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第3話

 サロメを送り出した後の浴室は、沈鬱な雰囲気だった。

 シルヴェオは口をぱかりと開いて浴槽に仰向けで浸かり、ひっくり返った魚の死骸のようになっていた。


「他の女性を連れて来てもらう? もっと落ち着いて迫れば今度はいけるかもしれないわよ」

「……それでもこの顔と姿だぞ。この口に口づけしてもらえるまでに、どれほど時間をかければいいんだ」


 シルヴェオは重く沈んだ声で言った。

 マリアーナは浴室の湿った空気を払拭しようと、努めて明るく声をかける。ただでさえ湿気の多い水場にこの空気、いくら魚でもかびてしまう。


「魚の頭がうまくいかない大きな要因ではあるけど、焦りすぎるところも女性からしたら引いてしまうのよ。愛を育むにはそれなりの時間をかけないと。

 わたしは知らないけれど、今までのように自信を持った姿を見せればいいんじゃない? ほら、あなたいいお尻してるし、そういうところを全面に押し出せば?」


 淑女は身体の一部の名をみだりに口にしたりはしないのだが、元海軍大佐の娘は海の男たちの粗野な言葉に慣れており、今は周りに咎める者もいないため、臀部を表す言葉はなめらかに口から発された。

 シルヴェオを励ましたマリアーナの脳裏には、海を背景に砂浜を駆ける魚男の引き締まった尻が、アンラッキースケベな記憶として今も鮮明に焼き付いている。


「自信か……。自慢じゃないが、今まで俺は自分から女に言い寄ったこともないし、振られたこともない。いつも言い寄って来るのは女からだったし、仕事が楽しくてそんな女たちは軽くあしらうばかりだったんだ。

 そんな俺がまさか、ずっと俺に秋波を送っていたサロメに断られるとは思ってもなかった。

 ……思うに、今までの俺が格好良すぎたんだよな。だから今の姿との落差が大きいんだ。港町一の色男が、今や小便も一人でできない魚男だぞ。

 自信を持つなんて言ったって、こんな見た目と身体で自信なんか持てるか? たしかにケツはいい形だと自負してるが、手は使えず、ひれをばたつかせるか跳ねるしかできないんだ。戻ったって今までのようには仕事もできない。そんなダサい男を誰が相手にする?

 ましてや、それがあの『港町の暴れ鮫』と呼ばれた俺だぞ。どれだけ皆に馬鹿にされ、蔑まれるか……そんな男に女なんて寄ってくるまいよ。ギョギョ……」


 シルヴェオは、自画自賛しながら落ち込むという器用さで、めそめそうじうじしている。


「暴れ鮫って、結局魚じゃない。今と変わらないのでは?」

「何言っているんだ! この身体の背びれはそんなに大きくないし鼻も長くないだろう? この魚は鮫じゃない」


 なぜ魚の姿にこだわる。鮫時代は人間の姿ではなかったのか

「ギョギョ」などとわけのわからない鳴き声まで飛び出す不安定さに、マリアーナはつき合いきれないと内心ため息をついた。

落ち着くまでしばらく一匹にしておこうと、マリアーナは浴室の扉を開けて外に出ようとした。


「魚のままの俺じゃ、何もできない役立たずなんだ……」


 シルヴェオは拗ねたようにひれで水面をひと跳ねさせ、また水に沈み込む。

 ちらりと振り返ってその姿を見たマリアーナは、驚きに目を見開いた。


「シルヴェオ、脚が!」

「なに? ……っ!? なんだこれは!」


 シルヴェオの身体は、いつの間にか膝の上まで鱗に覆われ魚になっていた。


「呪いが進んでいる……? もしかすると、呪いはまだ完成していないのか?」

「それは、このまま進むと全身が魚になってしまうということ?」

「ちくしょう……」


 シルヴェオは茫然とつぶやいた。




    ◇◆◇◆◇◆◇




 数日後、マリアーナとシルヴェオはハロン商会の馬車に乗っていた。

 シルヴェオ・ハロンの父が、大きな水槽を積んだ馬車を迎えによこしてくれたのだ。

 水槽に入って揺られるシルヴェオは、膝から下を視界に入れなければ完全にただの魚だった。


「わたしまでついて行かないといけないかしら?」

「マリアーナは俺と生活していたから勝手もわかっているし、相談にも乗ってくれる。他人事だと思ってしているであろう助言は大して役には立たないが、何もない今はあるだけましだ」


 他人事と思っているのは真実であるが、とてもけなされている。

 マリアーナは揺れる馬車の中で立ち上がり、水槽に手を突っ込むと魚の背びれをつかんで引っ張った。


「いたた、いたいいたい!」


 魚は暴れ、ばちゃばちゃと水を跳ねさせる。


「失礼なことを言うと、引き返してうちの両親に捌いてもらうわよ」

「すまなかった! 背びれは痛いんだ、引っ張らないでくれ」


 マリアーナは背びれから手を離して、元の席に戻り腰を下ろした。


「マリアーナが来てくれないと困る。

 その……不安なんだ。周りからどう見られるか、本当に俺だと信じてもらえるのか……」


 またも情緒不安定になり始め、揺れる声でそう言うシルヴェオに、マリアーナは冷静に言った。


「わたしにはあなたが本当にシルヴェオ・ハロンかどうかはわからないわ。人間のシルヴェオ・ハロンを見たことがないもの。だから、シルヴェオ・ハロンの周りの人があなたを見てどう思うのかもわからない。わたしにできることは、シルヴェオをハロン商会に連れて行って、この数日わたしが見てきたことを話すだけよ」


「それでもいい。君が傍にいて俺を『シルヴェオ』として扱ってくれるだけで、なんだか気が楽なんだ。魚の姿でも気味悪がって逃げたり、マグロ包丁を手に物影から狙って来たりしないからかな」


 はは、とシルヴェオは虚ろな声で笑った。

 膝から上の魚の姿に、虚ろに見開いた目に心のこもらない笑い声は、正直に言うと不気味だった。

 だは両親の不手際を申し訳なく思ったマリアーナは、不気味だという思いを抑えにこりと微笑むにとどめた。


 まさか父が、現役時代に愛用していた大魚を捌く包丁まで持ち出していたとは。貧乏がいよいよ行くところまで行きついたのかもしれない。



    ◇◆◇◆◇◆◇




 ハロン商会は、港町の中心街の大きな敷地にあった。本棟といくつかの別棟が密集しており、建物の中では交易で仕入れたさまざまな商品を扱っているらしい。

 その敷地の中に、シルヴェオ・ハロンの住んでいた館があった。

 館の正面玄関に馬車を止め、水槽を中に運び込んでもらう。

 水槽が応接室に設置されたところで、一人の男が入って来た。

 シルヴェオ・ハロンの父と名乗ったその男は、日に焼けて獰猛な海の男といった風貌をしていた。

 「暴れ鮫」と呼ばれる男の父としては相応な見た目だと、マリアーナは得心した。


「ありがとう、マリアーナ嬢。うちの……かはわからないが、この魚をつれてきてくれて」

「ええ。わたしもこの魚がハロンさんのご子息かはわからないのですが、どうしてもと言われたものですから」

「ひとまず確かめてみましょう。おい魚、お前がシルヴェオ・ハロンだと言うのは本当か」


 シルヴェオの父ハロン氏は、腕組みをして水槽の中の魚に問いかけた。


「そうだ。親父、俺だよ、間違いなくあんたの息子シルヴェオだ」

「ふむ。水の中でこもってはいるが、息子の声によく似ている」


 それだけでは判断がつかなかったハロン氏は、さらに問いを畳みかけた。


「では、シルヴェオが初めて買い付けをしたのはいくつの時だ?」

「八歳だ」

「合っている。では、その時買い付けした物のうち、最も量が多かった品は?」

「ひよこ豆だ」

「正解だ。次。三百五十二掛ける七百八十四は?」

「――二十七万五千九百六十八」

「次。五年前に交易を開こうと商会内で検討したが、政情不安で断念した国――」

「リビデアンド!」

「その国はリビデアンドだが、ではそのリビデアンドの主力輸出品のうち第三位の品目は?」

「……パパルタ綿だ」

「ふむ、なかなかやりおるな。ではこれが最後だ。会頭室の金庫の暗唱番号は?」


 シルヴェオはぱくりと口をつぐむと、片ひれでちょいちょいとハロン氏を呼んだ。

 水槽に近づいたハロン氏にひそひそと答えを告げる。


「…………正解だ。どうやらこれは本物の我が息子のようだ」

「親父!」

「マリアーナ嬢、改めて、息子を助けてくれてありがとう」


 ハロン氏はマリアーナに向かい、頭を下げた。


「マリアーナには銛で襲われたけどな」

「だまらっしゃい」


 マリアーナは水槽に手を突っ込み、背びれをつまみ上げた。

 シルヴェオはひれをぱたぱた、身をくねくねさせマリアーナの手から逃れようとする。

 水しぶきを上げてじゃれる二人の様子を見て、ハロン氏は言った。


「ふうむ。仲が良さそうじゃないか。もうそのまま魚として生きていけばよいのではないか?」

「そんなわけないだろう! 手がひれだと仕事ができない!

 それにこのままだと完全に魚になっちまうかもしれないんだ! 呪いを解く方法について何かわかったことはないか?」


 シルヴェオは真面目な口調で尋ねた。


「愛する者からの口づけ以外に呪いを解く方法はまだ見つかっておらず、調査報告を待っている状態だ。だがお前を襲ったという犯人は、おそらく対抗している商会の人間だろうと目星をつけている。そこまではわかっているが証拠がない。

 そこで、お前を囮にしておびき寄せようと考えている」


 ハロン氏は、この数日練っていたという作戦をシルヴェオとマリアーナに披露した。


 先ほど正面玄関から水槽を運び入れたのは、館にシルヴェオが戻ったことを相手方に気づかせる意図があった。

 まだ抵抗されにくい魚の姿であることもわかっているはず。

 なので、今晩から数日この館の守りを手薄にし、シルヴェオを始末しようと忍び込んで来た賊を捕縛する。


 マリアーナは館にいると人質にされる可能性があるので、彼女は使用人の住む別棟に移ることになった。


「客人の令嬢なのに、客室を提供できなくてすまない」

「お気遣いなく。というより、もうわたしは必要ないのではありませんか? お父さまにもご子息本人だと認めていただけましたし」

「何言ってるんだ。まだ呪いは解けていない。犯人を捕まえたからってそこで終わりじゃないんだぞ」


 シルヴェオは水槽からぱくぱくと口を挟んだ。


「それはおいおい探していけばいいじゃないの。自分の家で水槽に入って快適に暮らせるなら、しばらくはそのままで我慢できるわよね?」

「なっ、俺は港町の暴れ鮫だぞ! こんな狭い水槽で耐えられるわけないだろう!」

「この前自分は鮫じゃないって言ってたじゃない」

「心はいつだって暴れ鮫なんだ!」


 見た目は鮫ではない魚は、ばしゃばしゃと跳ねながら言った。

 呪いが進んで完全な魚になってしまうのが不安なのか、マリアーナについていてほしいようだ。


「わかったわ。しばらくこちらに滞在させてもらうから、一緒に呪いを解く方法を探しましょう」

「マリアーナ!」


 魚はひれをぱたぱたさせ、水槽の中をくるりと回った。

 尾びれもないのにうまく泳ぐものだ。

 膝から下が人間の脚というのは大分気持ちが悪いが、それに目をつぶればなんだかかわいらしいかもしれない、とマリアーナはシルヴェオが喜んでいる姿を見つめた。


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