824:蝦夷(上)
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1793年5月31日
北米複合産業共同体 首都ニューヨーク
北米複合産業共同体において、業績で結果を出すことが生き残る術である事は、この地域に住む者にとって誰もが理解していることであった。
勉学の出来る者は、その才を磨いた上で専門的な職種について働いており、多くの人間が業績を上げて企業に貢献しようと必死であった。
「成果をあげて貢献すれば表彰と昇格が確約され、失敗すれば汚名と降格が待っている。成り上がる事に必死であり、その為であれば身内ですら平気に切り捨てることのできる国」と揶揄されているほどである。
実際に、北米複合産業共同体においては同じ身内であっても信用できないとされており、北米複合産業共同体に対する悪口であったり、体制に対する批判などは許されないと明言されている。
複合産業共同体という名の通り、企業集合体としての役割を担っていることもあってか、全ての企業は政府としての代替機関が担っているのだ。
企業国家といっても差し支えない上に、史実の20世紀半ばまで中南米地域を農産産業によって支配していた米国企業のような役割を果たしていた。
体制に対する批判や、意図的なサボタージュによる違反した者は『労働行使違反者』というレッテルと5年間の無償労働刑が科されるが、その間に過剰なノルマ設定であったり、ほぼほぼ16時間労働をしなければ達成できないような無理難題を押し付けられることが多く、この刑を言い渡された者の多くが身体を壊してそのまま帰らぬ人となったり、ノルマを無理に達成するために阿片などの薬物を服用して身体を無理させたり、耐えきれなくなった者は隙を見計らって逃亡する事例が相次いでいる。
首都ニューヨークでの労働条件は様々であり、商社であれば設定されたノルマを達成できなければ降格処分となって製造業であったり、造船所でノルマが達成できるまで働くことになり、それも出来ない場合にはさらに別の過酷な仕事に左遷される事になり、もっと過酷なノルマを課されるという地獄のような労働条件で働くことを余儀なくされたのである。
これは男女関係なく働かされているため、ある意味では男女平等に過重労働を強いて国の生産性を高めるという方針により、北米複合産業共同体は現在ではフランスやオーストリアといったヨーロッパ諸国の大国を上回る経済効果を国内で発揮していた。
特に、北米複合産業共同体の中でも、南部一帯で主要生産品の一つとなっている阿片に関して、医薬品目的で阿片栽培を生産していた結果、今や世界の主要な阿片の四割以上が北米複合産業共同体によって生産されているのだ。
元々、北米複合産業共同体では嗜好品の名目で栽培が認可されていた阿片の栽培が盛んになったのも、カリブ海戦争によって疲弊した南部地域における農園運営をしていた大地主の多くが、既存の農産物を売るよりも高値で買い取ってくれる阿片栽培に転向したことが要因の一つであった。
その農園の多くが従来のジャガイモや小麦の生産で得られた値段の実に3倍以上もの値段で輸出されるため、僅かな量でも価値のある薬物として広く北米複合産業共同体の労働者向けの嗜好品であったり、過労で倒れてしまった人間に服用する薬としても重宝され、総生産の3割を国内向けに……残りの7割を欧州各国に嗜好品として大規模な輸出を行っていたのだ。
しかし、この阿片もつい最近まで主要な取引先であった救世ロシア神国への輸出が出来なくなってしまっており、南部一帯で生産を営んでいた農家や生産組合にとって、莫大な損失を被ることになった。
西アジア地域まで行ってきて、阿片の原料となるケシの実を採取し、海路で輸送して育て上げた北米大陸において、鎮痛薬であったり手術後の痛み止めとして広く服用されていた阿片は、北米複合産業共同体における主要な輸出産業の一つとなっていた。
これを、ヨーロッパ方面に輸出を行ったものの、欧州協定機構では阿片の所持と服用に関する法律が厳しくなって表立って輸出することができなくなり、代わりに救世ロシア神国からの要請で大規模な量の阿片を船団を率いて輸出していた。
……が、これもまた地中海を警戒していた欧州協定機構軍の海軍艦艇による臨検と拿捕、並びに撃沈によって北米複合産業共同体が嗜好品目的であったり、大規模な阿片輸出を行っているとして非難され、北米複合産業共同体に対して経済制裁と称して、船団の通行料などを徴収したり、経由地を経て別の国の国旗を船に掲げることを禁止するなどの処置を取った。
これによって、南部の阿片産業は大きく傾いてしまっており、すでに生産分の販売ノルマを捌けなかった販売員などが夜逃げをしたり、南米行きの船に乗って国外逃亡を図っているほどだ。
1793年に入ってからは13の大規模阿片農園が廃園に追い込まれており、一攫千金を夢見て多額の資金を北米複合産業共同体から借りていた人間は首が回らない状態となって、自ら命を絶った。
南部での不良債権が拡大していく中、首都ニューヨークではこれらの問題に対応するべく協議が重ねられていた。
生産組合を筆頭に、南部地域の代表者とニューヨークの政治役員らが出席して阿片の生産量を減らして国内需要にのみ限定して生産を行うべきか、リスクを承知の上でアフリカ大陸などを経由して売りさばく方針を取るべきか議論がされていた。
「阿片の生産量を鑑みれば、国内で必要とされている需要を大きく上回っております。救世ロシア神国への輸出は我が国にとっても大きな利益となっておりましたが……現状を鑑みればヨーロッパ方面への輸出が難しくなっている現状を鑑みても、阿片の生産を縮小して別の産業を輸出するべきではないでしょうか?」
「しかし、阿片の生産においては我が国は西アジア地域よりも多く生産している上に、将来的に鎮痛剤であったり精神安定剤としての役割を担っている『薬』でもあるのです。この生産を中途半端に止めてしまったら、今まで投資してきた費用の回収すら出来なくなってしまいます。そうなった場合の責任問題が誰が取るか……共同体における生産組合側の責任となって、彼らの役職者の大半が入れ替わることになってしまいますよ?」
「せっかくここまで大きくした事業です……先のフランス軍などの摘発によって北米複合産業共同体の阿片がヨーロッパ市場で売れなくなったことを鑑みれば、これ以上の衝突は得策ではありません。代わりとなる綿花などの作物への転作を積極的に行って、一時的に赤字を被っても立て直しを図るべきです」
南部地域の代表者らは、阿片に変わる作物の転換を推し進めていた。
その中でも彼らは取りあげたのは綿花栽培であった。
史実でも南部の農産物で主要な栽培を誇っていたのが綿花であり、この綿花栽培のために多くの黒人奴隷が使役していたこともあり、後の南北戦争の間接的な要因の一つとなった。
綿花であれば阿片栽培からの転換も難しくはない。
しかしながら……南部の代表者たちに対して、政治役員たちは首を横に振ったのである。




