676:揺れる秒針
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1790年11月19日
フランス パリ大学
今日、私はパリ大学に来ております。
王妃として、この大学に入るのは初めてですが、新しい風が吹いているのでしょう。
大学に入ってから真っ先に目に付いたのが、女性の学生が複数人いる点です。
彼女たちとお会いした上で、大学生活は充実しているかと尋ねると、彼女たちは喜んだ様子で「楽しんでおります」と答えておりました。
それまで女性は学校に入ったとしても、初等教育のみを行うだけで、それも貴族や富裕層のみの女性が多かったのも事実です。
男性に比べて、女性は教育を受ける機会が限られており、今後フランスの経済や政治が拡大していく上でも、女性の教育水準の引上げに関しては目下の課題でもありました。
パリ大学の大学長との会談の際に、女性の大学への進出の影響に関して話し合い、効果は表れているのか尋ねてみました。
「教育水準の引上げ……これに関して、現在女性の大学生はどのくらいいらっしゃるのですか?」
「現在この大学では女性の学生は40名程おります。そのほとんどが新設された社会学部や法学部といった部門に入っております。4名ほど医学部におりますが、いずれも衛生保健省から出向している女性職員の方ですね」
「成程……では、その方々はやはり富裕層出身が多いですか?」
「そうですね……現時点では富裕層ないし貴族出身の者が割合のほとんどを占めております。経済的な余裕がある者が中心ですが、学校でのテストで優秀な成績を収めて推薦入学で受かった8名の女性に関しては、平民出身です。国が学費の殆どを補助してくれたお陰で大学進学を可能にしてくださいました」
女性の大学への進学に関しては、ここ数年で大きく躍進したと言えるでしょう。
それまでは、女性だけではなく海外領……元植民地からの出身者が本土の大学に通うなんてことは滅多にあることではありませんでした。
「それから、サン=ドマング出身者も多く在籍しておりますよ。カリブ海戦争以降は特に増えております、ここ3年だけでも3倍以上の人数になっております」
「それだけ教育環境が良くなったという事でしょうか?」
「それもありますが、やはり教育推進法による賜物であると考えております。教育推進法によってそれまで教育を行う機会が与えられていなかった人々にも初等教育を受ける環境作りが整えられるようになり、結果として教育水準の引上げに伴い、彼らが大学入試を受けられる環境が整ったことが大きな要因の一つです」
「植民地」という名称ではなく現在では「海外領」出身者の受け入れも充実しており、これまでに少なくとも数百名以上のサン=ドマング出身の方がパリ大学に入学し、卒業をして故郷に帰って事業を立ち上げたり、ユダヤ系の銀行に就職するといった事が行われております。
これまでは、サン=ドマング出身であったとしても本土の大学に入学できるのが白人層だけであったのが、現地民との混血で産まれた方や、黒人の方であっても、試験の採点で一定基準を満たしていれば大学に入学できるようにした意味はとても大きいです。
これにより、如何なる身分や肌の違いがあったとしても、勉学を学ぶ意思と能力さえあれば年齢や性別、出身や身分を問わず、大学に入れるという事もあってか、サン=ドマング出身者の中でも、大学の教育を受けたことにより、サン=ドマングに帰った際に高度な知識と教育が必要な仕事に就くことも多くなったのです。
当初は批判も多く寄せられたそうです。
『有色人種に大学を通わせる際にも別の教室に受けたほうがいい』
『なぜ有色人種と同じクラスにするのか?大学は以前から神聖な場所であり、法学や医学を学んだとしても白人よりも劣っているのではないか?』
……こうした心もとない差別的言動を行う方がいらっしゃったそうですが、そうした意見は全て無視した上で、大学側は有色人種の方であったとしても、一緒に講義を行うことを取り決めて十年以上行い、その成果が現れているとのことです。
以前までは、本人の能力よりも家柄や血筋が大学内においても重要視されることが多かったそうです。
「身分や血筋などの要素を排除し、能力で成績を決める方針に転換してからは我々としてもかなりやりやすくなっております。以前までは大貴族や富裕層の一部では、大金を積んで学業の成績が目標値以下の生徒でも卒業できるようにする処置がありましたから……」
「つまり、能力が低くてもお金さえあれば卒業ができる状態だったのですね」
「お恥ずかしながら、その通りです。そうした状況が打開されて以降は、大学ではお金を積まれても、基本的に拒否をしております。ただ、学生自身が成績が優秀であっても病気を患って治療中で大学での講義が出来なかったり、家族が死亡したりして経済的困窮で学業を続けることが困難な場合に限り、特例として政府から無償奨学金を支給できるようにしたり、3年以上の在籍期間がある者は卒業試験を受けて合格すれば早期に卒業することも可能とする事にはしております」
大学側もお金を積んで卒業をさせるような事は無くなり、能力試験を重視することで大学全体の質を向上させることに成功したようです。
成績優秀者に関しては早期に卒業を可能にしたのも、グレートブリテン王国内戦の発端になった原因の一つとして、ロンドン革命政府の首謀者になった人物が成績優秀者であったものの、経済的困窮から大学を続けることができずに中退し、そこから精神的に追い詰められた結果、革命を起こして大勢の人を巻き込んだ戦争に発展した例があります。
特に、首謀者は大学教授や他の学生からも慕われていた人物であっただけに、本人に学費の支払える余地がないと判断されて中退を余儀なくされた経緯もあります。
ロンドン革命政府ではこうした大学側への不満も重なり、首謀者に横柄な対応を行った学長などが、後に革命政府によって処刑されたのです。
「ロンドン革命政府の一件を受けて、学生が勉学を続けたい意思があり、かつ成績が優秀であれば国から無償の奨学金を貰った上で講義を受けることが出来るようにしたのは名案でした。お陰で、従来であれば卒業出来なかった生徒でも、奨学金を貰って卒業までこぎつけることが出来るようになったのですから」
「確か、学生街も雰囲気がかなり変わったと伺っておりますが……」
「ええ、その通りです。環境改善と風通しの良い先進的な考え方が広がった結果、今のパリ大学の学生寮の周辺は異国情緒豊かな感じとなっております。遠くからは青龍からも留学生が来ており、パリ市内で中華料理店なども出店するようになりましたから……ここ数年で一気に改革の成果が出ておりますよ」
「それは良かった……ちゃんと成果が出ている事を、こうしてお聞き出来て良かったですわ」
私とオーギュスト様と一緒に考案した『教育推進法』を1785年に正式に発布し、大都市部だけではなく農村部でも教育水準の引上げを目的として作ったのです。
直接、大学長からその成果が出ていることを確認できたのは僥倖でした。
あの改革はしっかりと活かせたのですから……。
 




