650:一撃
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1790年5月19日
いよいよこの日がやってきた。
今日、プロイセン王国の各都市で株式暴落を行う大規模な経済的破壊工作が決行される日だ。
経済に対して、確実に……そして、プロイセン王国の継続が困難になるような大規模な攻撃だ。
この攻撃では、直接的に人を殺めることはない。
ただ、間接的に産業や株式投資をしている人間の生命を、自ら絶たせることになる程の損害を与えるのは避けられない。
プロイセン王国は、既にネーデルラントにおいて徹底した占領統治政策を実施しており、これによればネーデルラント北部……アムステルダムでは、占領下において復興がままならず、欧州協定機構加盟国派に属していた議員やその家族の処刑が行われているという報告も受け取っている。
結果として、これまでに起こったどの戦争よりも、プロイセン王国は全てを賭けて戦いに挑んでいる。
それは、自分自身の体制を維持することの他に、肥大化していった城壁の建設費や最新鋭の軍事装備品の更新によってプロイセン王国の歳入を上回る国債が超過しており、すでにかの国は自力で返済する能力がないのだ。
史実でも、ナチスドイツがメフォ手形を発行したものの、膨大化していく軍事費に耐えきれず、誤魔化すためにポーランドへの軍事侵攻を引き起こしたとまで言われている。
その焼き増しのような状況なのが、現在のプロイセン王国だ。
傀儡国家となったポーランドや旧ロシア帝国との経済圏を確立しているものの、軍事侵攻に踏み切ったのは、先ほどいったように国債の超過でこのままでは経済破綻をすることが目に見えているからなのだろう。
借金返済を拒否するために戦争を引き起こす。
これは割とよくある話なのだ。
ドイツだけではなく、フランスでもこれと似たようなことで財政破綻をチャラにした経験がある。
フランス革命の少し前に莫大な国債を帳消しにするために、さまざまな方法を試した。
有名なのが教会の資産を強引に接収してお金に変えた上で、公債として「アッシニア」という紙幣を大量に作って流通させた事だろう。
公債として使えるようにし、担保も保証された。
ただ、政局が不安定で紙質も粗悪で、国家で保証されているとはいえ、そうした紙幣が全土に流通した結果どうなったか?
当たり前だが、今まで使っていた通貨を大量に「アッシニア」に変更させることを強制したこともあり、すぐに酷いレベルのインフレを引き起こして数年で廃止にされた。
革命が起きた上に、その隙を見計らってイギリスが大量にアッシニアの偽札を流通させて、価値の信頼を無くさせたり、挙句の果てに信頼性が無くなった事で、貧民層の大半が価値のない自国の通貨よりも外国の通貨が流通する始末であったとされているのが要因だ。
この政策を実施したのはネッケルであるが、もはやネッケルに残されたのはこのような手段しかなかったからである。
いずれにしても、この粗悪な紙幣はフランス革命を助長させた上で、その後の革命を収束させるきっかけとなった。
ちなみに、この際に被った経済的損失は、当時の国家予算3年分以上であったと言われているが、アッシニアで被害を被った投資家への保証は丸っきり無かったようだ。
まぁ、革命政権が二転三転してナポレオンの独裁政権になれば、そうした前政権の責任を取らないからね。
全て責任は前任者に押し付ければいいわけだし……。
で、それと同じようなことがプロイセン王国でこれから引き起こされるのだ。
株式の大暴落。
それに伴う経済の崩壊。
民衆の混乱を最大限に利用させてもらう。
「悪く思わないでくれ……これもあなた達が引き起こしたことだ。そして、我々は引き起こされた損害を埋め合わせるだけだ……」
プロイセン王国の経済を遮断。
贋金や偽造紙幣を大量に浸透させて、国家の主軸となる通貨への信頼を下落させるのだ。
偽装通貨を流通させることは、こちらにもリスクのある行為ではあるが、既にフランスを含めた欧州協定機構加盟国はプロイセン王国との経済交流が遮断されており、被害を被るのはそうした国と取引をしている第三国だろう。
プロイセン王国を中心に、新ターラー銀貨が流通しているので、そこを突くことにしたのだ。
これは前世の記憶を引っ張り出した上で、かつて太平洋戦争中に中国大陸で偽札をばら撒いて通貨価値を下げようと画策した日本の作戦を参考にした。
これは用意した偽札が大陸側ではほとんど使われていない小額紙幣だったこともあって失敗したが、亡命してきたドイツ人の持っていた通貨を研究し、型番までも再現して現在までにプロイセン王国産の通貨の禁止を徹底させたうえで、大型金貨や銀貨、銅貨に至るまで……約5000万ルーブル分の偽装通貨を用意させた。
この偽装通貨を現地のフランス協力者の下で各地の銀行に眠らせておいたので、銀行を利用しようとする者はいなくなるだろう。
銀行を通じて証券取引などを行っている商会は軒並み恐慌状態に陥ることは避けられない。
都市部の経済を麻痺させ、そして民衆の恐怖を煽るために国土管理局も職員を総動員して大規模工作を実行する。
軍事的な戦争を行うよりも、犠牲者が多くなるだろう。
だが、手段を躊躇していたらオーストリアやネーデルラントが再起不能になるかもしれない。
これは、ある意味で経済における核攻撃に等しい行為だ。
その大混乱を遠慮なく利用して、軍事作戦も同時進行して執り行う。
抜かりなく……一気に片を付ける。
既に海軍の大部隊は移動を行い、ブレーメンの電撃的占領を執り行うために、スペインやポルトガル海軍の部隊をフランス南西部に集結させており、参加艦艇は私掠船を含めると500隻以上にも及ぶ。
さらに、ノルウェーとスウェーデンの海軍と陸上戦力を含めると、経済的混乱に乗じたブレーメン攻略の要である「鰐作戦」を実施することが出来れば、この世界史において過去最大の軍事作戦を敢行することになるだろう。
間違いなく、軍事面の規模としてはとてつもない程に大きなものであり、早々に破られるような戦力ではないことは明らかだ。
『一連の作戦に動員される兵力は70万人であり、旗振り通信などを活用して同時多発的に前線を押し上げてブレーメン方面への援軍を遮断、さらにこのままネーデルラント方面では手薄になった箇所を集中攻撃し、突破を図る……フランス建国史上類を見ない大作戦を実行に移す……』
作戦立案を行った各国の将軍たちは、これほどまでに大規模な戦闘を経験したことがない。
三十年戦争や七年戦争でも、個々で大規模戦闘があったとはいえ……70万人もの大兵員が一斉に前線を押し上げる戦争となるのは史上初の試みだ。
現代戦においても、これほどまでに大規模な戦闘は1990年に勃発した「湾岸戦争」や2011年から十年以上戦いを続けている「シリア内戦」に匹敵する規模だ。
戦線の幅も長く、一斉攻撃にはリスクが伴うが、プロイセン王国を一気に講和に持ち込むためにはこの方法しかないと閣僚たちともじっくりと話し合った結果、この結論を出した。




