11 灯台
丘の上から見下ろす夜景は、線路を境に広がる港町から海までを一望できます。
真夜中でも明かりが連なっているメインストリート。夜が更けるにつれて明かりが消えて点々としていく住宅街。暗黒の海に差す一筋の灯台の光。
私の知る高所からの夜景は、面白みのないありきたりなものでしたが。
「フルーさん、あとちょっとなんで!」
「……さ、先程も、そのように、言って、いました、ね」
「今度はマジなんで! 頑張って!」
全身がどくどくと脈打っています。握る手から伝わる体温は燃え盛る炎のよう。全身から汗が流れ出るほどです。未だかつて、これほど熱を感じたことがあったでしょうか。
ルドルフさんと海岸沿いを走って、途中でダウンした私を抱えてルドルフさんが走って、そして着いた先は灯台でした。警備員の方はルドルフさんのお知り合いのようで、すんなりと中へ入れてくれました。
そうして私は、これまたルドルフさんに引っ張り上げられながら、螺旋階段を瀕死で登っているのです。
息も絶え絶え、ようやく一番上の展望台へ。
「俺の一番好きな場所なんです、ここ」
ルドルフさんが笑顔で両腕を広げました。静かな海風に吹かれて髪やドレスがなびいていきます。夜の空気に溶けていくように。
町の喧騒の届かない高台に二人きり。今夜限りの世界征服。
私は手すりに手を置き、ゆっくりと見渡しました。落ちたら怖いな、と思ったところでルドルフさんが横に来て、町を指差しました。
「あれ、本部のある通りです。わかりやすいですよね。ちょっと離れたとこに俺らの寮とか商店街とかもあって。あっちは飲み屋街、あの無駄に光ってるのが歌劇見た劇場ですね」
おうちからだと遠かった海が目の前にあって、おうちからだとただ暗かった住宅街が明るく見えて、おうちからだと線にしか見えなかったメインストリートが光で溢れています。
この町は、これほど眩しかったでしょうか。
ルドルフさんの指先に導かれて、私の知らなかった港町を望みます。
隣にある小さな村、私の住むおうち、丘の傾斜を利用した畑、林から伸びる細い川。視点を変えれば、見える風景も様変わり。
天気の良いと海の向こうに島が見えるのだとか。海岸から離れた船が遠のいて、最後は水平線から帆だけちょっとだけ見えたりもするそうです。
「下見たら人間がちっちゃくて猫はほぼ見えなくて、上見たら太陽とか星が手の届かない距離にあって」
楽しそうに話してくれる声をもっと聞きたくて、顔を近付けたら髪が当たってくすぐったくなりました。
「世界、すげえ広くないですか? 嫌なこととか、小さく思えてきません?」
ルドルフさんがかがんで、私と同じ目線の高さになりました。さらりと私の前髪を持ち上げて、ふわっと微笑むのです。
「フルーさん、俺と会ったとき、なんか泣きそうな顔してたんで、連れて来るなら絶対ここだなって思ったんです」
あぁ。私は、あなたのそういうところが、好きなのです。
呼吸を整え、私はルドルフさんを話しかけました。「長くなるかもしれませんが」と前置きしますと、「俺、夜更かし得意なんで」と返ってきました。
すうっと息を吸い込み、視線は凛と佇む満月に。
「……私のお父様はこの国の大臣をなさっていて、お母様は歴史ある家の末娘で、その両親の長女が私です」
「わ。なんかすごそうですね」
「そうでしょうか。お父様は地位のある家の出ではなかったのですが、勉学が秀でていらっしゃったようです。閣僚としては若くして出世なさったので、周囲はすでに権力も名声も確立なさっているお年を召した方ばかりで、肩身が狭い思いをなさっています」
お父様はおうちでお仕事のお話をなさいませんから、私は新聞記事から読み取ることしかできませんが。
「お母様の実家は歴史こそあれど権勢は衰えていますし、そのか弱い後ろ盾も永遠ではありません。ですから、お父様もお母様もきっと、新たに強い権力との結び付きが必要だとお考えなのでしょう」
脳裏をよぎるのは、縁談のお相手でした。私にはもったいない面々でしたけれど。
「大臣の娘はどこかに嫁いで家と家を血縁的に繋ぎ、家ひいては大臣の権威を高めなければなりません」
かすかに秋の気配が混じった風が通り、それに重なってルドルフさんが息を呑む音がしました。もうすぐ夏も終わりですね。
「ルドルフさん。私はここに永住するつもりはありません。引っ越してきた当初より、そう思っていました」
この港町への引っ越しは、ここ何年にも渡って、両親がお仕事の都合により家族旅行を中止させたことが発端でした。優雅な船旅や他国への長旅、楽園での休暇、その他諸々の旅行の代わりが、この港町への短期移住。
私はいつか王都に帰らなければなりません。仲の良い友人たちも、お世話になった警護のじいやも、みんなみんなあそこにいますから。
「けれど……」
ルドルフさんを見上げ、目を合わせて、つい口をつぐんでしまいました。
言葉には責任が伴います。私は、自分が好き勝手に言っていい立場の人間ではないと、自覚しています。
これは私が言っていいことなのでしょうか。もし言ってしまえば、ルドルフさんは困ってしまうでしょう。私が我慢すればいいだけの話に、ルドルフさんを巻き込むのはよくありません。
生活環境も人間関係も異なる私たちが、お互い苦労するとわかってまで共にいることは、はたして幸せなのでしょうか。思いやることが愛だとしたら、ここで私は取るべき行動は慎んで身を引くことなのではないでしょうか。
一歩後ろに下がると、するりと手首を掴まれました。視線は交差したまま、やや低い声が空気を震わせます。
「フルーさん、言って」
私は、私は、
「ごめんなさい、私はあなたと一緒に生きていきたいです……」
たった一夜の恋ならば、簡単に忘れられたかもしれません。けれど、今年の夏は長すぎました。到底、忘れられそうにないのです。
ルドルフさんの手首を掴む手が、少し下がって私の手を握ってくれました。すうっと持ち上げて、口元に。
「俺もそう思ってたところです」
そう言って私の指先にキスをし、にこっと笑ったルドルフさんは、お月様より輝いて見えました。
手を繋いだまま二人で夜空を見上げていると、ルドルフさんがおもむろに口を開きました。
「あの、俺、時々思ってたことがあるんですけど」
「はい」
「俺が灯台好きじゃなかったら、フルーさんが引っ越してきてもわかんなかっただろうし、仕事で望遠鏡渡されてなかったら、洗濯物干してるフルーさんを見つけれなかったと思うんですよね」
続けて小さく「つか、そもそも俺がスカウトされてなかったら海軍にもなんなかったし」と。
私は海軍の採用基準を知りませんが。
「ルドルフさんはとても運が良い、ということですか?」
「俺っていうか、俺らですよ。俺らの出会いって、めちゃくちゃ色んな偶然が重なってて、つーか重なりすぎてて、ヤバくないですか?」
突然この方は何を言っているのでしょうか。私は呆気にとられましたが、ルドルフさんは淡々と至極真剣に言いました。
「偶然にしては出来すぎてます。これは運命か、はたまた神の陰謀か、あるいは奇跡ってやつですよ。俺ら、天を味方につけてるんで、あんまり気負わなくてもいいと思うんですよね」
私は返す言葉を失いました。この方は、なんてスケールの話をしているのでしょうか。
そしてルドルフさんは唖然としている私に、まるで近場をデートする風に、ニッと笑って提案しました。
「まぁ、もしうまくいかなかったら、俺と二人で旅しません? 世界すげえ広いんで、一生かけて巡りましょ」
この方は、この方は……。
なんだか、私の肩の力が抜けました。このようなことを言われてしまったら、もう笑うしかありません。とんでもないことを言われたら、人間笑っちゃうしかないのです。
ふふっ、と笑いを漏らすと、「俺、本気ですよ? 安心してください、貯金ならあるんで」と追い打ちをかけられました。
ルドルフさんのそういう、何事も愉快そうなことに変えてしまうパワーはずるくて、本当に本当に好きなのです。
けれど、ルドルフさんの言う通りかもしれません。ここ来たら、私が悩む嫌なこと、小さく思えてきました。
住宅街の明かりがすっかり消され、月は高い位置に移動しており、猫さんたちもおうちに帰った頃合いに、こっそり私はパーティーに戻りました。
ルドルフさんが『裏口こっちです』と、警備員のいないタイミングを見計らって送ってくれたおかげです。
お父様もお母様も他のゲストの方々と談笑していて気付いていませんでしたし、シルーは色々な若い海軍の方々とお話していました。私の家族が交流の盛んな方ばかりでよかったです。
ふう、と深呼吸して輪に戻ります。何か言われたら、猫さんと遊んでいたと言いましょう。嘘ではありませんし。
大騒ぎになっていたらどうしようと思いましたが、完全に杞憂でした。私は少々考えすぎる性格なのかもしれません。変に一人で悩むより、明るく前向きに考えたほうがいいのかもしれません。
私もルドルフさんを見習ってみましょう。
よし、決めました。
私、ルドルフさんとのことを、両親にきちんと打ち明けてみます。今ならうまくいく気がするのです。
なんたって、私たちは天を味方につけていますから!