第1章 そうですよね。没落貴族の娘を嫁にしようなんて、そんないい話はないとは思っていました。
「……というわけで、君には僕の子供たちと騎士団の教育係をやって欲しいんだ。……いやいや、やってほしいというか、それが義務だと言ってもいい。当主の妻として、家のことを取り仕切るのは当然のことだろう」
「……。はあ」
四大貴族といわれる、シュタールベルク侯爵家の当主の妻となったのだから、もっと洗練された素晴らしい返答をするべきだろうに、こんな間抜けな相槌を打つしかできないこと自体、自分はやっぱりこんな高級貴族の妻として相応しくなかったのだろうし、こんなことを押し付けられて仕方がないのかもなあ、とヴァレリーは考えてしまっていた。
「そんなアベル様、来て早々それはないのではないですか? ほら、花嫁様は当家に来てからまだ一度も腰を下ろしていないような状態ですのに」
シュタールベルク家当主のアベルに対して苦言を呈したのは、恐らくはこの侯爵家の家令であろう。
紹介をされていないので本当にそうかどうかは分からないが、壮年に近いと思われるその見た目と、落ち着き払った態度を見てそのように予想した。
そう、ヴァレリーはシュタールベルク家に到着するなり、出迎えた黒い燕尾服を着た、いかにも侯爵家の使用人という整った格好をした者に、まずは当主にご挨拶をしていただきたいと言われ、その後やって来た家令と思われる彼に伴われ、書斎までやって来て、そうして開口一番言われた。
実は僕には愛人が六人いるのだ。
……実は、もなにもない。
彼の第一印象はこれで決まってしまった。
そうか、自分の夫には愛人が六人居るのだ。確かに若いし見た目がいい。輝く金色の髪に蒼い瞳は、かつて国王とシュタールベルク侯爵との間で取り合いになったと噂の、彼の美しい母親譲りだろうか。まるで神に祝福され、この世の苦しみからは無縁のように思える姿に、愛嬌のある顔をしている。人に好まれそうな人だ。
ただ、こちらが遠路はるばるやって来たというのに自分は偉そうに執務椅子に腰掛けたままで、すぐ近くにソファがあるというのに、ヴァレリーにそちらに座るようにと促すこともなく話し始めたということから、彼にあまりいい印象を抱けなかった。
(馬車にずっと座っていたから、疲れていてどうしても座りたいということではないけれど、立ったままでお話をするなんて)
そして次に始まったのが、教育係、という話だった。
あれ、私は嫁ぎに来たのではなく、家庭教師として雇われて来たのだっけ? と錯覚しそうになったのも無理はないだろう。
「いや、話は早い方がいいと思って。これから歓迎の宴が始まり、三日後には結婚式をして、領土の有力者達に挨拶をして……と、その後にこんな話をするのは酷だろう?」
そんなことを言われてしまい……ヴァレリーはこれは仕事の話なのだなと、感じた。
だから、素の自分ではなく、王城で皇太子の家庭教師をやっていた頃のように対応するべきなのだろう、と頭を切り替えた。
「そうですわね、話は早いほうが好ましいです」
自分は当主の妻として愛されるためにここに来たのではなく、当主の妻として当主の愛人や愛人の子供たちや家臣や使用人たちや領民たちを取り仕切るのに相応しいと望まれてここに来たのだから、と。
「君の噂はよく聞いているよ、ヴァレリー。リヒャルト皇太子の家庭教師だったんだよね?」
「ええ、僭越ながら」
「あのリヒャルト皇太子が畏れる、悪魔のように厳しい家庭教師だったと聞いている」
「そのような評判となっていたとは、畏れ多いことです」
ヴァレリーはしずしずと頭を垂れた。
こんな王都から離れた場所にまで、自分の家庭教師としての評判が届いてしまっていたなんて、頭が痛かったのだが仕方ない。
とにかく、これからは本当の自分として、誰を気にすることなく自分らしく振る舞える、という願望は霧散していった。
(短い夢だったわ……)
枕を抱きかかえてふて寝をしたいところだったが、それどころではない。
「しかも君はとても優秀で、あの勉強嫌いで劣等生だったリヒャルト皇太子が、君が家庭教師になってから劇的に学力が上がったと聞いた。皇太子がこの国一番と言われる、王立ハイデル大学に一番の成績で入学できたのも、君の力が大きいとのことだ」
「そのようなことはありません。リヒャルト皇太子殿下が努力なされたからに過ぎません。私は少しそのお手伝いをしたまでです」
「そんな謙遜はしなくていい。なかなかに厳しい指導をしたそうじゃないか。高い塔のてっぺんに皇太子を閉じ込めて、本を一冊暗唱するまでそこから出さなかったそうだね。それから皇太子がサボって王城を抜け出して遊んでいたところをひっ捕まえて、怖がる皇太子を夜の廃墟へ連れて行って柱に縛り付け、歴代王の名前を全て言えるまで帰さなかっただとか。そのあまりに厳しい指導に、周囲の人が止めるくらいに」
「……そのようなこともあったでしょうか」
「女性でそこまでできる人はなかなかいないよ。しかも将来の国王に対して、ね」
それは褒められているのかなんなのか分からなかったが、その厳しい指導を、当主の妻として望まれているということだろう。
「とにかく君が優秀な家庭教師だったことは皆が知る事実だ。その手腕を、今度は我が妻として発揮して欲しいんだ」
「……。なるほど。承知いたしました」
言いたいことはいっぱいあったが、ここはぐっと堪えてそう返事をしておいた。
するとアベルはヴァレリーを見てふっと笑った。
「さすがに話が早い。そのことだけでも君がとても頭がいいということが分かる」
(……いえ、諦めが早いだけですが)
ヴァレリーの家は没落貴族で、幼い頃から今まで、理不尽な目にたくさん遭ってきた。
だから分かっているのだ、与えられた状況に抗ってもほとんどは無駄な抵抗であり、そのまま受け入れた方がずっと楽だと。




