アンナの憂鬱(アンナの視点)
わたくしはとても憂鬱です。
一大決心をしてお兄様に会いに行き、一緒に暮らせると思っていたのに、お父様から結婚を反対されてしまいました。王政を支えるオーベルト家のルドルフと結婚しろと。
わたくしはお兄様以外、眼中に無いのでルドルフにはまったく興味はありません。それどころか姉であるヘルミーナに対する尊大な態度は目に余るものがありますわ。
さらに許せないのが今日の昼食時のお兄様に対する態度です。なんですかあれは!お兄様を見下した態度は絶対に許せませんわ!いつか捻り潰して差し上げようと思います。
しかし、いくら政略結婚の相手だとしても、お父様はルドルフのような男のどこが気に入ったのでしょうか。お父様は人を見る目が無さすぎます。
「アンナマリア様。ルドルフ様が来られておりますが、如何いたしましょうか?」
「会わないという訳には、いかないのでしょ?」
「はい。申し訳ありません。」
ヘルミーナが申し訳なさそうにして謝る、ヘルミーナに少し当たってしまいました。
「ごめんなさい。ヘルミーナは何も悪く無いですよ。お通ししてください。」
昼食会で会ったばかりなのに、また会わなければならないなんて本当に憂鬱です。
わたくしは、嫌味な顔で部屋に入ってきたルドルフに、作り笑いを浮かべて笑いかけます。
「王の気まぐれには困ったものですね。あのような礼儀も知らぬ下賤な者を、昼食会に招くなど。」
「ルドルフ様。伊澄様はビルゲンシュタットの大事なお客様ですから、そのようなこと事を申されてはいけませんよ。」
「これは、失礼しました。ですが、私の愛するアンナマリア姫に向ける、いやらしい目つきが許せなかったのですよ。異国の者で仕方ないのかもしれませんが、あまりにも度が過ぎましたので。」
お兄様はいやらしい男ではありません!誠実な人です!ルドルフは何という事を言うのでしょうか。
「しばらく王城に滞在するようですから、何かありましたら私にすぐお申し付けください。近衛騎士団の部隊長たる私がすぐに駆けつけますので。」
「ほほほっ。それは心強いお言葉ですこと。ですが、何度も申し上げますが伊澄様は国賓です。無礼は許されませんよ。」
「私の婚約者様はなんと寛大なのでしょうか。あのような存在自体が無礼な男に対してなんと慈悲深いことか。」
ルドルフの身振りを交えての大げさな物言いに、わたくしは呆れてしまいます。やっていて恥ずかしくないのでしょうか。
「ルドルフ。いい加減になさいませ。姫様が困っておられますわ。」
ヘルミーナが私を気遣ってルドルフを窘めてくれました。いつも気を使わせてばかりで申し訳ないのです。
「はっ?姉上こそいい加減にしてください。側仕えごときが私と姫様の会話に口を挟むなど失礼ですよ。いくら兄妹とはいえ、分をわきまえて頂きたいものです。」
この男、また姉であるヘルミーナに対してなんという物言いでしょうか。わたくし、腹が立ってまいりました。ヘルミーナに代わって、ひっぱたいてやりたいです。…そんな事はできませんが。
「おやめくださいませ。わたくし兄妹の争いなど、見たくありません。」
「申し訳ありません、姫様。」
ああ、ヘルミーナあなたが謝らないで、あなたに謝って欲しいわけではないのです。
「まったく、アンナマリア姫のお心を煩わせるとは、姉上にも困ったものですね。どうか無礼な我が姉をお許しください。」
はぁー、誰かこの男の口を塞いでくれるものは、いないでしょうか。
大変です!どうしましょう!
お兄様が居なくなってしまいました。王族に関係する者と分かって、誰かに攫われてしまったのでしょうか?それとも、わたくしに愛想を尽かせて日本に帰ってしまわれたのでしょうか?
そんなはずはありません。日本へ行くための鍵は、わたくしが持っておりますし、転移門はお父様に厳重に封鎖されてしまいました。そもそもお兄様は魔法が使えません。やはり何者かに攫われたのでは…。
「姫様。戻りました。」
「マティルデ!どうでした?お兄様は見つかりましたか?ご無事なのですか?」
わたくしは情報を集めて来てくれたマティルデに詰め寄ります。はやく状況を知りたいのです。
「落ち着きなさいませ。姫様。」
「落ち着いてなどいられません。お兄様に何かあったらどうするのですか!?」
「はしたないですわよ。姫様。」
居ても立っても居られないのに、ヘルミーナは状況が分かっているのでしょうか?お兄様に何かあってからでは遅いのですよ。
でも、立ち上がってマティルデに詰め寄ってしまったのは、やりすぎだったかもしれません。大人しく椅子に座りなおして深呼吸をします。すー…はー。
「そ、それでお兄様は、どうなのですか?」
「はい。イズミ様の護衛に付かれていた兄上に聞いてきましたが、夜更けに側仕えを連れて居なくなってしまったようです。すぐに城内と城周辺を捜索したようですが、今のところ発見できていないそうです。」
「そ、そうですか。…ご無事だと良いのですが。何者かに襲われたわけでは無いのですよね。」
「お部屋が荒れた様子もなかったそうなので、その可能性は低そうです。」
ああ、お兄様。一体どこに行ってしまわれたのですか。ご無事なのですか。アンナは心配過ぎて胸が張り裂けてしまいそうです。
はっ!胸元のいつも潜ませている鍵を握った時に思い付きました。もしかしたら、わたくしの秘密の部屋に行かれたのではないでしょうか?この前も使い方を知らないはずなのに、お部屋に入られていましたわ。あの時は、色々と恥ずかしいものを見られてしまいました。
とにかく一度「秘密の部屋」に行ってみなければ。
「ヘルミーナ、マティルデ、わたくしは秘密の部屋に行って参ります。お兄様がいるかもしれません!」
「お待ちください。姫様!」
わたくしはヘルミーナに止められる前に、鍵を発動させます。
急いで扉を開けて、部屋の中を確認しましたが、お兄様はいらっしゃいませんでした。
「お兄様。いったいどこに行ってしまわれたのですか。」
お兄様が居なくなってから五日が経ちました。いまだにお兄様は見つかっていません。何度か自分で探しに行こうとしましたが、ヘルミーナに見つかり止められてしまいました。
そのかわり、お兄様の護衛をしていたランベルトと話ができる機会を作ってくれました。ヘルミーナに感謝です。ちなみにランベルトはヘルミーナの婚約者です。お兄様と離れ離れのわたくしには、王城で共に働いている二人がうらやましく思えます。
「姫様。ランベルトが参りました。」
「すぐにお通ししてください。」
ヘルミーナがランベルトを連れて部屋に入ってきました。ランベルトが挨拶をして座るまでの時間がもどかしいです。ニコニコ笑ってないで、早く座ってくださいませ。
「それで、お兄様の手がかりは見つかったのですか?」
「姫様のお心を煩わせてしまい申し訳ございません。今、王の命により総力をあげて捜索しておりますので、直にみつかると思います。」
嘘です。そんな筈はありません。お父様はお兄様が居なくなって、むしろ好都合と思っています。わたくしは、碌にお兄様を探していないことを知っていますわ。ですが、そんな事をこの場で言ってもランベルトを困らせてしまうだけです。
「そうですか。他に何か知っていることはありませんか?少しでもお兄様の状況を知りたいのです。」
「そうですね。イズミ様が居なくなられた時、私は部屋の外で警備しておりましたので、あまり状況はわからないのですが。」
この情報は初耳です。護衛騎士が護衛対象の側を離れることは滅多にありません。
「なぜですか?護衛がなぜ、お兄様を一人にしたのですか?」
「一人にはしていませんよ、夜更けでしたので部屋の中にはイルメラと二人でいらっしゃいましたから。」
「なっ!ランベルトそれはっ……失礼しました。姫様。」
横から口を挟もうとしたヘルミーナが、口を抑えて身を引きます。なんだか顔色も悪いようです。何を言うつもりだったのでしょうか。
「そういえば、イルメラも居なくなったのですよね。イルメラは見つかったのですか?」
「いえ、見つかっておりません。今もイズミ様と一緒にいるのではないでしょうか?」
イルメラは、お父様が気に入って側仕えにした下級貴族です。通常下級貴族が王家の側近に入ることは無いのですが、お母様というものがありながらお父様の女性好きには困ったものです。まー、イルメラはお胸も大きくて男性から見れば魅力的なのでしょうけど。
あれ、ちょっと待ってくださいませ。先ほどランベルトはなんと申しました?夜更けにお兄様がイルメラとお部屋で二人でおられたと言ってませんでしたか!
「あ、あの…、ランベルト。…夜更けにお兄様はイルメラと部屋にこもって…その、何をされていたのでしょうか?」
「くくっ。姫様がお考えの事をされていたのではありませんか。」
「そ、そんな破廉恥なこと、お兄様はなさいません!」
ニコニコ笑うのをやめてください!お兄様はそんないやらしい男ではありません!わたくしというものがありながら、そんなはずはありません。…でも、イルメラのお胸は魅力的です。…本当に何もなかったと信じて良いのでしょうか。自信が無くなってきました。
「イルメラは城内の男たちの視線を独占するほど、魅力的な容貌の女性ですからね。イズミ様も手放したくなくなったのではありませんか?いまだに戻られないのも駆け落ちされたと考えれば辻褄が合います。」
「ぶ、無礼者!何という事を言うのです!お兄様に限って…そんなはず…そんなはずありませんわ。」
怒りを通り越して、わたくしは悲しくなってしまいました。今にも涙が出てしまいそうです。お兄様はアンナを捨てて、イルメラを選んでしまわれたのですか?…涙が溢れてしまいました。
「ひ、姫様。…ランベルト下がってくださいませ。」
「失礼いたします。姫様。」
ヘルミーナが私の様子を見て、慌ててランベルトを下がらせました。ありがたいです。ランベルトが部屋の外に出ると、もう涙は我慢できませんでした。大粒の涙がどんどん溢れてきます。
「ずっ…ご、ごめんなさい。…ヘルミーナ…部屋に…ぐす…行ってもいいですか?」
「…仕方ありませんね…なるべく早く戻ってくださいませ。」
溜め息をつきヘルミーナが私の頭を撫でながら、秘密の部屋に行くのを許してくれました。私は胸元にしまっている鍵に魔力を込めて秘密の部屋に入ります。
もう、頭の中はぐちゃぐちゃです。お兄様の馬鹿!浮気者!男の人はみんなお胸が大きなほうがいいんでしょ!どうせわたくしは小さいですよ!
「はぁー…ぐずっ…またやってしまいました。」
気が付いた時には、部屋がぐちゃぐちゃになっていました。大事な絵本やぬいぐるみに八つ当たりをしてしまいました。あーでも、ヘルミーナとマティルデが心配しているでしょうから、そろそろ戻らないと。片づけはまた今度にしましょう。
あっという間に婚約式の前日になってしまいました。お兄様はいまだに見つから無いままです。本当にヘルミーナと駆け落ちしてしまったのでしょうか。
ランベルトにもう一度聞こうと思いましたが、お兄様が行方不明になった責任を取って、お父様の護衛騎士を辞任して家に戻ってしまったそうです。お兄様の事は何も分からなくなってしまいました。身動きが取れない我が身が口惜しいです。
わたくしの憂鬱も最高潮です。
今日は、今から明日の衣装合わせです。
落ち込んでいるわたくしにヘルミーナが、婚約式の為に仕立てられたドレスを着せてくれます。最高級の純白の布に、黒と金の刺繍されキラキラと光る透けたレースが重ねられた豪華なドレスです。とっても素敵なドレスなのにまったく心が踊りません。
「サイズは問題なさそうですね。姫様お綺麗ですよ。」
「ありがとう、ヘルミーナ。」
ヘルミーナが褒めてくれますが、嬉しい気持ちになれません。明日これを着て婚約を誓う相手は、お兄様ではなく大嫌いなルドルフなのですから…。
「明日はそのような浮かない顔をしないでくださいね。」
「それは、…ヘルミーナのお願いでも、なかなか難しいですわね。」
「…姫様。」
ヘルミーナがわたしの顔を見て、申し訳なさそうな表情を浮かべる。そんな顔しないでヘルミーナ。
着付けが終わり姿見の前に立ちます。豪華なドレスに身を包み、長く明るい金髪を丁寧に編み込みアップにまとめ、キラキラと光る髪飾りを挿し、マリアヴェールを纏った、浮かない顔の女が、姿見に映っています。幼いころに夢見ていた花嫁のような姿ですが、悲しくて泣きそうです。
しっかりしなければと思うのですが、もう作り笑いすらできません。心が折れてしまいそうです…お兄様。
ドレスの試着が終わると、ヘルミーナがお茶を淹れてくれました。暖かいお茶で少しだけ気持ちが和みます。
「姫様。本日の予定はこれで終わりです。夜までご自由にして頂いてよろしいですよ。」
「よいのですか?」
傍らに立つヘルミーナを見上げます。
「今日一日ぐらいは大丈夫ですよ。わたくしにお任せくださいませ。そのかわり、その浮かない顔を少しはなんとかしてくださいませ。」
わたくしはお茶を頂いた後、すぐさま秘密の部屋へと向かいます。先日八つ当たりで散らかしてしまいましたから、片付けもしないといけません。
部屋に入って驚きました。八つ当たりで散らかっていたはずの部屋がすっかり片付いています。わたしには分かります。お兄様が来てくれたのですわ。良かった、少なくともお兄様はご無事でおられます。
お気に入りのクマのぬいぐるみを抱いてベッドに腰掛けます。やっぱりここが一番落ち着きますわ。6歳の誕生日にもらったこのクマのぬいぐるみは、お兄様に貰った宝物です。抱いてるだけで気持ちが落ち着きます。それにお兄様が生きていると分かったのです。今は会えなくてもきっといつか会えるはずです。でも…。
「…お兄様。今すぐ…会いたいです…。」
どれぐらい時間が経ったでしょうか、クマのぬいぐるみを抱いたまま寝てしまっていたようです。明日の事を考えると憂鬱になりますが、わたくしは王女の責任から逃れることはできません。大きく深呼吸をして立ち上がります。立ち上がって気付きました。なんでしょうか、机の上に紙が一枚置いてあります。
「これは…。」
わたくしは、おそるおそる紙をめくります。やはりそうでした。お兄様が持っているはずの婚姻届です。ですが…
「名前が…名前が消えています。」
これは、これはどういうことなのですか、お兄様。膝ががくがくと震えて立っていられません。わたくしはへたりと座り込んでしまいました。今日は泣かないと決めていたのに、涙がどんどん溢れてきます。最近は泣いてばかりです。
「お兄様…お兄様にはもう、アンナは…必要ないのですか…。」
ああ、お兄様はもう諦めてしまわれたのですね。もう、この婚姻届は必要ないという事なのですね。アンナはもう…必要ないのですね。
獣のような声が聞こえます。…いえこれは、わたくしの鳴き声なのですね。
ひとしきり泣いた後、婚姻届を机に戻しました。わたくしは王城へ戻らなければなりません。たとえお兄様に見放され、もう会えないとしても、王女として守らなければならない者たちがいるのですから。
秘密の部屋から王城の部屋に戻ると既に夜になっていました。ヘルミーナが私に気付いて近づいてきます。
「ただいま戻りました。ヘルミーナ。」
「お帰りなさいませ。姫様。……ましな顔で戻って来て頂きたかったのですが…酷い顔ですわね。」
ヘルミーナに苦笑いをされてしましました。
ああ、明日が来なければいいのに、私はこれからもずっと憂鬱でいなければいけないのでしょうか。ねぇ、…お兄様。
婚約式までのアンナの状況でした。
アンナ視点で書いてみました。