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1794年2月10日
日本 大坂城
徳川家治が死去したことに伴い、彼の息子である家基が第11代将軍に赴いた。
彼は史実では18歳に急死をしてしまったことから【幻の11代将軍】とも呼ばれている人物であったが、ここでは幻ではなく現実として将軍としての地位を授かる事が出来たのである。
急死の原因であった体調不良も起こることなく、また聡明な人物であったことからも、家治亡き後の政治体制も根本から変えるようなことはせず、碇石を着実に行うスタイルを確約させた人物である。
そんな家基にとって目下の悩みは東日本に関することであった。
(すでに東日本は鉄門組の勢力下だ……幕府でもなければ、地方豪族などでもない……元盗賊団の親分たちが統治している異質な国になり果ててしまっておるからな……)
この時期の日本は東日本地域が浅間山の大規模噴火によって火山灰が多く降り、幕府の統制が利かなくなる無法地帯と化してしまった。
いや、無法ではなく義賊として関東北部や東北地方で名を馳せていた鉄門組が統治を行い、奥羽を拠点とする国家体制を構築していたのである。
『反幕・反治』を掲げる鉄門組は、幕府体制を作ることはせず、各地域において独自の武装集団の結成を容認し、これらの武装集団を取りまとめるのが鉄門組だ。
最小限に警察の役割を執り行う夜警国家のような役割を果たすようになっていた。
こうした武装集団は、荒れ地となって人が寄り付かなくなった浅間山周辺にも出没しており、かつて幕府は数千人規模の調査隊を送った際に、これらの武装集団との戦闘が行われた結果、旧上田藩跡地で大敗を帰してしまい、撤退する羽目になったのだ。
威力偵察も兼ねていたものの、進軍できたのは旧上田藩のあった場所までであり、それ以上先に進むことは出来なかった。
幕府の調査隊は軍としての役割も果たしていたが、浅間山大噴火によって地形が大きく変わってしまい、それに伴って道が寸断されたり、川がせき止められて湖になっているなどの地理的な変化を全て把握しきれていなかった。
対して武装集団の斥候は、元地元民などで構成されており、大噴火後の地形の変化なども把握していたのだ。
こうした状況において、幕府としても田沼意次の晩年からは日本東部地域の奪還を掲げる『東征論』が幕府内部だけでなく一般大衆にも広がるようになる。
特に、江戸を放棄してしまったことで多く発生した避難民の多くが、かつての生まれ育った故郷への帰還を待ち望んでいるからだ。
大坂の寺院や神社などでは、江戸などの故郷に帰る事ができずに亡くなった者達の墓が増えてきている。
これは、浅間大噴火が起きた当時に30~40代の中年層が高年層になったことで、この時代の平均寿命である50代に差し掛かったことに由来している。
江戸を懐かしむ辞世の句を読み上げて亡くなった詩人の歌などが口ずさむ事が増えており、多くの人々が江戸に戻って再建を望もうとする声も多く聞かれるようになった。
「このまま民の声を受け入れないのもマズいな……そろそろ腹を据えて覚悟を決めなければならない時がきたようだな……」
家基にとって、このまま公武幕府として東日本地域を見捨てる事はせずに、鉄門組の脅威を排除して日本の統一を果たすべく、覚悟を決める。
「意知を呼べ、彼と話がある」
彼はフランスでの視察を行い、海外との強い外交パイプを持っている田沼意知を重用し、父である田沼意次と共に徳川家を支える「田沼派」を雇用することにしている。
田沼意知を直々に呼び出して、決意を宣言している。
「意知、余は日本を再び統一しなければならないと考えておる……」
「日本統一でございますか……」
「そうだ。かつて我々が住んでいた江戸も、今では盗賊の根城であったり……さらに東にいけば鉄門組なる武装集団によって占領されている状態だそうじゃないか。このまま幕府の統治が及ばない期間が長引けば長引く程、これらの地域での幕府統治そのものが上手くいかなくなる」
「では……各藩に応援を要請して東征を行いますか?」
「……全ての藩で必要な軍費を集計し、装備を整えるように命じよ、それが終わり次第、東征を開始する」
将軍直々の東征命令。
これは意知にとっても青天の霹靂であった。
堅実な道を歩んでいることで知られている家基が、軍を動かすと述べていたからだ。
先代の後を次いで将軍となった家基にとって、幼年期を過ごした江戸への帰還は彼にとっても悲願であり、更に江戸城跡地には野盗集団の塒と化していると聞かされた際には、江戸城そのものを再建させるべきであると語ったほどだ。
「フランスからの武器や兵器の生産が進んでいると聞いているが……どのくらい完了しておるのだ?」
「はっ、現在までに大坂と京都といった政治中枢圏への配備は全て完了しております。東海道や下越方面の前線の見回りをしている兵士にも持たされております」
「うむ、少なくとも前線と都市部には最新鋭の武装で固めた兵士たちがいるのは心強いな」
「とはいえ、まだ西日本地域への配備は遅れている状況です。堺や小倉の鉄砲職人を動員して作らせてはいますが、あと3か月はかかるでしょう」
「3か月か……」
フランス製のマスケット銃であるモデル1777は旧式ながらも公武幕府がライセンス生産という形で使用権を買い取り、大坂や小倉を中心に生産・配備が進められていたのだ。
また、グリボーバル砲なども尺貫法に変換したものを使用しており、これらのフランス製武器・兵器の輸入だけでなく、ライセンス生産によって日本の兵器開発ノウハウが蓄積される結果となり、後世において近畿重工業発展地域の基盤となる。
そして、公武幕府としては軍の再編成と同時に西洋式の軍隊方式を採用することとなり、それまでの武家中心の軍組織から一変し、武家でなくても軍人として採用されることが許されるようになったのである。
『公武幕府軍諸法度』として新しく再編成された軍は、奇しくも史実の江戸時代末期に戊辰戦争によって内戦状態になっていた日本における幕府軍に軍事教練を行ったフランスと似たような形になっているのだ。
軍諸法度には軍規に関することも合わさっているが、食い扶持を得る為に軍に入隊する者も多く、関東近郊から避難してきた元農民であったり町民などが参加することが許されたのだ。
条件などは幾つかあったものの、犯罪歴が無く、18歳以上の成人男性であり、雑炊を食べてから1時間後に水の入った一斗升(約18リットル)を担いで一定の距離を決められた時間内に届ける事が出来れば合格とされた。
また今までは「足軽」などと呼ばれていた兵士たちも「一等兵」などと呼ばれるようになり、元から足軽として武士として生きてきたものには「武兵」として呼ばれることも多かった。
武家としての面影を残しつつも、西洋式の軍隊方式を取り入れた公武幕府は、東征に向けた準備を進めるべく、家基の号令によって各藩の状況を調査されることになった。




