約束
俺は腕組みをして、んーと唸る。
目の前には、子供の頃のアンナちゃんの部屋の扉がある。たぶんここが、ヘルミーナさんが言っていた、アンナの秘密の部屋の入り口で間違いないだろう。
なぜ、この場所に来れたのかはよくわからないが、じいちゃんのお陰だと思っておこう。じいちゃん、ありがとう。
俺は手に持つ鍵束に目を向ける。青白く光を放つ1本の鍵、これで扉を開けろっていうことだろう。
覚悟を込めて、ドアノブの下にある鍵穴に光る鍵を差し込み、ガチャリとまわす。鍵が開いたようだ。
「アンナちゃん、入るよー。」
念のため声を掛けながら、ゆっくりと扉を開ける。
扉を開けると、見覚えのある光景が広がった。淡いピンクと白の壁紙の部屋には、水色を基調とした子供用のベッドや箪笥。白い子供用の机や本棚が置いてあった。
ベッドの上には、幾つものぬいぐるみが並び、本棚には色とりどりの絵本や玩具がならんでいる。
間違いなく、子供の頃にアンナちゃんが、使っていた部屋だ。
ふと足元をみると、白い床の上に敷かれた淡いピンクのラグの上に、今朝キッチンで見たアンナが自分の上半身ぐらいある水色のクマのぬいぐるみを、ぎゅっと抱いてすーすーと寝息を立てて眠っていた。確かこのクマのぬいぐるみは、俺がアンナの誕生日にプレゼントしたもので、アンナが一番気に入っていた物だ。
起こさないように、そーっと近づこうとした時、壁に飾ってある写真に気付く。
壁に張られた数十枚の写真には、小さい頃のアンナちゃんと俺が写っていた。
一緒に楽しそうに遊んでいる写真、泣いているアンナを俺が慰めている写真、二人並んで寝ている写真、アンナの誕生日を祝っている写真など、懐かしい写真ばかりだ。
そして、その中の一枚には、俺とアンナの名前が書かれた婚姻届を持って、満面の笑みを浮かべる小さなアンナちゃんが写った写真もあった。
俺は、写真に写った光景と、数日前に突きつけられた婚姻届を思い出しながら、苦笑いを浮かべる。色々、忘れちゃってたんだなと。
寝ているアンナの脇に、しゃがみ込む。
寝息を立てる顔を覗き込むと、目元が涙で濡れていた。あの後ずっと泣いて、泣きつかれて眠ってしまったのだろう。
「色々とごめんな、アンナ。」
そっと呟いてから、寝ているアンナの頭を優しくなでる。
頭をなでられたアンナの寝顔が、へにゃっと笑顔になる。
しばらく頭を撫でていると、アンナは「んぅ」っと、小さく呻いて目をうっすらと開く。赤い瞳が動いて、俺の姿を映す。
「あ…お兄ちゃんだ。うへへっ…お兄ちゃん大好き。」
にへらっと顔を緩ませて笑い、ぬいぐるみに回していた両腕を広げて、俺の首に捕まるように、ぎゅーっと抱きしめてきた。
俺は抱きついてきたアンナの体を支えてやるように、背中に腕を回しポンポンと叩きながら、もう一方の手で頭をなでる。
「俺もアンナが大好きだよ。」
俺がそう言うと、またにへらっと笑って俺の胸に顔をうずめ、ぐりぐりする。
「よしよし、アンナは相変わらず甘えん坊さんだな。」
俺の胸でぐりぐりしていた頭の動きがピタリと止まる。
「え、あれ…なに…なんで…お兄ちゃん?」
「お、やっとお目覚めかアンナ。おはよう」
俺の胸にうずめていた顔がゆっくりと上向き、俺の顔を見る。アンナは頬を赤くそめ、口をパクパクさせながら、まん丸に開いた目の中で赤い瞳をきょろきょろと動かす。
「お、おはよう…じゃなくて。あれ…なんで…お兄ちゃん?」
俺はその様子があまりにも愛おしくて、混乱している様子のアンナちゃんの前髪をそっとかきあげ、おでこに唇でそっと触れる。
アンナの顔がみるみる赤くなっていく。
「な、なななななななーーーーーっ!」
アンナはシュッと俺の腕の中からすり抜け、クマのぬいぐるみを抱えると、ズザザザッっと壁際まで後ずさり、ちょこんと座る。
そして、キスしたおでこのあたりを触りながら、俺を睨みつける。
ああ、俺の大好きな感情をたっぷり表情に出す、アンナの顔だ。俺は嬉しくなってククっと笑う。
「な、なんてことするんですか!破廉恥です!破廉恥ですよ、お兄様!それになんで、私の秘密の部屋にお兄様が入っているのですか?ありえません!」
「ありえないって言われても、この鍵で入れちゃったんだよな。」
俺は鍵束の中の青く光る鍵を、アンナに見せる。それを見たアンナは胸元を触った後、首にかかった金のチェーンをするするっと引っ張る。ドレスの胸元から、俺のと色違いで赤く光る鍵が出てくる。
アンナがはっと、何かを思いついた顔をした後、眉間に皺を寄せて苦い顔をする。
「お兄様、もしかしてそのカギはお兄様のおじい様から?」
「そうそう、じいちゃんの形見だ。」
「やっぱり…」
アンナはクマのぬいぐるみをぎゅっと抱いて、恨めしそうにこっちをみる。
「それは、この部屋の合鍵です。」
「合鍵って、なんでこんな物を俺のじいちゃんが持ってたんだ?」
アンナの顔が、驚いた表情にかわる。
「お兄様は、おじい様から何も聞いていらっしゃらないんですか?」
「ああ、アンナ達が別の世界から来たっていうのは、さっきヘルミーナさんから聞いた。」
「話が嚙み合わない事が多いと思いましたが、今納得しました。」
「俺もさっき納得したとこだ。」
クマのぬいぐるみの頭に、口元をうずめるアンナ。
「これはヘルミーナ達にも内緒ですが、お兄様のおじい様であるリョウゼン様は、向こうの世界では超がつく大魔法使いで、私たちが住むビルゲンシュタット王国では、英雄として崇められています。」
俺はヘルミーナさんが、じいちゃんの遺影を見て誰かに似ていると言っていたのを思い出す。
「ま、まじか俺のじいちゃん、大魔法使いだったなんて…ただの町工場の職人だと思ってた。でも、俺のじいちゃんがその英雄だったとして、この部屋の合鍵を持っていることに繋がるんだ?」
アンナ、少し恥ずかしそうにそっぽを向きながら、唇をとがらせる。
「わたくしが向こうの世界に帰る事になった時、心配して下さったお兄様のおじい様が、何かあった時に逃げ込める場所として、空間魔法で子供の時の部屋を、そのまま秘密の部屋として作ってくださったのです。」
「セーフティハウスってやつだな。すげーな、じいちゃん。」
再びクマのぬいぐるみの頭に恥ずかしそうに顔をうずめ、赤い目だけがこちらを伺っている。
「あと…お兄ちゃん子だった、わたしが、お兄ちゃんと離れても寂しくならないようにって…。」
うっ、やばいキュンときた。たぶん今、俺も顔赤くなってるわ。
「あー、まさかお兄ちゃんに、この部屋を見られるなんて恥ずかしすぎる―!…はっ!」
恥ずかしさで首を左右に振って、金髪を揺らしていたアンナが、はっとなって俺の少し横、さっきまでアンナが寝ていた場所に目をやって焦った顔になる。
慌てた様子で、四つん這いになって近づいてきて、落ちていたものをさっと掴んで背中に隠す。
俯いて恥ずかしそうに上目遣いで俺を見る。
「み、見ました?」
「見た。」
アンナの顔から首までが、真っ赤に染まる。
「昨日、俺が借りてた花柄のタオル。」
「ち、違うんです!こ、これは、お兄様の汗がしみ込んだタオルの匂いを嗅ぎたいとか、寂しい時に嗅ぐと安心するなーとか、そういうことではなくて、えーっと、あの、そ…そうです。この部屋のお兄様コレクションの一部に、加えようと思って―」
「ぶはっ!」
てんぱって、きょどりながら意味不明な言い訳をするアンナに、俺は思わず吹き出す。
「くくくっ…アンナお前、破廉恥だな。」
口をへの字に結び眉間に皺お寄せ、赤い目を涙で潤ませるアンナ。
「はぅ~、お兄様ひどいです~。もう、アンナはお嫁にいけません!」
恥ずかしさで今にも泣きそうなアンナを、俺はそっと抱き寄せる。
突然抱き寄せられ「ちょ、あの…」と言って、身を捩るアンナが逃げられないよう、少し腕に力を込める。
「何言ってんだよ。アンナは俺のお嫁さんになるんだろ。俺がちゃんとプロポーズするまで待ってろよ。」
腕の中のアンナが動きをとめ、ゆっくりと俺の顔を見上げる。
「お兄ちゃん…わたしとの約束…」
「忘れててごめんな、ちゃんと思い出したよ。」
俺を見上げていたアンナの顔がくしゃりと歪み、堰を切ったように涙が溢れて頬を流れる。俺の胸にしがみついて「良かったよ~」と声をあげて、小さい子供のように泣き出す。
俺は泣きじゃくるアンナの頭を、ずっとなで続けた。
感覚的には小一時間ほど経っただろうか、泣き続けたアンナがようやく落ち着きを取り戻した。
「大丈夫か、アンナ?」
「大丈夫じゃないです。お兄様のせいで、一生分ぐらい泣きました。目も腫れて痛いですし、喉も枯れて痛いです。」
アンナの頭をポンポンと叩きながら「ごめん、ごめん。」と謝ると、むすっと口をとがらせる。
「ヘルミーナさんとマティルデさんが、心配してると思うからそろそろ帰ろう。」
俺は立ち上がって、アンナに向かって右手を伸ばす。アンナは左手で俺の手を取り、立ち上がる。俺はアンナの手を引きながら、アンナの秘密の部屋の扉を開ける。
アンナちゃんは、お兄ちゃんからもらったクマのぬいぐるみをとても大事にしてます。
今回は、アンナちゃんのちょっぴりやばい部分が垣間見えるお話でした。