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第2話

 マリアーナの両親は、帰りの遅くなった娘が魚男を連れているのに案の定驚いた。


「その魚は魚じゃないの?」

「人間みたいよ。こちらハロン商会のシルヴェオ・ハロンさんですって」

「ハロンです。こんな夜分に申し訳ありません。ご迷惑でしょうが、一晩お世話になれればありがたいです」


 そっけない言葉で紹介したマリアーナだが、シルヴェオはひれをぱたりとさせ、丁寧に挨拶した。


「なんだ、魚じゃないのか」


 残念そうに言うマリアーナの父。心なしか瞳がギラついているように見える。

 船を下りて長いとはいえ、父は元海軍大佐。生きた魚を絞めて捌くぐらいはお手のものである。

 今も、笑みを浮かべながらも背後を見せたら刺されるんじゃないかというぐらいの殺気を見せている。


「はは。残念ながら人間ですよ。食べようとは思わないでくださいね」


 にこやかな声で返したシルヴェオだが、牽制しているようにも聞こえる。

 表面上は和やかに、両親はシルヴェオを館に迎えた。




    ◇◆◇◆◇◆◇




 シルヴェオの身体についた砂を庭で洗い流してから客間に連れて行くと、浴室の浴槽に水を溜めシルヴェオをそこに浸けた。

 まるで調理工程のようだが、この魚は一応まだ生きている。


「塩も入れる?」

「いや、淡水で問題なさそうだ」


 浴槽の縁に腰掛けたマリアーナは、海岸での話の続きを始めた。


「ここからハロン商会に手紙を送って、迎えにきてもらえばいいんじゃない?」

「だが、この姿で帰っても、結婚相手は見つからないだろう。

 俺は早く呪いを解いてしまいたい。呪いをかけた犯人を捕まえたいし、仕事だってある」

「だからって、わたしは無理よ」

「なあ、頼むよ。結婚したら不自由はさせない。港町の大きな商会の次期会頭夫人だぞ。

 普通の女なら断るなんて考えもしないだろうよ」


 人間の姿のシルヴェオ・ハロンがそう言ったなら、ありがたく提案に乗ったかもしれない。

 こちらとて貧乏をこじらせているのだ。お金がある家に住めて満足に食べられるなら、願ったり叶ったりである。

 だが、まだ人間かもわからない魚男の申し出に、うなずく気にはなれなかった。


「上半身が魚じゃなければね。それでなくとも、会ったばかりの人を愛するなんて無理よ」

「けっ、これだから女は。男を見た目で区別して、いらない方には見向きもしないんだ」


 シルヴェオは吐き捨てるように口をぱくりとさせた。


「区別も何も、あなた今魚じゃない。わたしが区別しなくても、みんなあなたを魚だって思うわよ」

「そうだよ、俺は魚だ。どうせこんな魚面の俺なんて、誰も見向きやしないんだ……呪いなんて一生解けないんだよ……」

 シルヴェオは再びめそめそし始めた。

 魚なので涙こそ出ないが、涙声である。

 情緒不安定な魚だ、とマリアーナは思った。


「あなた、意外に打たれ弱いのねえ。

 そんなに落ち込まなくても、今までのあなたを知っている女性が港町にはいるんじゃない? 中には魚男の状態でも愛してくれる人もいるかもしれないわよ」


 大きな商会の跡取り息子である。港町では顔が知れているだろうし、彼に憧れる女性はそれなりにいるだろう。

 魚であるという欠点はあるが、一度口づけさえしてしまえば、憧れの男との結婚できるのである。それに飛びつく女性が一人ぐらいはいるだろう。


「……それもそうだな。このまま戻るのもいいかもしれない」


 シルヴェオがあっさりと気を取りなおしたところで、マリアーナの母が入って来た。

 手には夕食を乗せた盆を持っている。


「じゃがいもと人参のスープよ。魚でもあればもっとおいしくなったんだけど……」


 そう言うと母は、じゅるりと垂れたよだれを「あらいやだわ、おほほ」と慌ててハンカチで拭っていた。

 やはり窮まった貧乏が長すぎたらしい。

 調理もされていない大きな生魚を見ただけで食欲が刺激され、これは魚ではなく客人なのだという理性が、よだれとともに口からこぼれ出ている。

 海の男を長年陸で待ち続けた気丈な母は、隙あらば包丁を持ち出しそうであった。


「……俺、寝てる間に三枚に下ろされたりしないよな?」


 母が客間を出て行った後、シルヴェオは不安げな声で言った。


「どうかしら。その大きさじゃ下ろせないから、どちらかと言うと解体じゃない?

 ……明日の朝食には魚が出るかもね」


 マリアーナも不安になりながら、野菜のかけらが入った具が極少のスープを見つめたのだった。




    ◇◆◇◆◇◆◇




 ハロン商会に手紙を送ってニ日、マリアーナの館に商会の馬車が到着した。

 降りて来たのは一人の若い娘だった。

 サロメと名乗ったその娘は、つややかな黒髪と色の濃い肌をしており、ミステリアスな黒い目が魅力的な女性だった。


 この数日、上半身の身の危険を感じながら館の浴室に滞在していたシルヴェオは、迎えの到着を聞くとぴちぴち跳ねて喜んだ。


「悪いがサロメをここに連れて来てくれないか。

 女性と浴室で会うのは失礼だろうが、床を濡らすわけにはいかないからな」


 魚男は紳士ぶった口調でマリアーナに申し付けた。

 サロメは客間に通され、浴室でシルヴェオと対面することになった。


「シルヴェオさまは、跡取りとして商会を中心で取り仕切ってこられた方なんです。

 海の男たちに交じって仕事をしていても引けを取らず、いつも力強く自信に満ちあふれた男らしい方です。

 わたしは幼い頃から彼に憧れておりましたの」


 廊下を案内されながら、サロメが言った。


「これまでいつも彼に引っ張っていただいてばかりでしたわ。

 わたしにできることでしたら何でもしたいと、シルヴェオさまのお父さまに頼み込んで、こちらに参りましたのよ」


 サロメは、どこか牽制するような目つきと口調でマリアーナにそう告げた。


「そのように心配されなくても。わたしは彼が困っていたので助けただけで、他意はありませんよ」


 マリアーナはにっこり微笑んで安心させるように答えた。

 彼女のおかげで、魚と口づけしなくて済むのだ。喜んでサロメを後押ししよう。


 それにしても、力強く自信に満ちあふれた男とは、誰のことだろうか。

 あの魚は、ちょっとしたことをきっかけにめそめそしてばかりいる。

 その上この数日は、両親が妖しく目を光らせているのに怯え、浴室からしょっちゅう情けない声でマリアーナを呼ぶのだ。

 あの魚はやはりシルヴェオ・ハロンではないのかもしれない、とマリアーナは疑いを深めた。


 マリアーナは浴室の扉をノックし、返答とともに扉を開けた。


「サロメ! 来てくれたんだな! 遠くまでわざわざすまない」


 扉に背を向けて立っていたシルヴェオが振り返り、喜色のにじんだ声でそう言った。

 対するサロメを見ると、顔が青ざめ強張っている。


「魚……!?」

「魚に見えるが、俺だ。シルヴェオだよ」


 港町に住んでいて魚には見慣れているはずのサロメだが、目の前で虚ろな目をした大きな魚が言葉を話すのは不気味だったようだ。しかも下半身は人間である。

 サロメは化け物を見るような目でおそるおそる尋ねた。


「本当にシルヴェオさまなのですか……?」

「そうだ。手紙に書いた通り、呪いにかけられた。それで魚の姿になっているんだ。

 早速だが、俺に口づけをしてほしい。

 もちろん、その責任は取らせてもらう。盛大な結婚式と何不自由ない生活を約束する」


 シルヴェオは、まるで契約でも交わすように簡潔に説明した。

 サロメはシルヴェオの話をすぐに飲み込めないようで、しばらく硬直していた。

 やがて、ぽつりと言葉を漏らした。


「……これは、シルヴェオさまではないわ」


 シルヴェオの口は愕然としたようにぱかりと開いた。

 口だけでも意外に感情を表現できるのだと、マリアーナは感心した。


「何を言っている! すぐには信じられないかもしれないが俺はシルヴェオだ!

 口づけすればわかる! さあ、今すぐ口づけを!」

「いやっ! 性的嫌がらせ!」


 シルヴェオがひれをばたつかせながらびちりと跳ねて頭をサロメに寄せようとすると、サロメは飛びすさって浴室の壁に張りついた。

 先日の自分を見ているような気持ちになったマリアーナは、二人の間に割って入り、シルヴェオの背びれをつかんで捕まえた。


「同意のない行為を強要してはいけないわ。彼女嫌がってるじゃないの。さあ離れて。

 サロメさん、信じがたいかもしれませんが、これはシルヴェオさんですよ」


 他ならぬマリアーナ自身も、本当に人間であるかはまだ疑念がある。

 だがこの数日ともに過ごして、魚だろうが人間だろうがシルヴェオという名の個体なのだと、彼女は思うようになっていた。

 それがハロン商会のシルヴェオ・ハロンであるかは、マリアーナにはわからないが。


「シルヴェオさまはいつも自信があって、余裕に満ちています。

 その姿は町中の男性が憧れ女性が恋慕う、手の届かない太陽を思わせるような方なのです。

 こんな風に焦って結婚を持ち出し、口づけを迫るような魚、シルヴェオさまではありません!」


 サロメはきっと魚をにらみつけた。


「こんな気味の悪い生き物がシルヴェオさまの名をかたるとは!

 一体何を企んでいるのですか? わたしはハロン商会の代理で来ています。

 わたしをまやかすことは商会を騙すことと同じですよ!」


 サロメの黒い瞳は不信感でいっぱいだった。

 このままでは話が決裂してしまう。焦ったマリアーナは、もう一つの問題の方からサロメを説得できないか試してみることにした。


「この魚男がシルヴェオさんなのか、信じられないのはよくわかります。

 とりあえず、仮定の話でいいので、考えてみてください。

 もし、この魚男が本当にシルヴェオさんだとしたら、あなたは彼に口づけできますか?」


「この魚に口づけ…………」


 シルヴェオは口をぱくりとさせた。ウインクの代わりだろうか。

 そのアピールは逆効果であろうと、マリアーナは渋面になる。

 サロメは魚の口から目を逸らして言った。


「もし、この魚がわたしの知るシルヴェオさまなら、なんとか耐えて口づけをできたかもしれません。

 ……息を止めて、ほんの、ごく一瞬だけなら。

 けれど、わたしは先ほど、この魚が甘さのかけらもない言葉で結婚を持ち出し、変態のように迫って来るのを見ました。

 ただの魚でさえためらうのに、シルヴェオさまがこのような方であるのならば、口づけなど不可能です」


 どうやらサロメのシルヴェオへの愛は、完全に冷めてしまったらしい。


「……サロメが口づけできないということはわかった。

 だが、証はないが、俺はたしかにシルヴェオ・ハロンだ」


 シルヴェオは、かすかに震える低い声で主張した。


「それを誰が信じるでしょう。あなたは姿だけでなく中身も、今まで皆が見てきたシルヴェオさまと違います。

 おそらく町の女性はあなたをシルヴェオさまとは信じないし、受け入れないでしょう」


 サロメの脚色がどのぐらい入っているかはわからないが、どうやら港町のシルヴェオ・ハロンは、町の人気者でとてもいい男らしい。

 マリアーナがこの数日見て来たシルヴェオの姿と中身は、その男に比べると百年の恋も冷めるほどの落差があるようだ。


「わたしはハロン商会に戻ります。シルヴェオさまのお父さまに説明しないといけませんから。

 ……シルヴェオさまも、一緒にお戻りになりますか?」


 サロメは渋々と言った。おそらくは魚と馬車に同乗するのが嫌なのか、愛が冷めたためシルヴェオと同じ空気を吸うのも嫌なのかのどちらかだろう。いずれにせよ完全拒否の姿勢だった。

 だが、シルヴェオは自信を失い、落ち込みのあまり馬車に乗る気にはなれなかったらしい。


「いや、君一人で戻って、父に俺のことを話してくれ。

 口づけの他に呪いを解く方法があるか、調べてほしいんだ」

「わかりました。マリアーナさま、シルヴェオさまがもうしばらくこちらに滞在することをお許しください。ご両親にもわたしからお願いさせていただきます」


 馬車はサロメだけを乗せ、港町に戻って行った。


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