすがにこの水は飲めないよな⋯⋯


 ああ、背伸びがしたい。


 手足を伸ばすと、縛っていたテープがするりと剥がれた。


「えっ、マジ?」


 あまりにも簡単にふやけたテープに思わず声を発してしまった。


 大丈夫だ、気づかれていない。体は痛むけど、勝手口から出て全力疾走すれば逃げ切れるはずだ。


 俺は音を立てないように立ち上がり、風呂場を脱出し、勝手口を開け、真っ赤な体で走り出した。

 交番に駆け込み事情を話すと、すぐにパトカーが出動した。


 助かった。


 よかった。

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