629:麦踏(下)
ボスポラス海峡を隔てて、ヨーロッパ側にある町には高さ10メートルもの壁がそびえ立っていた。
この壁は約20キロにも渡る長い壁を作り上げた。
壁を建設しまくったプロイセン王国とは比較対照ではないが、それでも国家予算の多くをつぎ込んで早急に完成させたこの壁を通じて、オスマンの民を中東方面に退避させることに成功したのである。
一方で、壁の向こうにあるヨーロッパ側は既にオスマン帝国の統治が及ばない無法の地域となっている。
オスマン帝国新秩序軍の兵士の一人が、見張り台から単眼鏡をのぞき込んで救世ロシア神国軍の動きを確認する。
そこに映っていたのは、大きな焚火を囲むようにして裸になって入り乱れている老若男女の姿であった。
厳格なイスラム教の教えを守っている兵士にとって、その光景は想像していたよりも過激で、絶句する程であった。
口をパクパクさせて驚いている兵士を尻目に、隣にいるベテランの兵士はからかうように尋ねた。
「新人、あいつらの動きはどうだ?」
「その……裸になって入り乱れております」
「ハハハ、そうだろうそうだろう。だがな、あれをやっている間は攻撃してこないんだよ」
「えっ?」
「あいつらにとって、あの踊りは呪いみたいなもんでな。あれを一日に一回は踊らないと頭がおかしくなってしまうのさ、ま、動きがあったら呼んでくれ」
「はっ……!」
緊張しながらも見張りを続ける新人兵士とは対照的なベテランの兵士は、見張り台から降りて下にいる仲間の兵士達に、今のところ攻撃される心配はないことを告げた。
「今のところ攻撃してくる様子はない。だからその間に休むことが出来るぞ」
「……とはいえ、あとどのくらいで攻撃してくるのか分かったもんじゃないな」
「なーに、あいつらが阿片とかでおかしくなった瞬間にこっちに向かって襲い掛かってくるさ」
「それまでに降臨神感謝祭とか言って狂ったように踊りまくるのか?」
「なんでも、それがあればどんな苦痛を伴っても神の国に召されるんだとさ」
「全く……そんな都合のいい話があるわけないだろ阿片を吸いまくれば廃人になるぞ」
救世ロシア神国軍の異質さを物語る光景。
「決して情を掛けるな、容赦なく殺せ」
それがオスマン帝国軍が救世ロシア神国軍に対して決めた方針であった。
しかしながら、その阿片に関しては既に救世ロシア神国内での生産と調達を行えるようになっている。
また阿片の常習的な服用をしているとはいえ、彼らは阿片を服用する際には乱用するのを防ぐために、少量のみを服用させているのだ。
ロシア帝国から反乱を起こした時に付き従っている兵士に関しては「騎士」の名称と、戦闘直前には阿片状を目分量ではあるが0.5gずつ配布されている。
他にも集団結婚と称して、集団交配を行う際にもパンやスープにアヘン粉末を溶かしたものを使っている。
パン等の食品にも混ぜているが、これは日常的に摂取することで服用者の精神を統一し、その中から感覚器官に優れたものが産まれてくる……というプガチョフの独学と思想により、阿片を服用したことで脳のリミッターを解除し、感覚器官が過敏になっている者を「先導者」として軍の最前線で戦わせたり、あるいは占領した地域をまとめる長としての役割を任されている。
このように配布された阿片を使って、彼らは死を克服した恐るべき軍隊を作りあげることに成功したのだ。
とはいえ……そんな軍隊がいつまでも無敵ではない。
日に日に、救世ロシア神国は少しずつではあるが覚醒しながら戦える時間が短くなってきているのだ。
既に「騎士」の名称を与えられた兵士の中にはアヘン中毒によって倦怠感と気力喪失に襲われる兵士が出始めてきているのだ。
オスマン帝国との最前線において、解放戦争指令第1軍を任されているヤイク・コサックは、次々と重症化して廃人となっていく「先導者」や「騎士」を見て、如何せんどうにかしなければならないと感じていた。
「立てなくなった者はどのくらいいるのだ?」
「今日だけで15人です、阿片を強請っても1時間ぐらいで効果が消えてしまいますので、これ以上は……」
「無理……というわけか……そろそろイスタンブールを攻略しなければならないからな。使える人間を徹底的に投入あるまい」
少量の阿片を服用して幸福感と痛みを感じなくなっていたが、度重なる服用によって阿片の量も増えており、彼らは既に阿片無しでは生きられない身体になってしまっているのだ。
もはや、彼らは阿片にどっぷりと浸かってしまい、戻れなくなってしまった人間だ。
だが、ヤイクはそんな廃人でも活路を見出せると部下に説明した。
「他に、第1軍で廃人化した者はどれだけいる?」
「900名前後です。最近は阿片の使用量も増えてきた者が多いですから……」
「……彼らも、救世ロシア神国の血肉となって絶命するその瞬間まで、ピョートル降臨神の為に命を捧げるように、殉死という形で盛大に執り行えるように明日までに準備しておきなさい」
「では……明日、総攻撃を行うのですね」
「阿片を服用し過ぎて廃人となった者は弾除けにしろ。少なくともそれぐらいは役立つだろう。オスマン帝国軍の兵士が身に着けていた鎧を着させて先頭に立たせればいい」
ピョートル降臨神から信頼の厚い彼は、ここでイスタンブールを陥落させるために、様々な手段を用いて戦うこととなる。
廃人となった兵士を最前線に投入することも戦いの一つでもあった。
すでに阿片を服用することでしか生きられない兵士に出来る最後の奉仕と称して、救世ロシア神国では『殉死・殉教精神』を兵士のみならず、国民全員に叩き込んだ。
普段であれば、アヘン中毒で使い物にならないと判断されるかもしれないが、ここでは違うのだ。
死んでいく彼らを、ピョートル降臨神の為に命を捧げた殉死・殉教者として称え、集団の団結力を高めるために鼓舞する材料となるのだ。
オスマン帝国軍の鎧を身につけてアヘンを吸い込ませた上で、前方にいけばもっと楽になれると兵士達の耳元で囁き、僅かに意識がハッキリとした兵士達に突撃を命じる。
突撃を敢行する兵士達は必死だ。
アヘンの効果が切れれば、また痛みと苦痛が延々と続く無限地獄のような状況に陥るのだから。
涎や糞便を垂れ流しながらも、オスマン帝国軍の陣地に向けて走っていく。
オスマン帝国軍側も【救世ロシア神国軍の捕虜ないしイェニチェリ軍団兵士が逃亡していたら、容赦なく殺害せよ】との厳命を受けているので、彼らはぎこちない走り方をしてくる者たちをマスケット銃で狙撃して殺害したり、行動ができないように無力化していく。
だが、彼らが絶命したり無力化されると同時に、背中に背負っていた背嚢からモクモクと白煙が吹き上がる。
煙幕だ。
彼らを突撃させたのは、無意味に殺害されるためではない。
後続の本体が少しでも被害を減らせるように、煙幕を張って突撃しやすくするためだ。
ヤイクは、白煙が巻き上がるのを確認すると、大声で叫んだ。
「さぁ!先導者と騎士が我々が行きやすいように血路を開いてくれた!彼らの死を無駄にするな!ピョートル降臨神の為に命を捧げよ!!!」
「「「うおおおおおおおおお!!!!!」」」
雄叫びと共に、救世ロシア神国軍の軍団が煙幕の中から姿を現す。
大きく口を開けながら、喜びと殺戮を表現しながら前線を突破しようとしてくる。
オスマン帝国軍は国中から集めた兵士と武器を使い、また至る所に設置した罠や爆薬を惜しみなく投入した。
ここに、イスタンブールの戦いが幕を開けたのであった。




