記憶の鍵
清々しい目覚めだった。体を起こして背伸びをする。俺が起床したのに気付いたハイデマリーが「失礼いたします。」といって天蓋のカーテンを開ける。
「お加減如何でしょうか?お顔の色は戻られたようですが?」
「もう大丈夫です。訓練も今日からまた頑張りますよ。」
「わかりました。準備を致しましょう。グレゴールも喜びますわ。」
ハイデマリーが嬉しそうに笑う。今日からまた地獄の訓練の再開だ。アンナの婚約式まで十日しかない。三日も寝てしまっていたのだ、気合を入れて取り戻さないといけない。
訓練用の服に着替えると、嬉々とした表情のグレゴールが俺を迎えに来た。湖一周アスレチックマラソンも今日から再開だ。三日ぶりのマラソンだったので筋肉痛は無くなっていたが、長いこと寝ていたせいで少し体力が落ちていた。一周するのに前回よりも時間がかかってしまった。
「ご心配は無用です。続けていれば直ぐに戻りますぞ。」
グレゴールが俺の背中をバンバン叩いて励ましてくれる。力が強すぎてかなり痛かったが、グレゴールなりの優しさを感じた。
朝の訓練後、お風呂から上がったところで、サナエ様からの連絡があった。お昼前に少し話がしたいそうだ。昨日、サナエ様に慰めてもらいながら泣いていたことを思い出して、かなり恥ずかしくなる。できるなら床を転げまわりたい気分だった。
はぁーっ、と息を吐いて気を取り直し、準備を整えてサナエ様の部屋に向かう。
「急に呼びつけてしまって申し訳ありません。お掛けになって。」
サナエ様に勧められてソファに座る。向かいに座るサナエ様をチラリと伺いながら俺は口を開く。
「…私の方こそ…昨日は、その…申し訳ありませんでした。」
「ふふふっ。気にしてませんよ。孫をあやしているようで、懐かしかったですよ。」
子供扱いされて顔が熱くなるのを感じていると、サナエ様がクスクスと笑っていた。
「サナエ様。からかわないでください。」
「ごめんなさい。からかうつもりはないのですよ。…本当に、亡くなった子供や孫たち、小さかったアンナの事を思い出して、懐かしく思っていたのですよ。」
サナエ様が少し寂しそうな顔を浮かべる。サナエ様は、アンナとその両親以外の親族を政変で亡くされている。思い出は懐かしいだけでは無いはずだ。あの日、両親が殺された事を思い出した俺には痛い程わかる。
「もう体調は大丈夫ですか?目の前で倒れられた時は、心臓が止まるかと思いましたよ。」
「はい。もう大丈夫です。朝の訓練も今日から再開しておりますので。」
「そうですか。」
サナエ様は、ほっとした笑みを浮かべた後、人払いをして本題を切り出した。
「伊澄くん。…思い出したのでしょ、ご両親の事…。」
「…はい、思い出しました。サナエ様がおっしゃっていた通り、こちらの世界の者に父さんと母さんは殺されました…。」
父さんと母さんが殺された場面を思い出し、俺は膝に置いている手を握りしめる。
「わたくしが至らぬばかりに、申し訳ございません。」
「あ、いえ。サナエ様を責めるつもりはないんです。」
俺の発言がサナエ様を責めているようにとられて、慌てて否定する。
「その、…確かに父さんと母さんが死ぬのを思い出したのは…辛いです。でも、それだけじゃないんです。父さんと母さん、アンナとアンナの両親、皆と居て楽しくて幸せで、そんな時間が俺にあった事を思い出したんです。だから今、記憶を取り戻して辛いだけじゃないんです。」
「そう…ですか。辛いだけでは、ないのですね。」
「はい、俺は思い出せて良かったと思っています。」
それが偽らざる今の本心だった。両親が殺されたのは辛い記憶だが、アンナと出会い、アンナを好きになり、家族みんなが幸せだった事も思い出した。それは俺にとってかけがえのない大切な思い出だった。
「そう言ってもらえて、少し気が楽になりました。思い出してしまったのは、わたくしがご両親のお話をしたせいでしょうから。」
サナエ様はご自分のせいだと思っているようだが、おそらく違うと思う。俺は昨日一日、休みながら考えていたことがある。アンナとの思い出を夢に見た時、約束の事を思い出した時、そして両親の事を思い出した時、俺は鍵を持っていた。じいちゃんが作った、アンナの秘密の部屋の鍵だ。
俺は鍵束から同じ形をした二本の鍵を取り外し掌に載せる。
「サナエ様、これなんですが。」
「それは、アンナの秘密の部屋の鍵ですよね。」
「はい。これは祖父から貰ったものと、先日サナエ様から頂いたものです。もしかしたら勘違いかもしれないのですが、アンナや両親の事を思い出した時、この鍵を握っていたんです。この鍵は祖父が作ったもののはずです。そしてサナエ様は私の記憶を消したのは、祖父だとおっしゃられました。何か関係があると思いませんか?」
口に手を当て、サナエ様は目を泳がせる。
「あの日、伊澄くんのご両親が亡くなられた日。わたくしは反抗勢力がアンナのところに向かった事に気付き、後を追いました。わたくしが着いた時には椋善が既に刺客を倒した後で、その…伊澄くんは魂を抜かれたような状態でした。椋善からは、伊澄くんのご両親の死に関係する記憶を消すと聞かされ、ビルゲンシュタットに戻るアンナの為にとその鍵を渡されました。」
サナエ様は目を閉じて、ふー、と息を吐く。
「確証はありませんが、状況から考えるとその鍵が伊澄くんの記憶を甦らせる『鍵』になっていたのかもしれませんね。」
俺の記憶の鍵はじいちゃんが作った、まさに『鍵』だったのかと思うと少しおかしくなって頬が緩む。俺の様子を見ていたサナエ様の表情もほころんだ。
「伊澄くん。予定外の事はありましたが、アンナの婚約式が行われることに変わりはありません。わたくしは予定通りに事を進めたいと考えております。よろしいですか?」
「問題ありません。アンナの為、いえ自分の為にも頑張ります。」
「ふふっ。ありがとう伊澄くん。」
優しく笑うサナエ様に見送られ、俺は自室へと戻った。
伊澄くんが思い出した記憶をサナエおばちゃんとお話しする回でした。
次回は、魔法の訓練を再開するお話です。
本日更新予定です。




