609:京都事変(下)
京都での松平派が粛清や左遷の嵐が吹き荒れている頃。
当事者であり、田沼派の役人や家族の誘拐や殺害事件に関与していた鉄門組は、その勢力を東北地域に轟かせていた。
鉄門組の頭領である阿武隈半蔵は、部下からの報告を胡坐をしながら聞いていた。
「……よって、仙台藩の最後の砦であった遠田郡は先ほど完全に制圧致しました。逃げ込んでいた幕府側の武士や御家人、合わせて300人程を捕縛しましたがいかがいたしましょうか?」
「流石にこんな寒い日に野ざらしに捨てるわけにゃいかんからな。俺たちの下で働けば助命しておくように指示を出しておきな。ただし、それを拒んだら打ち首だ」
「はっ、すぐに命じておきます」
「これで仙台藩も完全に制圧したか……陸前国を平定したからには、これまで通り会津からの指示を聞くまでにも時間が掛かりすぎらぁ。ぼちぼち各地域ごとに頭をつけておくか……」
会津を中心に陸奥の大半を勢力圏に納めた鉄門組は、群雄割拠状態となっていた太平洋側の東北地域を相次いで平定した。
しかし、東北地域全てが鉄門組の門下になったわけでなない。
浅間山大噴火が起きて半年が経過した頃、仏教を信仰している大きな寺などが幕府を見限って、平安時代末期から安土桃山時代の刀狩令が行われるまで存在していた「僧兵」を復活させたのだ。
「なまじ、戦国時代の世に逆戻りよ……ワシャ、僧兵を出羽で復活するとは思いもせんかった……」
「それだけ幕府の統治が行届いておらぬ証拠でしょう、半ば陸奥や出羽の復興を諦めているやもしれません」
「江戸が浅間山が噴き出した灰で埋もれてしまったんじゃ、ここも最初の2年は米はおろか麦もあまり育たくなって苦労したがな……」
「それでも出羽がいくらかの稗や粟の実を送ってくれたお陰で、とにかく雑穀でも沢山食べれるのに切り替えたお陰でこうして飢えずに鉄門組がおるわけですから、かの三山宗との不可侵の取り決めは守らねばなりませぬな」
「そりゃそうじゃ。いずれ幕府が武を持って平定してくるときは、こちらも抵抗するまでよ」
その中でも出羽(現:山形県)では『出羽三山宗』が救民救済を訴えて浅間山大噴火からの影響が無事ないし被害が軽微だった地域からの救済米などを運搬し、その救済米を狙った野盗や規律から外れてしまった武士集団との戦いに備えるべく、自衛目的で僧兵を復活させたのだ。
僧兵の総数は戦国時代の最盛期だった数を上回る2万人に膨れ上がり、数だけ見れば東北地域でも有数の軍事力を有する勢力となったのだ。
これに対して、鉄門組は義賊・反幕府を掲げて立ち上がった集団であり、戦に関しては素人の面もあったが、彼らの強みは相手の弱みに漬け込んだ作戦を遺憾なく発揮。
敵対した武装勢力での仲間割れや内乱を誘発させ、混乱した隙に乗じて武力制圧を行うこともあったのだ。
1785年から1786年までの一年間で、若松城を拠点に会津藩の各地域に残存していた幕府の武士や役人、それに商人が金で雇った私兵部隊との戦いに勝利し、会津藩内で同時期に発生した山賊集団との縄張り争いにも勝利している。
この出羽三山宗は、義賊として若松城を攻め落とした鉄門組とは一定の距離を保ちつつも、彼らが表立って救民の為に行動していたこともあり、水面下では協力体制を構築していたのである。
青森や秋田、山形を除いて、鉄門組の門下に下った勢力と合流し、事実上日本幕府に次ぐ勢力となったのだ。
浅間山大噴火による凶作と飢饉は、東北地域に住んでいた多くの人間を死に追いやった。
幕府の援助を空しく、各地で反幕府勢力が決起を起こし、兵士達も数で圧倒する民衆を制圧できずに次々と城主や大名が革命に等しい反乱によって落命。
代わりに、民衆をまとめ上げる武力革命によって、東北地域は史実よりも混沌とした情勢を迎えているのである。
事実上、日本幕府ですら避難民や流民からの情報でしか把握することが出来ず、大規模な軍事介入に関しても幕府は戦争より復興を優先していることから、日本の平定が困難になっているのが現状である。
「しかし、出羽三山宗も妙な動きをしておるな……最近は清国の者がやってきたのだろう?」
「ええ、幕府から断られたり朝鮮の方から逃れてきた者達がやってきたとか……いずれにしても、同じ仏教の教えを願う者であることから、受け入れをしているとのことです」
「ふむ……こちらに戦を仕掛けるような真似さえしなければ出羽国の方は彼らに任せてもよかろう。幕府が本格的に力を取り戻す前に、松平派の生き残りから情報をかき集めておくのが先じゃ……」
鉄門組、ひいては阿武隈にとっては松平派の粛清劇に関してはある程度織り込み済みであり、松平定信という反田沼派の筆頭人物がいなくなってから、かの派閥は宙ぶらりんに浮いてしまっていた存在であった。
田沼意次らが浅間山の噴火について警告をしたにもかかわらず、それを無視してとどまっていた松平定信は、飢えた領民によって殺害され、西日本に退避が出来た松平派の大半が、誰がリーダーを務めるからで派閥間での揉め事も多くなった。
田沼派との和解を行い、松平家の復興を含めた融和路線を歩むハト派と、田沼派への和解に反対し、現在の将軍を毒殺し、代わりとして紀州の麒麟と謳われた徳川治貞を担ぎ上げようとするタカ派の内部抗争が起こった。
その派閥間抗争の際に、会津藩出身の武士を使った暗殺を実行したのが鉄門組であった。
松平派は大坂や京都に派遣された鉄門組の者達と接触し、暗殺や誘拐を依頼してハト派の主要メンバーを殺害したり、意見を変えるために誘拐したりするなどの暗躍を起こしていたことが後に発覚する。
阿武隈は、義賊時代に培ったノウハウを生かし、可能な限り政治を裏側で引っ掻き回すことに専念している。
そして出羽三山宗の支配地域では珍しいことが起こっていた。
というのも、現在の出羽三山宗支配地域では少なくない満州人の姿が見受けられたからだ。
出羽三山宗は彼らを受け入れる代わりに、清国の情報などを取り入れていたのだ。
南京や南通から逃れてきた者達であり、元々役人やその家族、それから体制派に属しているグループであった。
南京や南通では、白蓮教による大規模な反乱運動が発生しただけではなく、清国南部地域である雲南一帯でも青幇や紅幇といった反清国抵抗組織が相次いで武装蜂起を起こしたことにより、清王朝の体制はもはやガタガタになり、自分達と同じルーツを持つ満州人の多い地域でしか行動できない。
各地域の大都市部では、白蓮教による満州人狩りや、改宗・改名の行為が強制的に行われており、助命できる条件が「清王朝から授けられた名前の廃止」「役人であれば、白蓮教の教義を受け入れて清の教義を放棄」など多岐にわたる。
脱出を図った者のうち、北京などに逃げようとした華南の者の多くが、海上戦力を有する青幇に捕まったりしたこともあり、妥協案として朝鮮半島や台湾の青龍、そして幕府の支配が及ばない東北地域に逃げる例が複数あったのだ。
既に中国大陸の大半が白蓮教の支配地域となってしまい、清国の支配地域は既に華北の中でも北京より北側の地域となっている。
大噴火に見舞われた日本のみならず、白蓮教による反乱などの清国の混乱は、アジア地域に多大な影響を及ぼした。
そしてプロイセン王国による軍事侵攻に踏まえて欧州と並んで混沌とした情勢であったことから、東洋学者の多くはこの1788年頃の情勢を『暗雲の近世時代』と呼んでいるのだ。




