第4話
話の区切りの都合上短め。
二日後の夜半過ぎ、シルヴェオに呪いをかけた犯人たちは捕縛された。
捕縛直後に一報を受けたマリアーナは青ざめた。
シルヴェオが刺されたという知らせが、ともに届いたからだ。
マリアーナは着替えもとりあえず、慌てて館に向かった。
館の応接室に入ると、捕縛された賊は連行された後だった。
だが部屋は酷いありさまで、水槽が割れ水とガラス片が床に飛び散っていた。
重厚なカーテンは無残に破れ、机や長椅子が切り裂かれ中身が飛び出た状態で乱雑にひっくり返っている。高価そうな壷や置物も見事に粉々だった。
そんな中、ガラスを踏み歩く武装した男たちの間に、横たわっている魚を見つけたマリアーナは駆け寄った。
「シルヴェオ!」
シルヴェオの腹には、マグロ包丁が刺さっていた。
魚の身から飛び出ている刀身の長さから、刃渡りはマリアーナの肘から指先までほどあろうかという大きな包丁である。
「これは……」
「シルヴェオの入った水槽を守り切れず、交戦中に水槽を割られた。その勢いで飛び出したシルヴェオを、賊が刺したんだ」
転がっている魚の傍に座り込み、見守っているハロン氏が言った。
「マグロ包丁……。念のために伺いますが、それは年配の男女二人組ではありませんよね?」
「いや、賊は若い男が三人だった。男女二人組と言うのは?」
「いえ、お気になさらず。わたしの早とちりですわ」
マリアーナは犯人が両親でなかったことに深く安堵した。
凶器のマグロ包丁を見た瞬間から、気が気でなかったのだ。
ハロン氏は眉間にしわを寄せ難しい顔をしているが、落ち着いている。
だが、よく見るとシルヴェオの顔に触れているハロン氏の手はかすかに震えており、それだけがわずかに事態への動揺を現わしていた。
「包丁を抜いていいものか思案していたんだ。抜くと出血が多すぎて死んでしまうかもしれない」
「そんな……。お医者さまは?」
「魚は専門外で判断がつかないそうだ」
ハロン氏は隣に膝をついてしゃがんでいた老紳士を見やった。
曇った表情をした彼は、万一のために待機していたハロン家の医師だそうだ。
「この深さで刺さっている包丁を抜いたら、輸血しなければ失血死してしまう。
しかし魚に人間の血は輸血できないんだ」
「だが迷っている間にも息子は弱っていく。
このままだと遅かれ早かれ死んでしまうんだ。思い切って包丁を抜くしかないだろう」
ためらう医師と、早く包丁を抜くべきだと主張するハロン氏。
二人の言い合いを聞きながら、マリアーナの頭にふと思い浮かんだことがあった。
「わたしが銛でシルヴェオの肩を刺した時、ぐったりしていて血はたくさん出ましたが、押さえるだけで止まりました。彼が言うには、呪いのおかげか死ぬことはなかった、と」
「呪いで……?」
「だが肩と腹は違う。腹には内蔵が詰まっている。肩に傷を負うよりも重篤だ」
「それでも抜くしかないだろう。彼女の経験に賭け、息子が持ちこたえることを祈るしかない」
男たちは話し合った結果、マグロ包丁を抜く決心がついたようだ。
ハロン氏がシルヴェオの身体を押さえ、医師が包丁の柄をつかむ。
柄を握る手に力を入れ、慎重に抜いていく。
シルヴェオは声もなくびちびちと跳ねたが、ハロン氏が暴れないようにぐっと押さえた。
包丁が抜けると同時に、鮮血が大量に流れ出る。
医師は清潔な布で傷口を押さえた。布はあふれ出た血ですぐに染まるが、医師は慌てることなく布を取り替えていく。
「シルヴェオ!」
ハロン氏が叫んだ。
彼が見ていたのは、シルヴェオの目が色を失い濁っていくところだった。
いつもの虚無の瞳ではなく本物の死を感じさせる変化に、マリアーナの心は凍り付いた。
「シルヴェオ」
マリアーナはシルヴェオに呼びかけたが、喉が締めつけられささやくような声しか出なかった。
ただの魚の死ではなく「シルヴェオ」が死ぬのだと、マリアーナの頭はこんな時に冷静に考えられていた。
マリアーナはもう一度、今度ははっきりと呼びかけた。
「シルヴェオ、死なないで 戻って来て!」
シルヴェオの身体は魂の抜けた空っぽの器のように見えた。市場に並べて売られているただの魚のように、ぴくりとも動かない。
医師は身体のあちこちを調べると、やがて暗い顔で目を閉じ、首を振った。
ハロン氏はシルヴェオの身体から手を離し、目を覆った。
マリアーナは、心の中にあった大きなものを失ったと感じた。
この数日間一番近くで寄り添ってきたシルヴェオは、短い間だが心を大きく占める存在になっていたのだと、彼女は今になって気がついた。
それは、まだ名前をつけるような関係性でも存在でもなく、またただの魚でもない、かと言って人間でもない、「シルヴェオ」という名のついた場所が、心の中に作られていた。
失われて初めて、それがよくわからないが大切なものであったと気づいたのだ。
思わぬ喪失感に重苦しく痛んだ胸を、マリアーナはぎゅっとつかんだ。
その時、シルヴェオの脚のあたりで何かがきらめいた。
視界の端にそれを捉えたマリアーナが息を詰めて見つめていると、それは鱗だった。
膝から足首に銀色のきらめく鱗が生え始め、長く尖った背びれが生える。銀色の魚の肌がじわじわと、だがどんどん速度を上げ足先に向かって侵食していく。そしてくるぶしから爪先にかけては黒銀色に染まり、尾びれに変わっていった。
「シルヴェオ!」
マリアーナが見ているうちに、人間のものだった脚はすっかり魚の身体に変わった。
とうとう呪いが完成したのだ。シルヴェオの身体は、完全に魚になってしまった。
死してなお魚のままだとは、なんて残酷な呪いなのだろうと、マリアーナはシルヴェオを哀れに思った。
その魂はすでに失われ、人間の形までも失い、シルヴェオ・ハロンと言えるものはもう存在しない。
彼は魚の姿で墓に埋葬されてしまうことになるのか。マリアーナは心の痛みに唇を噛みしめた。
マリアーナは、最後にシルヴェオの望みを叶えることに決めた。
出会った時から必死で願っていたことのうち、ひとつは叶えてやれる。
シルヴェオのことを愛しているわけではないが、口づけぐらいはせめて贈ってやろう。
マリアーナは屈み込むと、魚のわずかに開いた口にそっと唇を触れさせた。
その瞬間、魚の身体から柔らかな金色の光が立ち上り、魚とマリアーナを包み込んだ。
まぶたの裏に光を感じ、マリアーナは驚いて目を開き顔を離した。
光は魚の姿が見えなくなるぐらいに強くなっていき、マリアーナは手でまぶたを覆ったが、これ以上は目を閉じていても眩しいと感じるほどになった時、炸裂して消えた。
光の消えた魚は、頭から爪先まで人間の姿に戻っていた。
鈍い銀色の髪に日に焼けたブロンズ色の肌。滑らかな筋肉質の身体にある腹の傷は、まだ生々しく痛そうに見えるが、血は止まっている。
男の顔は色を失っていたが、やがてまつげを震わせると、目をゆっくりと開けた。
それは魚の時と同じ、紺青の瞳だった。
シルヴェオはゆっくりと上げた右手を見つめ、確かめるように裏返す。
「俺は……戻った?」
かすれた声でつぶやいた彼の右手をつかみ、瞳を潤ませたハロン氏が笑顔で答えている。
だがマリアーナは死んだはずの見慣れた魚が、生きた見知らぬ男になってしまったことに戸惑い、その光景を茫然と見ていた。




