628:麦踏(上)
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1789年7月29日
オスマン帝国 首都イスタンブール
ボスポラス海峡を挟んだこの細長い地域は今、最も困難な事態に直面していた。
すでに多くの市民がイスタンブールを離れて、ブルサやアンカラといった別の都市に退避が始まっており、それと入れ替わる形で、中東各地から招集された兵士達が集められていたからだ。
「帝国の首都とは聞いているが、思っていたよりも人が少ないな」
「仕方ないさ……もうすぐここは戦場になるんだからな」
「まるで帝国が東ローマ帝国を攻め落とした時も、ローマ帝国側はこんな心境だったんだろうな」
「まさか300年越しに、それをやり返される時がくるとはな……」
「おいおい、まだ決まったわけじゃないだろうに、それに今ここでロシアを食い止めないと、奴らは聖地にまで進軍しかねないぞ」
「おっと、そうだった……気を引き締めていかなきゃ……」
中には対立している部族なども合わさることもあったが、今は部族間での争いよりも、自分達の信仰している宗教そのものが完膚なきまでに破壊されかねない、狂気的な宗教を邁進している集団が押し寄せてくるのを、何としてでも防がなければならない事であった。
救世ロシア神国は、ロシアにとって長年の仇敵であるオスマン帝国を瓦解するべく、1789年6月7日に、イスタンブールに向けて進撃を開始した。
各地に点在していたオスマン帝国軍の部隊を撃破し、現地において救世ロシア神国の国是ともいえるピョートル降臨神を崇める統一的宗教価値観を植え付けることにより、彼らの軍隊は一つの獣となって東欧に押し寄せた。
ルーマニアやブルガリアの大部分を制圧した彼らにとって、ズルズルと後退していくオスマン帝国を屈服させるのは時間の問題であると考えていたようだ。
また、モスクワにいるピョートル降臨神こと、プガチョフに至っては休戦協定を結んだ旧ロシア帝国、及びスウェーデンの傀儡国家と化したサンクトペテルブルグよりも、かねてより脅威とされていたオスマン帝国に狙いを定めたのである。
「南に行けばこちらよりも暖かい。それだけに食べ物も豊富だ。ライ麦や大麦だけではない、他の刺激的な食べ物も沢山ある。それらの食べ物があれば産まれてくる子供達にも沢山食べさせることができるのだ」
既に、多くの支配地域を獲得していた救世ロシア神国では食料に関する課題が出始めていた。
急速な支配地域の獲得により、土壌豊な南ウクライナ地方などから食料を賄っていたが、それでもなお増え続ける人口に対応するためには食料が不足していた。
これには救世ロシア神国軍そのもののメカニズムが大きく由来している。
この軍隊に集まっている者の大半が農奴出身者であり、彼らはプガチョフの反乱が発生すると同時に彼の軍隊に参加し、軍隊としてその機能の大部分を担っていた。
農奴兵ではあったが、彼らはプガチョフが指揮した軍隊のシステムによって訓練を受け、鎮圧に当たっていたロシア軍を退かせたばかりか、モスクワまでも制圧する程の力を見せつけることになる。
ただ、それは阿片や大麻といった麻薬を服用させてから大量の農奴兵を突撃するといった戦法を多用しており、その戦法によって耕地を耕す農民が不足し始めてきているのだ。
人間とて、1年そこらで成人に成長するわけではない。
このことから1789年の5月までには本土の農奴兵の動員を中止しており、代わりに解放した占領地からの招集兵に頼ることになったのだ。
とはいえ、そんな救世ロシア神国はコーカサス地方においても勝利を重ねており、6月16日にはコーカサス方面軍はジョージアのバトゥミ、アゼルバイジャンのバクーを制圧。
オスマン帝国は東欧における影響力を大きく喪失しており、各地で起こった独立運動を鎮圧できず、本土での決戦に備えて、兵力温存のためにこれらの地域を手放した。
国家存亡の危機であったセリム三世は、フランス人軍事顧問団の助力を得て編成した新規軍をイスタンブール防衛に充てて、押し寄せる人間津波への防波堤としての役割を期待したのである。
『ニザーム・ジェディード』
新秩序を意味するこの言葉は、史実のセリム三世が実行しようとした、西洋式軍隊の創設と近代化の呼称であったが、この世界ではセリム三世は自身の帝国……すなわちオスマン帝国の新秩序を構築しない限り、国家を維持できないと考えたのだ。
しかし、既存体制と利権目的で居座っている軍の重鎮である常備軍のイェニチェリ軍団が邪魔であった。
もはや陳腐化した軍隊であるにも関わらず、彼らは世襲制だけではなく軍隊の改革を執り行おうとした皇帝に対しても横やりを入れたり、恫喝まがいの脅迫すら行うことがあった。
(もはや、これらの軍団はオスマン帝国の存続に邪魔だな……仕方ない。ここは帝国の血肉となって名誉を重んじておくやり方でいくか……)
そこで、セリム三世は救世ロシア神国の戦争が勃発すると、積極的にこのイェニチェリ軍団を戦場に投入し、大勢のイェニチェリ軍団兵士を戦死させたのだ。
イェニチェリ軍団としても、旧式なやり方でも自分達の戦術が通用すると過信していたのだ。
常備軍の中でも皇帝に口出しをしてくる軍団に対して「帝国の危機であるから、是非とも出撃してもらいたい」と要請し、彼らは自分達の地位や名誉の確保を皇帝に約束させると進んで前線に赴いた。
そんな常備軍として普段は威勢を張っていた軍団も、阿片を服用して襲い掛かってくる救世ロシア神国の農民兵に恐怖した。
どんなにマスケット銃で撃ち殺しても、目や大腸が身体から飛び出していても、笑いながら突撃を敢行してくる集団なのだから。
「なんだよ!なんなんだよあの化け物共は!」
「くそっ!死にたくねぇ!あいつらに殺されるなんてまっぴらごめんだ!」
「おい!勝手に持ち場から離れるな!」
中には恐怖のあまり、錯乱を起こして軍団から脱走する者も後を絶たなかった。
そんなイェニチェリ軍団の軍団長が反転して退却をしようとしたその時には、後ろから味方の兵士が銃を構えて『皇帝の命により、現場を死守せよ』との大号令を執り行ったのである。
「なぜ銃を構える!後退しなければ軍団が瓦解するぞ!」
「皇帝陛下からの勅命である。持ち場を固持し、死守せよ……反転は逃亡と見なし、銃殺する」
「貴様!俺が誰が分かって言っているのか!」
「既に皇帝陛下より、貴方の地位よりも私は上の立場に遣わされた。これ以上の命令違反を行うようであればこの「新秩序軍」が容赦なく軍規に則り、命令拒否と敵前逃亡により処刑する」
イェニチェリ軍団を後ろから見張っていた軍隊こそ、『ニザーム・ジェディード』によって創設された新秩序軍であり、常備軍であるイェニチェリ軍団としては、皇帝の命令で出撃を命じられているにも関わらず、それを断ることは出来なかった。
中にはこの新秩序軍に反発した軍団長が反乱を起こした所もあったが、そのいずれもが押し寄せる救世ロシア神国軍に敵わなかった。
かくして、各地で防戦をしていたイェニチェリ軍団の大部分が壊滅し、残った人員は戦争前の10分の1にまで減少していた。
損耗率が激しくなった事を見計らって、イェニチェリ軍団の解体を行ったのである。
「しかし、皇帝陛下も大胆な改革を為さるものだ……」
「全くだ、部族ごとに自治をお認になる代わりに、西洋式の軍隊方式を採用した軍を配備為さるとは……大胆な改革に、よくイェニチェリ軍団は反発しなかったな」
「なに、簡単なことだ。反発する奴は皆死んだからな」
「ハハハっ、違いない」
遅かったものの、これでオスマン帝国には開明的な軍体制が確立し、セリム三世も各地の部族や地域の自治独立を保証することを確約させた。
オスマンの民が、ようやく一つになって強敵と戦う準備が整ったのであった。




