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第1話

 夕日が赤く沈み始めた頃、マリアーナは一人とぼとぼと海岸を歩いていた。

 手には手製の銛とバケツを下げているが、バケツの中は空っぽだ。


 マリアーナはこの海沿いの村にある、郷紳階級の家の娘だ。

 貴族ではないものの上流階級の末端に属しているが、とても上流とは思えない切り詰めた生活をしていた。

 マリアーナは両親が歳を重ねてから生まれた娘で、年頃になったマリアーナの父母はもう高齢だ。

 主な収入源は退役軍人の父の年金で、我が家に勤める使用人は、減りに減らし今は通いの家政婦が一人だけ。

 収入の大半はそこそこの広さがある古い館に費やされるのだが、その館はマリアーナ一人では手入れが行き届かず、年々みすぼらしくなるばかりだった。

 田舎の村でつつましく暮らす両親が華やかな晩餐会や舞踏会に招かれることはないし、マリアーナは正式なデビューもしていないので、そのような場所にはとんと縁がない。

 今も村娘が着るような簡素な麻のワンピース姿で、貴族のお姫さまのような手入れをできない髪や肌も相まりただの村人にしか見えなかった。


 マリアーナの家ではたまに茶葉を買う金すらもなく、食事に茶の代わりに水が出ることがある。

 そんな時は決まって、支給された年金がほとんど底をつき、次の支給日までどうにか食いつながなければならない時期である。

 今日もそんな頃合いに当たり、食糧庫にはわずかな食材しかなかった。

 先日の嵐で、館の裏庭に面した部屋の窓が割れたため、修繕費用を支払ったのが大きな原因だ。

 末端とは言え一応は上流階級としての体面から、これまではやりくりを工夫し、外に金がない素振りを見せたことはなかった。


 だが、その緊急事態が繰り返し起こると、心はだんだん追い詰められていく。


 食糧庫をのぞくと、入っていたのは小麦粉とバターに、じゃがいもが数個と干からびかけた人参が数本だけ。

 ぐうぐう鳴る腹の音を天啓代わりに、とうとうマリアーナは心を決めた。

 もう我慢できない。海に獲物を獲りに行こう、と。



 以前村人に教えてもらった通りに作った銛を手に、意気揚揚と館を飛び出したのは朝早くのこと。張り切って海へやって来たが、岩場からいくら銛を突き刺しても魚はするりと逃げてしまう。

 海岸に落ちている貝を集めようとしたが、村人にあらかた持ち去られてしまっており、中身のあるものは見つけられなかった。

 あとは砂浜に落ちている黒味がかった緑や茶色の海藻しかなかったが、砂まみれのそれをマリアーナは食べられる気がしなかった。それでも背に腹は変えられないとマリアーナは茶黒い海藻をつまみ上げてみたが、食べ方もわからないし、村人が残していくぐらいなのだからきっと食べられるものではないのだろう、と結局はあきらめた。


 一日かけて何も獲れなかったマリアーナは、しょんぼりして砂浜に腰を下ろした。土色の髪が湿った潮風になびく。


「おなかすいた……」


 三角座りの膝の上にあごを乗せ、水平線に沈んでいく夕日を眺める。

 普段は空色の瞳には、夕日の色が映り赤く煌めいていた。

 今日の夕食も、この一週間と同じ芋と人参のスープだろうか、と考えていたその時、視線の先の波間に何かが見えた。


 それは、魚の頭だった。

 波にもまれて水面から引っ込んだり出たりしているが、ここからでも見えるぐらい大きい。


「マグロ? マグロなの!?」


 マリアーナは銛を手に取り素早く立ち上がった。

 足をもつれさせながら砂浜を駆けると、全身の力を振り絞って、波打ち際から魚に向かって銛を投げつけた。


「ギョッ!!」

「やったわ!」


 渾身の一撃は魚の側面に命中したようだ。

 魚の鳴き声が聞こえたような気がしたが、気のせいだろう。魚は鳴かない。


 あれが噂に名高いマグロだとすれば、家族で何日食べられるだろう。

 異国で有名なマグロは、その身に脂がのっておりとても美味だと聞く。

 焼いて、煮て、スープにして……マリアーナの想像は夢いっぱいに膨らんだ。

 服が濡れるのもかまわず、じゃぶじゃぶと水の中を歩いて行く。

 そして、銛が刺さった魚が打ち寄せる波に乗りこちらに流れてきていたのを、銛をつかんで捕まえる。


 ぐったりとする魚の腹に腕を回し、再び水の中を歩いて戻る。

 魚の腹にどっしりとしたたしかな肉付きを感じ、達成感で満面の笑みが浮かぶ。

 だが、砂浜に獲物を下ろした時、マリアーナは気づいた。


 魚は、頭から腹のあたりまでは魚だった。

 腰から下は、人間の身体をしている。

 しかも裸だ。


「さかなおとこ!!」


 マリアーナは跳び上がって叫んだ。

 そう、魚は男性だった。

 マリアーナは慌てて、手近にあった海藻を魚の下半身にかぶせた。


 横たわった魚男をおそるおそる見ると、魚の部分は銀色だった。

 背中のあたりは黒に近い銀色の筋が入っており、お腹にかけて白に近い銀色になっている。

 海藻のあたりは視線を飛ばして、人間の脚の部分は日に焼けていて筋肉質だ。

 港で見かけるような、肉体労働者の脚のようだった。


 魚男は虚ろな紺青の目を見開いたまま、ぴちとも動かない。

 マリアーナははっと気がつき、魚に刺さった銛を抜いた。

 銛は魚の肩あたりに刺さっており、抜くと割れた鱗がもろりと剥がれ、鮮血が噴き出した。

 慌てて血を止める物を探し、ワンピースのポケットから取り出したハンカチで傷口をぎゅっと押さえた。


「まだ生きているかしら……」


 不安な顔で魚を見つめる。下半身には視線をやらないよう注意して。

 そして、干からびないようにと、バケツで汲んできた海水を傷口を避けてかけてやった。


「死んでいたら、お腹のあたりまでは食べられるのかしら」


 もし生きていなければ、その身体を有効活用させてもらおうとマリアーナは考えた。

 屠った命は、ありがたくいただかなければならないのだ。

 そしてその場合、腰から下をどのように処分するかを考え始めた。


「牧師さまは、下半身だけの埋葬を許してくださるかしら……」


 その時、魚男の身体がびちりとひと跳ねした。


「う、俺はまだ生きているのか…………?」


 魚男は横たわったまま、口をぱくぱくさせつぶやいた。


「あなた、言葉が話せるの……?」


 マリアーナはおずおずと声をかけた。

 魚はひれをぱたと動かし言った。


「ああ、もちろん。俺は人間だからな。それより起こしてくれないか」

「人間!?」


 人間も魚も脳は頭にある。頭が魚なら分類は魚ではないのか。

 自分を人間だと言い張る魚に、マリアーナが向けた空色の瞳は疑いでいっぱいだった。


「言葉を話せる魚だからって、人間をだまそうとしてはだめよ。

 安心して。生きているなら食べたりはしないわ。さ、海にお帰り」

「いや、俺は本当に人間なんだ! 呪いで上半身を魚に変えられてしまったんだよ」


 魚男はひれをばたつかせて声を張り上げたが、虚無を感じさせるような見開いた瞳をしているため、焦りを感じさせるのは声音だけだった。


「下半身を呪いで人間に変えられてしまったのではないの?」


 本性は魚だというマリアーナの疑惑はなかなか解けない。


「事情を説明するから、とにかく俺の身体を起こしてくれ。

 手がひれになっているから起き上がれないんだ」


 マリアーナは魚の胴体を抱き起した。


「ありがとう、助かった。俺はハロン商会のシルヴェオ・ハロンだ」

「いやだわ、魚が人間のふりしちゃって。お魚にも名前があるのね」

「だから魚じゃないって!」


 魚男が怒って両ひれをばたばたさせると、反動で身体が地面に倒れてしまった。

 マリアーナが再び身体を起こしてやると、魚男は上半身を少し前に屈めて座った。

 上半身をまっすぐ起こしていると、口が上を向いてしまうのだ。

 魚だというのに、顔を突き合わせて話す気があるらしい、とマリアーナは感心した。


「……なあ、信じてくれないか。俺は本当に人間だ。

 商談の帰りに襲われて、呪いをかけられて海に捨てられたんだ」

「そんなこと言われても。なぜ下半身が裸なの?

 襲われた時に服は着ていたんでしょう? 身ぐるみまで剥がれたとか?」

「いや、水の中を漂っているうちに脱げていた」

「下半身の方が本体だと?」

「そうだ」


 魚男はうなずこうとしたようだが、上半身ごと倒れそうになっただけだった。

 体勢を崩しそうになった魚は、ひれをばたつかせて器用にバランスを取った。


「……随分と慣れているじゃない」


 マリアーナは疑いの目で見咎めた。


「海の中に三日もいたんだ。身体の扱いぐらい慣れる」


 魚男はぶっきらぼうな声で言った。


「あんた俺に銛を投げただろ。銛が刺さっても生きてるんだ。それが証だと思わないか」


 銛で狙った話を獲物に持ち出され、マリアーナは顔色を変えた。

 それに気づいた魚男は、マリアーナの罪悪感をちくちくと刺してくる。

 

「呪いのおかげかなんとか生きていたが、普通の魚ならあの一撃で死んでたぞ。

 それに銛が刺さった時は痛かったなあ。人間でも、あの衝撃だけで死んだとしてもおかしくないな」


 形勢不利になったマリアーナは魚男ことシルヴェオの言葉をひとまず受け入れることにした。

 いまだ魚疑惑は晴れないが、日が落ちて暗くなってきており早く館に帰りたかったので、これ以上魚か人間かの話で揉めたくなかったのだ。


「それで、シルヴェオはこれからどうするの?

 ハロン商会は港町にあるんでしょう? そこまで帰れるの?」

「この身体じゃ帰れない。なにせ体勢を崩しても自力で起き上がれないからな。

 それに、上半身は濡れてないとだめみたいだ……」


 シルヴェオの声が突然弱くなる。その身はだいぶ乾いてきているようだ。

 マリアーナは慌ててバケツの海水を上半身にかけてやった。


「すまない……。どうも乾くと身体に力が入らないみたいだ。あ、いてて。傷口にはかけないでくれよ」

「その身体で港町まで戻るのは無理そうね」


 シルヴェオを館に連れ帰るしかないだろうか。

 両親は驚くだろう。泊めるとしても浴室にしかいられないだろうが、客間の浴室を貸す許可をくれるだろうか。

 マリアーナが考え込んでいると、シルヴェオが言った。


「呪いを解く方法があるんだ。呪いを解けば人間に戻れるから、商会に一人で帰れる」

「そう。どうやって解くの?」

「その……俺のことを愛する女性が口づけをしてくれたら、呪いは解ける」

「そう」


 マリアーナは相槌を打った。

 シルヴェオは勢いよく続けた。


「だから今すぐ俺を愛してくれ! すぐに口づけを!」

「むりです!」


 マリアーナは即答した。

 さっき獲ってきたばかりの魚を愛せるわけがない。魚は食料である。口づけなど不可能である。

 話を円滑に進めるために表面上は受け流していたが、マリアーナの認識ではこの男は魚の分類なのだ。


「頼む! このままじゃ小便も一人でできないんだ!」


 シルヴェオは勢いよく跳ねてマリアーナに近寄ろうとしたが、体勢を崩し地面にべしゃりとへしゃげた。

 だがそのまま下半身のみで匍匐前進して、こちらににじり寄って来る。


「ひっ、性的嫌がらせ!!」


 マリアーナは後ずさった。

 シルヴェオは無言でマリアーナを見つめている。

 が、目が顔の横についているので、こちらを見られているような気がしない。

 もしかしたら違うのかもしれないと、魚の思惑が見えないマリアーナは不安になった。


「そうだよな……。こんな魚に口づけなんて、気持ち悪いよな」


 寸刻の沈黙の後、そう魚の口をぱくつかせたシルヴェオの声は沈んでいた。


「だが、こんな顔の男を愛してくれる女なんていやしないだろう。俺は一生このままなんだ」


 そしてめそめそし始めた。


 マリアーナは黙ってシルヴェオの身体を起こした。

 大の魚がめそつくのがうっとうしかったからでは、決してない。


 シルヴェオは身体を起こした勢いで立ち上がると、突然海に向かって走り出した。

 腰に巻いていた海藻がはずれ、宙を舞いばさりと地面に落ちる。

 シルヴェオはそのままざぶざぶと水の中に進むと、腰まで浸かったあたりで立ち止まり、しばらくじっとしていた。

 唐突にぶるりと身を震わせると、何事もなかったかのようにまたざぶざぶとこちらに戻って来る。

 そして落ち着いた声で話し始めた。


「……それで話の続きだが」

「さっきまでの勢いは、催していたからなのね」


 マリアーナは、目を逸らしながらシルヴェオの腰に海藻を巻きなおした。


「とりあえずは一人でなんとかなったようだし、当分そのままでもよいのでは?」


 こちらとしては、ちょっと生理的欲求を催したぐらいで愛を求められ口づけを迫られても困るのだ。

 当面はそのままの魚でいればいいと思う。


「それは困る。手洗い以外も手を使うことは何もできないんだぞ。

 飯も食えないし寝台で寝ることもできない」

「……わたしはこれでも淑女よ。口づけは夫になる男性だけと決めているの」


 本当はそれほどこだわりもないのだが、どうしても断りたいマリアーナはそう主張した。


「なら俺が夫になろう。約束があれば安心できるだろう?」

「魚と結婚…………」


 マリアーナの頭に、魚男との結婚生活が次々と浮かんだ。

 下半身は正装し、上半身は濡れた状態で教会の祭壇に並ぶ魚男。

 カトラリーを使えないので、晩餐にマリアーナに魚のムニエルを食べさせてもらう魚男。

 上半身が濡れた魚の子どもたちにしがみつかれ、ブイヤベースを作るマリアーナ。

 そのうちにわらわらと増えた、上半身が魚の孫たちの見開いたいくつもの目で見送られる最期の時。

 そして海に散骨されたマリアーナに、魚たちが餌を求めて寄って来る……

 そうして魚と一体になったマリアーナは、自身も魚として新たに生まれ変わるのだ。

 巡る命と巡る魚、魚魚魚…………


「む り で す」


 めくるめく走馬灯に来世まで見せられたマリアーナは、断固拒否した。


「結婚するのは呪いが解けてからだ。もちろんその時は魚じゃないぞ」

「あなたはそれでいいの? 一生の問題をこんなに簡単に決めて、後悔するんじゃない?」

「なに、結婚相手は気立てがよければ誰でもいいと思っていた。

 仕事で忙しくて、あまり構ってやれないからな。そこに文句を言わなければ誰でもいい」


「誰でもいい」と二度も言ったシルヴェオに、マリアーナはかちんと来た。

 そんなこだわりのない結婚相手に、たまたま近くにいたマリアーナがならなければいけない義理はない。


「わたしはお断りするわ。誰でもいいなんて言う男と結婚したがる女がいると思わないことね」


 マリアーナはつんとして言うと、バケツと銛を拾い上げた。


「おい、どこに行くんだ。俺を置いていくのかよ」


 シルヴェオは慌てた声で口をぱくぱくした。


「うちに帰るの。あなたもついて来たかったら来るといいわ。

 両親には紹介するけど、部屋を貸せるかは約束できなくてよ」

「わかった。このまま置いて行かれると困る。よろしく頼む。

 あ、道中乾きかけたら水をかけてくれよな」


 そうして二人は、マリアーナの館に向かったのである。


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