涙
微かに動く瞼を食い入るように見つめ、剣の鍛錬で固くなった皮膚を感じながら、大きな手をギュッと握っていた。
初めて触れたリュシアン様の手のひらは想像していたよりずっと大きかったが、普通の体温とはかけ離れた冷たさで、まるで氷を握っているかのようだった。
「リュシアン様っ!」
「……れ、レティシア、じょう?」
ゆっくりと瞼を上げて、瞬きをする。どこか視点の定まらないところはあったが、私の姿は見えると、小さな声で私の名を呼んだ。
「よか、よかった。ずっと目が覚めないから、どうしようかと……っ」
溢れる涙でリュシアン様の顔が見えなくなる。大粒の涙はぼたぼたとベッドに落ちて、シーツを濡らした。それでも涙が止まらなくて、私は少しだけ動いたリュシアン様の手を強く握りしめた。
私がしっかりと握る手の中で、ぴくりと反応をして握り返してくる。まだ状況が分かっていないのか、リュシアン様はぼんやりとした顔をして私を見つめていた。
「やっと起きたのね。まあ、随分眠っていたわよ。まったく、急に倒れるから、レティシアちゃんが心配して、心配して、ちゃんと謝りなさいよ。体調が悪いんだったら、ちゃんと言いなさいったら」
「ヴィヴィ。……俺は、一体」
「倒れたのよ。いきなり。いつから溜めてたか知らないけれど、あんたの中に暗黒の気が溜まっていたの」
「暗黒の気……? なぜ……」
「ああ、ああ、起きないでいいから。そのまま寝ていなさい。まだ顔色が悪いわ。暗黒の気は消したけれど、まだ話せる状態じゃなさそうね。レティシアちゃんに、あんたに暗黒の気が入らないようにしてもらっているから、少し眠っていなさい」
ヴィヴィアンお師匠様は一方的に話して、リュシアン様の頭を枕に押し付けた。
混乱しているようで、視線がきょろきょろしている。まだめまいがあるのか眼球が揺れているようだ。
「リュシアン様、このままお休みになってください。もう、大丈夫ですから」
言っているうちに、またもぼろぼろ涙が流れてきた。それを見てリュシアン様が驚いてしまったのか、飛び起きようとして起き上がれず、ぺたりと頭をベッドに下ろす。
「ほら、動かないの。いいから寝てなさい」
ヴィヴィアンお師匠様はリュシアン様の頭を抑え、そのまま私にティッシュをくれる。私はリュシアン様の手は離すまいと両手で握っていたので、お師匠様は呆れ顔で私の顔を拭ってくれた。
ノックが聞こえてヴィヴィアンお師匠様が応えると、誰かがお師匠様を呼んだ。知らない顔の男の人は焦っているのか弱りきった表情をして、部屋には入ってこず小声で何かを話した。
「————で、————様が」
「分かったわ。今行く。レティシアちゃん、リュシアンのことよろしくね。ちょっと出てくるわ。ベッドから出ないように、ちゃんと見張っててちょうだい」
「承知しました!」
急ぎなのか、さっさと部屋を出ていく。随分と忙しない。良くないことでも起きたのだろうか。
小さく耳に届いた言葉の中に、おうじさま、があったのが気になる。
(フランシス王子様に何かあったのかしら。ヴィヴィアンお師匠様を呼ばれるならば、さきほどの動物に……?)
「レティシア嬢、俺は一体、何があったんだ?」
「リュシアン様、何も覚えていませんか? 急に座り込んだと思ったら、そのまま倒れられたんです」
「俺が……?」
記憶が混濁しているのか、リュシアン様は寝転がったまま苦しそうに眉をひそめる。考えるのも辛いのか、私が握っている手とは逆の手で額を抑えた。
「私と話した後、座り込んで、そのまま倒れられて、意識が戻らなかったんです。お師匠様がすぐに治療をしてくれたんですが、全然動かなくて……。暗黒の気がリュシアン様の中にあって、そのせいで体調を崩したのではないかとおっしゃっていましたが」
「俺の中に、どうして暗黒の気が……?」
「なにか、思い当たることはないのでしょうか?」
「暗黒の気は、俺はそこまではっきり見えないんだ。純粋な精霊ならば目に見えるんだろうが、俺はその血が薄いから微かに見えるか見えないか。暗黒期で体が重くなることがたまにあって、それで暗黒の気に気付く程度だ。それに、暗黒期だからといって、倒れることなんてない。確かに最近少し体が重いような気はしていたが、暗黒期だからと気にしていなかった。どこで体に吸収したかと問われても、思い付くことはないな……」
「そうなんですね……」
私は側にいてもリュシアン様の暗黒の気には気付かなかった。ヴィヴィアンお師匠様が言うには、暗黒の力を掛けられて暗黒の気に包まれているわけではないので、私がすぐに気付けるような状態ではなかったようだ。
しかし、それにも気付かなければならないのに、私は全く気付かなかったのである。
(せっかく、エミールに手伝ってもらいながら、暗黒の気に気付けるよう練習していたのに、何も役に立っていないじゃないっ)
「レティシア嬢……、大丈夫だから、泣かないでくれ……」
私の目から、再びぼろぼろと涙が流れてきた。
大粒の涙がとめどもなく溢れてくる。
「だって、リュシアン様、あのまま眠りから覚めなかったら、どうしようかとっ。あの時の呪いがまだ残っていて、それで眠ってしまったのか、私の呪いを祓う力が中途半端で、失敗して眠ってしまったのか。暗黒の気も気付けるように練習していたんです。エミールに手伝ってもらって、消すことも、できるようにしていたのに。なのに、リュシアン様が倒れるまで、私は気付かなくてっ!!」
「レティシアっ」
目の前が滲んで見えなくなるほどの涙に、私の視界は遮られた。
「君のせいではない。ないから、そんなに泣かないでくれ」
頭の上でリュシアン様の声が聞こえる。
温もりが私を包み私の頬は硬いものに押し付けられ、背中には何かがきつくからまり、私の体を抑えていた。
何が起きたか良く分からない。ただ、耳元に触れる吐息を感じて、私は流す涙を忘れて頭の上から湯気が出るのを感じた。
(リュシアン様が、私を抱きしめている!?)
頬に当たるのはリュシアン様の大胸筋で、服越しとはいえ硬い胸板を耳と頬に感じる。
身体中に感じる温もりはリュシアン様の体温で、微かに爽やかな石鹸のような、けれど落ち着いた優しい香りがして、私は目が回りそうになった。
(いい匂いすぎます、リュシアン様!!)
涙はとっくに引っ込んだ。けれど、リュシアン様の腕の力は緩まることはなく、私の背をしっかりと包み、私をきつく抱きしめる。
涙の枯れぬ私を思い、子供をあやすように抱きしめてくれているのだろう。
だがしかし、私には刺激が強すぎるのです!!
「りゅ、リュシアン様……」
リュシアン様の香りに包まれて、私は酸欠になりそうだ。離れたくない気持ちはいっぱいでも、これ以上くっついていたら、
(鼻血が出る————!!)
「あ、す、すまないっ。大丈夫か!?」
「だ、だいじょばないです……」
推しの抱擁を受けた中、私はかろうじて生き残り、離れゆく体温を惜しみながら、鼻血だけは垂らさぬと顔を背けて大きく息を吸った。
「レティシア嬢……。その、あまりに泣くから、どう慰めれば良いのか分からずっ」
「わ、分かっています! リュシアン様の前で無駄に涙を流すなど、申し訳ありません。不細工なツラをさらし、涙を……、ってああっ!」
「な、なんだ!?」
「リュシアン様のお召し物に、私の鼻水がっ。申し訳ありません、申し訳ありません!!」
私の涙に膨れた顔を見られただけでなく、リュシアン様のお衣装を涙と鼻水でしっとりさせてしまった。急いでハンカチを出してリュシアン様の胸元を叩くように拭うと、リュシアン様は真っ赤になりながら私の手を取ってそれを止めた。
「レティシア嬢、服は気にしなくていい……」
そうは言っても、リュシアン様の大切な聖騎士団の衣装が台無しだ。私が責任を持って洗いたい。脱がしにかかって良いだろうか。
「良くない! 脱がすのはやめろ。脱がすのは」
「ですが、汚してしまったのは私ですので、元メイドの腕を見せるところかと」
「大丈夫だ。脱がさなくていいから!」
既にボタンに指をかけて脱がしにかかっていたのだが、リュシアン様にきっぱり断られてしまった。私はしょぼんとしつつ、心残りがありすぎて、ハンカチを持ったままリュシアン様のしっとり部分に手を伸ばす。
「申し訳ありません……」
「もう謝らなくていい。俺も心配を掛けた。君をこんなに泣かせて、すまなかった」
リュシアン様が私の前で肩を落とし、しょんぼりした。先程まで私を抱きしめていた引き締まった体が小さくなって、むしろ私が抱きしめたくなる。
(抱きしめるのはいいけれど、抱きしめられると迫力が違うわ。できれば私から抱きしめるほうが……。って、違う違う。リュシアン様のお優しさに甘えてはダメよ)
ただでさえ弱っているリュシアン様は熱でもあるのか、頬を染めて遠慮がちに身を縮こませている。それが可愛らしくもあって、普段なら抱きつきたい気持ちでいっぱいになるが、先ほどの熱を思い出すと鼻血案件になりそうだ。
先ほどの温もりを思い出してしまい、私は心の中でかぶりを振る。
「ヴィヴィアンお師匠様から、リュシアン様に暗黒の気が入らないよう、しばらく触れているようにと言われています。なので、リュシアン様はベッドで横になり、しばらくお休みください。私はここで、リュシアン様の手を握って、暗黒の気が入らないように見張っておりますから」
「いや、それは……」
「ダメです。お師匠様が戻るまでは安静にしてください」
何が原因でリュシアン様が倒れるほどに弱ったのか分かっていない。ヴィヴィアンお師匠様は何かあったようで呼ばれて戻ってきていないのだし、私がリュシアン様の中に入ろうとする暗黒の気を止めなければならない。
「暗黒期だけの問題でないのならば、他に原因があるんです。リュシアン様を傷付けようとする者は私が必ず見付けます!!」
推しが倒れることなどあってはならない。二度とこんなことがないようにするのだ。
なので、リュシアン様の手を取り、私は再びぎゅっとその手を握る。触れていれば暗黒の気を探すことができる。集中してそれを続けている間にヴィヴィアンお師匠様も戻ってくるだろう。
「ずっと、このままなのか……?」
「ずっと、このままです! ギーも、リュシアン様が倒れたと聞いたら卒倒しますよ」
「ギーが?」
きっと先に帰宅したことを後悔するだろう。リュシアン様が倒れたと聞けば、今すぐ戻ってきそうだ。想像できる。私なら戻ってくる。
「ギーはリュシアン様推し。仲間です!」
「仲間……」
「協力体制です。推しを狙う者を、こてんぱんにします!」
「そういう……」
私が力説していると、リュシアン様は唖然とした顔をしながら、なぜかポッと頬を赤く染めた。
「どうかしましたか??」
「いや、そうか。協力体制。そうだな。それで二人であんな場所にいたのか」
リュシアン様は一人で何かを納得し、赤らんだ顔をこすってそれを隠した。
良く分からないが、リュシアン様は何かを理解したらしく、何度か頷いて私の方へ顔を向けた。リュシアン様の紫の瞳が私を映し、じっと見入るように見つめた。
「————次は、何かある前に俺に言うんだ。何があっても、すぐに駆け付けるから」
真剣な眼差しに吸い込まれそうになる。リュシアン様はいつもよりずっと近く、触れていた手に力を感じた。
「団長だからな」
「あ、そ、そうですね。団長ですものね! もちろんです。次、何か気付きましたら、必ずリュシアン様にお知らせします!」
聖騎士団に身を置く者として、当然の報告だ。
そう思いながらも、なぜか胸がどきどきして、私はヴィヴィアンお師匠様が戻ってくるまで、胸の高鳴りに熱でもあるのではないかと考えながら、リュシアン様の手をずっと握っていた。