幼馴染がやってきた
窓から差し込む光を浴びて、キラキラと輝く明るい黄金色の長い髪をハーフアップにまとめ、赤と白のひらひらとしたワンピースドレスを纏った美少女が、居間の座卓を挟んで俺の前に座っている。
女性らしい丸みを帯びた小さな顔の中で、赤い瞳のするどい眼差しが俺に向けられている。
それだけでも気圧されているのに、二人の女性が美少女の後ろに控えるように座っていて、圧迫感が半端ない。
一人はメイド服のようなドレスを着て、左右の肩に赤毛の三つ編みをたらす20歳ぐらいの女性だ。頬に手を当て、ニコニコしながら、こちらを見て微笑んでいる。
もう一人は、ピタっとした西洋軍人の正装のような軍服を着て、ブルグレーの銀髪をポニーテールでまとめた、こちらも20歳ぐらいの女性だ。背筋を伸ばし、すんとした表情で鋭い眼光をこちらに向けている。
俺はごくりと唾を飲み、腰にぶら下げている鍵の束をジャラジャラといじる。
美少女が一枚の紙切れを座卓の上に取り出し、白い手ですっと俺に向けて差し出す。紙切れは、なんと婚姻届だった。そして、すでに八重川伊澄と楠アンナという名前が書き込まれている。目の前の美少女は、楠アンナという名前で、記入されている生年月日からすると16歳になっているが、昔、妹のように可愛がっていた俺の幼馴染だ。
「さあ、お兄様。こちらに判を押してくださいませ!」
「いや、アンナちゃん。いきなり婚姻届を差し出されても困るんだけど…」
「お兄様は、約束を守ってくれないのですか!ひどいです!」
たじろぐ俺に、アンナは身を乗り出して婚姻届をぐいぐいと押し付ける。いや、約束とか、ひどいとか言われても、いきなりすぎて意味がわからないから。
とりあえず、落ち着くように諭して、はぁーと息をはく。
アンナは、口をとがらせて不満そうにこちらを睨んでいる。
今から小一時間程前の事を思い出す。
祖父の葬儀が終わって数日、諸所の手続きなどで忙しく駆け回っていたので、落ち着く間がなかった。やっと時間が取れるようになったので、昼食の後、作業したまま放置状態になっている自宅隣接の工場へと向かった。
工場のシャッターを開けようと、ツナギのベルト通しに引っ掛けている鍵束を手に取る。
「じいちゃんの形見になっちゃったな…」
この鍵束は自宅や工場の鍵を一つにまとめたもので、祖父が持つすべての物を受け継いだことを意味する。祖父の工場で働きだして2年ほどたった頃、一通りの作業ができるよになった俺に、一人前の証として祖父から託された大事なものだ。
鍵束は丸いリングに短い鎖が幾つか通してあり、その先に10本ほどの鍵がつけられている。リングには留め金も付いていて、服に引っ掛けられて便利だ。鍵の中には、用途が不明な物も幾つかある。
鍵束の中からシャッターの鍵を取り、鍵穴に差し込もうとした時、不意に人の気配を感じた。工場の中からだ。
泥棒か!?でかい機械ばっかりで金目の物なんかないぞ!?あーでも、警察を呼んだ方がいいのか?などと、瞬時に思考がめぐる。しかし、とりあえず本当に中に人が居るのか、確認しなければと思い至る。
何かあった時の為と思い、シャッターの脇に置いてある廃材の中から、手頃な長さの鉄パイプを右手に握る。緊張で汗ばむ左手に鍵を握りカチャリと開錠し、ゆっくりとシャッターを開けていくと、薄暗い工場の中に光が差し込んでいく。
そこには、まるでおとぎ話に出てくるお姫様のような長い金髪を揺らし、赤と白のドレスを纏った少女と、従者のように付き従う二人の女性が立っていた。
予想もしていなかった人の姿に驚き、手にしていた鉄パイプを落とす。カランカランと金属音が工場の中に響く。
鉄パイプの音で俺に気付いた少女は、ぱぁーっと満面の笑みを浮かべ、「お兄様!」と言って抱き着いてきた。いきなり美少女に抱きつかれた俺の頭の中はパニック状態だ。
「ちょ!な、お前ら何?勝手に中に入って!こ、困るんだけど!」
「ひゃっ!」
少女の肩をガシッっとつかみ、俺の体から強引に引き離すと、少女は小さく悲鳴を上げて目を丸くし、驚いた表情をする。
少しの間をおいて、少女は顔をしかめて頬をぷくっと膨らませる。
「もう!お兄様!もしかして、わたくしのことが、分からないのですか?」
「いや、君みたいな女の子、俺は知らないけど…」
「ひどいです!」と、憤る少女の肩を、横にいた従者っぽい人が、軽く叩き「落ち着いてくださいお嬢様」と窘める。
お嬢様と呼ばれた少女は胸に手を当て、ふーっと息を吐く。
「わたくしはこの10年間、お兄様の事を一日も忘れたことはありませんでした。それなのにお兄様が、わたくしの事を忘れてしまっているなんて、あんまりです!」
10年間という言葉に、ハッとする。先日見た夢に出てきた女の子の事を思い出す。
キラキラと輝く明るい金髪―
白い肌と潤んだ赤い瞳―
全身で感情を表す、夢で見た女の子の姿が、目の前に居る少女と重なる。
「も、もしかしてアンナちゃん?」
少女の顔が、ぱぁーっと明るくなり頬が紅潮する。僕の両手を握りブンブンと上下に振り回す。
「そうです!わたくし、アンナです!思い出して頂けましたか、お兄様!」
記憶が繋がり、目の前にいる少女が幼馴染の楠アンナであることを認識していく。
俺の両親とアンナちゃんの両親はとても仲が良く、同じマンションに住んでいたこともあり、家族ぐるみの付き合いをしていた。アンナちゃんとは八つ程年が離れており、少し年の離れた妹が出来たようで、「お兄ちゃん」と慕ってくれるのがとても嬉しくて、ものすごく可愛がっていた。あんなに可愛がっていたのに、何故忘れてしまっていたのか自分の薄情さに少しへこんだ。
とはいえ、両親が亡くなり、俺が祖父に引き取られてから、10年の歳月が経ち幼女から少女へと成長した姿で、すぐに気付けないのは仕方がないと思うので許してほしい。
そして、とりあえず落ち着いて話をしようという事になり、自宅の居間へと三人を案内したのだが、婚姻届を突きつけ結婚を迫る幼馴染に、俺はとても困惑している。
腕を組み、考え込むふりをしながら、改めて目の前に座るアンナの姿をチラリと覗き見る。
夢に見て思い出した記憶の中の小さなアンナちゃんは、幼いながら将来が楽しみな整った容姿だったが、今、目の前にいる成長した姿は、俺の当時の想像を軽く超えていた。
100人に問えば、100人が美少女と認定してくれるだろう。
そんな子に結婚を迫られている状況は、正直男として嬉しいし、ある種の優越感もある。だが、俺にとってアンナは妹のような存在なのだ。結婚と言われても困ってしまう。
「まさかお兄様は、わたくしとの約束を忘れてしまったのですか?」
そして、「約束」だ。
子供の頃、アンナと遊んでいた記憶は色々と思い出せるのだが、結婚を誓うような「約束」をした覚えがまるでない。
確かに、小さいアンナちゃんが「お兄ちゃんのお嫁さんになるー!」と言ったような発現をしていたのは、なんとなく覚えがあるが、幼い子供の発言だなと受け流したぐらいの記憶しかない。
アンナが感情むき出しで、ここまで言うのだから、何かしらの「約束」をしたのかと記憶を探るが、どうしても思い出せない。覚えてないぐらい軽はずみに、何かを約束してしまったのかと、罪悪感を感じる。
俺は可愛い妹のようなアンナを傷つけずに、どうやって納得してもらえばいいのか、頭を悩ませる。
「わたくしは、ずーっと、ずーっと、お兄様とお会いするのを待っていたんですよ!それなのに、それなのに、大事な約束さえも忘れてしまわれているなんて、ひどいです!」
「ご、ごめんよ、アンナちゃん。…本当に思い出せないだ。俺、結婚なんて約束したのかな?それに子供の時のそういう約束を守るって、なかなか無いと思うんだけど…」
アンナが赤い瞳を潤ませて頬を膨らませる。今にも泣きそうな顔を見て、あー!失敗した!と気持ちが焦る。
「ひどいです!ひどいです!ひどいですっ!お兄様が、ひどいですーーっ!」
叫びながら、両腕をブンブンと振り回すアンナを、後ろに控えていたメイド服の女性が「お嬢様、はしたないですよ。」と窘める。アンナは、顔を両手で多い、「ひどいです!ひどいです!」と、不満を吐いている。
俺は「ごめんね、アンナちゃん。」と、ひたすた謝ることしかできない。情けなくなってくる。
「あの、イズミ様。」
「はい!」
急にメイド服の女性に声を掛けられ、俺は背筋を伸ばす。
「申し遅れましたがわたくし、お嬢様のお側仕えをしております、ヘルミーナと申します。あちらに控えているのはマティルデ、お嬢様の専属護衛です。」
護衛と紹介された軍服の女性が、ポニーテールを揺らして軽く頷く。
「いきなりのことでイズミ様も混乱されていることと思いますし、お嬢様もこのような状態です。少し落ち着くためにも、どこかお部屋を貸して頂けないでしょうか?」
ああ、ヘルミーナさんが冷静で優しそうな人で良かった。
正直なところ、自分も落ち着いて考える時間が欲しかったので助る。
俺は目に涙を溜め、むすっとして睨んでくるアンナと、ヘルミーナさん、マティルデさんを連れて階段を上り、二階の空き部屋へと案内する。
二階には四つ部屋があり、一つを俺の部屋にしている。残りの三つは完全な空き部屋で、中は空っぽだ。祖父との二人暮らしだったので、当然と言えば当然なのだが、部屋は余っている状態だ。
階段を上がった両側に向かい合う形でまず二部屋があり、その奥にまた向かい合う形で二部屋ある。手前の左手側の部屋を俺が使っているので、その向かいの部屋の扉をあける。家具一つない完全な空き部屋だが、掃除もたまにしているので、三人でしばらく話をしてもらう分には問題ないだろう。
「何もない部屋ですいませんが、落ち着くまで自由に使ってください。俺は下にいますので…」
「ありがとうございます。イズミさま」
部屋の入り口で、胸に手を当て上品にお辞儀をするヘルミーナさんを見て、改めて今の自分とアンナの違いを実感する。俺は日々油にまみれる町工場の職人で、アンナはまるでどこか知らない国のお姫様のようだ。
子供の頃に会ったことはあるはずなのだが、アンナの両親の事はあまり思い出せない。極々一般的な同じマンションに住んでいたので、ものすごいお金持ちや地位のある人達では無いと思っていたが…、今のアンナの姿やイルミーナさん達の様子を考えると、日本ではない他の国の貴族や王族ではないかと思ってしまう。
階段を降りながら、お茶ぐらい出さなければと思い台所へ向かう。湯呑や急須を準備しながら、電気ケトルでお湯を沸かす。手を動かしていると、少し気持ちが落ち着いたので考えを巡らせる。
アンナが俺に好意を寄せてくれるのは嬉しいが、そもそも俺には恋愛や結婚というものがよく解らない。
中学生の時に両親を亡くし、年老いた祖父との二人暮らしで、ずっと自分の事だけで精一杯だった。周りの人達のことを気にかける余裕は俺には無かった。もちろん友達と呼べる人もいたし、仲良く話せる女の子もいたが、付き合いを深めたいと思うことは無かった。
そんな浅い人付き合いしかやって来なかったせいで、高校を卒業してから連絡の取れる人は本当に数人だ。
俺は祖父さえいてくれれば、それでいいと思っていた。
ここ数日、わざと忙しく動き回り、考えないようにしていたが、祖父を失った事を思い出し、ぐっと胸が締め付けられる。俺は腰にぶら下げている鍵束をジャラリと触る。
「じいちゃんが、生きているうちに結婚してたら、喜んでくれたのかな…」
思わず口に出てしまい、俺は奥歯を噛みしめる。
アンナに限らず、自分のような人付き合いも苦手で、何も無い人間と結婚したら、とんでもなく負担になるだろうと思う。改めて自覚するとさすがにへこむ。
お湯が沸き、急須にお湯を注いでいると、二階からドスン!ドスン!と、家が壊れるのではないかと思うほどの音と衝撃する。天井からパラパラと埃が舞い落ちる。
「な、なんだっ!?」
淹れかけのお茶を放置して、急いで階段を駆け上がり二階に向かう。そして、アンナちゃん達が居る部屋の前に立ち扉をたたく。
「す、すごい音がしたけど、大丈夫か!?」
扉がガチャリと開いて、ヘルミーナさんが顔を出し畏まる。
「お騒がせしてしまい、申し訳ございません。少々部屋を誂えておりました。」
「誂えるっていったい…」
部屋の中を覗き見て驚愕する。わずかな時間にどうやって整えたのか、毛足の長い絨毯の上に洋風の豪華なローテーブルとソファが設置されており、部屋の奥には天井いっぱいまである天蓋付きのベットが、部屋幅いっぱいに収まっていた。
常識的に考えてありえない状況に、困惑しすぎて考えるのをやめた。
「お嬢様も落ち着かれましたので、どうぞお入りください。」
「はー…はい。」
ヘルミーナさんに招き入れられ、呆然自失で部屋を見渡していると、ソファに座るように勧められる。深々とした座り心地の良い上等なソファに座ると、ローテーブルを挟んだ向かいのソファに、落ち着きを取り戻しニコニコ笑うアンナが座っていた。
「お兄様、お茶でも飲んで落ち着きましょう。」
「あぁ、じゃー俺が…」
お茶を淹れかけていたのを思い出し、立ち上がろうとすると、これまたいつの間に用意したのか、ヘルミーナさんが目の前のローテーブルに高そうなティーセットを並べてお茶を淹れていく。
アンナがティーカップとソーサーを優雅に手に取り、コクリと一口飲む。
俺もマネするように一口飲む。ほのかな酸味と甘さがあり、口に残るほんのり甘い後味も心地よい。今までで飲んだことのある紅茶とは、明らかに別物だった。これが上流階級の紅茶か!
「先ほどは、取り乱してしまい申し訳ございません。お兄様。」
「いや、まー、別に…俺が覚えていないのが悪いし。」
俺がしどろもどろになっていると、アンナは頬に手を添えて、はーっと息を吐く。
「わたくし、少々焦ってしまっていたようです。お兄様の事を、もっときちんと考えるべきでした。突然現れて、不躾に結婚などと言われても困りますよね。」
「そうだよ。わかってくれたようで良かったよ。」
アンナが俺の心情を理解してくれて助かった。これで改めてアンナを説得する必要は無くなるだろう。
「はい。ですから、わたくし、しばらくこの家に住まわせて頂き、お兄様に約束を思い出して頂けるように、精一杯頑張りたいと思います!」
「ぐぶっ!…げほっ、ごほっ」
俺は飲みかけた紅茶でむせる。
「わたくし、お兄様の事は絶対にあきらめませんから!」
アンナは全然わかってくれてないようです。
幼馴染のアンナちゃんがやってきました。
結婚の意思は固いようです。
まだ、しばらくは異世界には向かいません。