656:波乱(下)
「もうだめじゃ!もうおしまいじゃ!」
「爺さん!何も身投げするこたぁないでしょうが!」
「もう作っても売れん!何をやっても駄目じゃ!」
アーヘンの商工業は贋金を巡って壊滅的打撃を被っていた。
軍へ納品ないし修理が完了する予定だった蒸気機関の生産は完全にストップしており、現在までにこれらの蒸気機関はアーヘンの工房に溜まり続けていた。
国から支給される予定であった資金も流れが不透明になったばかりではなく、国家そのものへの政治不信によって一気に経済を担っていた足が壊死を起こしてしまったのだ。
プロイセン王国の経済を担っていたのは、基本的に国内産業と同盟国への武器・蒸気機関の輸出であった。
国内で生産されている鉄製品や蒸気機関は優れており、ポーランドや旧ロシア帝国に売りつけることで経済力を機動に乗せることができた。
その原動力となっていたのが新しく導入されていた新ターラー銀貨を含めた新通貨と、新規の国債発行によって賄われていた。
お金を刷った分だけ経済活動が活発化し、さらに国債を刷って得ることができた分の収入を工業製品や輸出産業に回すことで、プロイセン王国は今日までフランスを中心とした欧州協定機構加盟国との対立政策を行っても維持することができた。
その原動力たる新ターラーが紙幣も銀貨も使い物にならない。
……これは実に恐ろしい事なのだ。
つまるところ、現在までにプロイセン王国を繁栄させ、蒸気機関を飛躍的に発展させた文明的プロセスが遮断されたも同然なのだ。
お金の価値が無いと判断された以上、国に送っても食料品ではダブつく上に、金や銀の信頼が揺らいでしまっている以上、贋金で支払われたと訴えられたら国側としてもそうした事態は避けたい。
『事態が収集するまでは国に蒸気機関の納品が困難であり、アーヘン商工業組合は金の価値を保証できる担保がなければ製品すら出荷できない』
これが、商工業を担っていた者達が連盟で出した嘆願書である。
支払い予定であった紙幣や銀貨に贋金が混じっていたら、それだけでも彼らは大損害を被る。
ましてや、現行の通貨が信頼できないとなってしまった以上、この新ターラー銀貨及び高額紙幣の信頼性は良くて『懐疑的』悪ければ『底なし沼』と同じぐらいに悪いのだ。
オーストリアとの決別も込めて、新ターラー通貨に踏み切っていたプロイセン王国は、強靭と思われていた自国通貨の価値が僅か一か月もせずに大暴落を引き起こし、国内経済が窒息死しかねない状況に陥ることは全くの「想定外」であったのだ。
ヨーロッパの中でも強靭と謳われていた経済が瀕死の重症である以上、首都のベルリンだけではなく地方都市や領邦に至っても、今後の経済的なヴィジョンが見いだせず、物流や金融など経済活動に欠かせない職種は軒並み営業を停止し、その影響は甚大であった。
「この街は商工業と観光業で生活していた街だ……その機能が完全におかしくなっているぞ」
「このままじゃ、街で生活することも出来やしない……」
「ただでさえ、戦争で物資不足が深刻化してきたという矢先にこれだ……貯金だって実質的に使えない状況だけに、俺たちは生きるか、死ぬかの瀬戸際なんだぞ」
「クソッ、国王陛下を変な博愛主義者たちが唆した結果がこのザマだ!」
「とにかく、商工会の代表者と市長を呼んで話し合うしかない……この事態が続けば、どの道破産してしまうからな……」
アーヘンの住民は今後の対応をどうするべきか……。
商工会とアーヘンを統括している市長による緊急の会議が開かれた。
最も、彼らも自分達の持ち場が既に戦場となっており、この会議に出る事すら惜しい状況であった。
この都市は神聖ローマ帝国皇帝の即位式が行われていることもあり、プロイセン王国だけではなくオーストリアにとっても決して無関係な都市ではない。
オーストリアとの繋がりも深く、宗教的・文化的にこの地を巡礼する者が多く、領土を越境してこのアーヘンの地で巡礼を行う人達が多く存在したほどだ。
聖地巡礼も兼ねて、プロイセン王国だけにとどまらず多くの地域から観光客を迎え入れていたこの地域の打撃はすさまじく、名だたるホテルや観光名所となっている教会も、事態が収まるまで営業を停止している状態である。
その観光客にお土産として、様々な商品を売っている店も少なくはない。
観光都市としての条件を満たしていることもあり、商工会の中でも観光客を相手に商売をしている者も多いだけに、これ以上の混乱は彼らにとって生活基盤を根本から破壊されかねない事態だ。
「もう観光客は国内だけで精一杯だ……七年戦争の時以上に厄介だぞ」
「オーストリアとは関係断絶しているからお客さんも来ないし、それに加えて贋金騒動ですか……」
「新紙幣が使い物にならないのであれば、俺たちの商売はどうしたらいいんだ?」
「観光業もそうだけど、製造業だって新規発注すら見込めないんだぞ?受け取る際のお金が贋金だったら話にならんし……」
そして何よりも、アーヘンは工業都市としての基盤を整えている街であり、プロイセン王国全体の4割にも及ぶ蒸気機関の生産・製造シェアを誇る街でもあったのだ。
先に説明した通り、観光業で潤っていた街であったとはいえ、更なる発展のためにプロイセン政府が先行投資という形で、商工業者に蒸気機関製造の命令を出して工場を発展させたのだ。
蒸気機関をプロイセン全土で製造できるようにとの配慮と、リスク分散も兼ねて製造拠点を一か所に絞らないやり方であったが、これが結果としてアーヘン地域で製造されている蒸気機関の輸送が滞る事態を引き起こしてしまったのだ。
そこで、解決方法の一つとしてプロイセン王国や領邦でも通用する独自通貨の開発を行うことが提案されたのだ。
「しばらくは町の中だけで流通する通貨を発行するのはどうかな?」
「独自通貨か……それも悪くないが、銀や金は産出できないぞ?自前で用意できるのは鉄ぐらいだが……」
「この際鉄でもいいんじゃないか?一時的な凌ぎであっても価値のある物を作ってそれを認めさせることができれば、独自通貨として十分に流通できるはずだ」
「紙幣は偽装されて大量にばら撒かれたらオシマイだが、鉄で出来た通貨であれば、偽装もしにくいし……何よりも生産しやすいからな……アリかもしれん」
「……うーむ、鉄を溶かして作るのか?鉄そのほうがマシかもしれないな……今から急いで作ったとして、どのくらいで完成できるか?」
「デザインを含めれば、大体2週間もあればいけるさ。錬成技術もあるし、なによりも中央政府が混乱している現状だと一般市民も交換に応じてくれるはずだ。ホンモノかニセモノかわからない通貨よりも、アーヘンで価値が保証された鉄貨のほうを信用するさ」
「そうだな……やれるだけやってみようか」
アーヘンは独自の通貨を採択し、混乱が治まるまでの一時的な凌ぎとしてアーヘンを中心に鉄で出来た通貨「アイズンゲート」を流通させることになる。
後に、これがプロイセン王国の基盤を破壊する要因の一つになることは、この時だれも思いもしなかったのだ。




