601:前衛(下)
午後3時……。
救世ロシア神国軍による攻勢が開始された。
前衛を担う兵士達の雄叫びと共に、農具を手に取る兵士達がオスマン帝国軍の陣地に攻撃を始めたのだ。
「ピョートル降臨神に捧げよ!神に全てを捧げよ!母なる大地を我らの降臨神の下に統治するのだ!」
「「「うおおおおおおおおおおおおおおお!」」」
「前進!前進!前進!」
その光景はまさに異常としか言いようがない光景だ。
救世ロシア神国軍は男性ではなく女性までも参加しており、全員が簡素な服を着ているか、もしくは裸の状態で突撃を敢行してくる。
救世ロシア神国軍の兵士達は死を恐れない。
恐れたくても、それができないようになっているのだ。
阿片と大麻を服用している彼らは、手足の欠損などの重傷を負っても、痛みを感じない。
無痛の軍隊を有しているのだ。
腸が切り裂かれ、地面に飛び出してもしばらくは動き回る。
まさに地獄からやってきた悪魔のような軍隊である。
死の軍隊と恐れられている理由には他にも彼らには「後退」という言葉は存在しない。
大勢の屍を目の当たりにしても、彼らは怯むことなく突撃をする。
何度も、何度も、その陣地が陥落するまで突撃を繰り返す。
原始的な昆虫の蟻のような命令系統を持っており、彼らは数百人のうち1人がまとめ役となって突撃を担う隊長となり、農具を持って攻撃を開始する。
「母なる大地を阻害する者達を殺せ!抵抗する者は降臨神への逆心を目論む不届き者だ!降臨神のいた神の国へ召されるまで!戦うのだ!」
「「「うおおおおおおおおおおおおおおお!」」」
かつて、辺り一面小麦畑であった場所は、今では多くの救世ロシア神国軍の兵士達が全速力で駆け巡る場所となり麦は踏み倒されるか、屍となって腐敗した兵士達に群がる野生動物や虫の苗床として、様相を一変させていたのだ。
彼らの掲げる旗はピョートル降臨神のシンボルカラーである赤色に染まった旗。
しかし、すでに旗の色は変色しており、濃い赤色となっている。
ピョートル降臨神の下に入ることを拒んだオスマン帝国軍の兵士達は処刑され、その時に身体からあふれ出た血液を布に塗りたくり、その布を旗として掲げている。
彼らは笑顔だ。
笑いながら突撃を実施している。
大声で叫びながらも、阿片と大麻を服用した影響で気分が高揚と至高の状態で走りだしている。
途中で兵士の亡骸につまづいて、後続の兵士達に踏み潰されても、彼らは笑いながら絶命する。
人間でありながら、既に人間とは隔絶された『別の人類』のように見える恐怖の兵士達を前に、オスマン帝国軍の兵士達は攻撃に備えて、武器を構える。
「敵、前進を開始しました!」
「数は……言うまでもないか……総員、攻撃準備!引き付けてから一斉射撃だ!」
「マスケット銃の点検を怠るな!いいか、骸になっている兵士を乗り越えたら射撃するんだ!野砲も砲弾装填用意!」
「砲弾装填よし!右翼の砲撃陣地、砲撃準備完了しました!」
「よーし、引き付けてから一斉に放つぞ。最新鋭の野砲だ。壊したりするんじゃないぞ!」
野砲はフランスの軍事顧問団からの技術提供によって実現したオスマン帝国では最新鋭の野砲だ。
軍事顧問団による基礎訓練などは行えたものの、最新鋭の技術提供に関しては国内からの猛反発があって実現は出来なかった。
しかし、ルイ16世はセリム3世を通じて極秘ではあるが20年前相当の武器・兵器に関する技術提供を行い、既にフランス軍では陳腐化された技術であれば、問題ないとされた資料などを軍事顧問団を通じてオスマン帝国に供与された。
これは特例措置ともとれる内容だったが、救世ロシア神国軍を引き付けているオスマン帝国への遠回しの支援と、改革を行おうとしているセリム3世への個人的な関係構築を望んだルイ16世の思惑によって実現したのである。
フランス軍では時代遅れとなった技術でも、オスマン帝国では喉から手が出る程欲しかった技術。
それだけに、オスマン帝国では野砲を中心に国内の工房を臨時でフル稼働させて量産にこぎ着けた代物でもあった。
オスマン帝国軍は、突進してくる救世ロシア神国軍が山積みになった仲間の死体を乗り越えてきた瞬間に、一斉に攻撃を開始した。
無数の弾丸や砲弾が飛び交い、前衛を担っていた兵士達の身体に次々と着弾し、斃れていく。
普通であれば逃げ出したいような状況であるにも関わらず、前衛の兵士の屍を乗り越えて次々とオスマン帝国の陣地に突撃を開始している。
「敵前衛部隊、もう間もなく最前線の部隊に到達します!」
「最前線の部隊は白兵戦用意!いいか!撃ち漏らしたヤツがきたら容赦なく殺すんだ!ここを突破されたらオスマン帝国本土まで一直線だ!」
「弾薬の心配はしなくていい!今はとにかく撃って、撃って、撃ちまくれ!」
オスマン帝国軍は決死の防衛を敢行。
最前線の部隊は銃剣を装着し、榴弾兵はありったけの爆弾を投げ込む。
それでもなお、救世ロシア神国軍の進撃は止まらず、ついに最初の前線が突破されてしまう。
「くそっ!最前線の部隊が突破されました!」
「やべぇ……あいつらは正気じゃないよ……狂ってる!」
「農具を使って殺されるなんて末路はまっぴらごめんだね……とはいえ、ここから逃げることすら出来ないとは……」
「やるだけの事はやるんだ!油を使って火を放て!それで少しぐらいはマシになるだろう!」
オスマン帝国軍は、最前線が突破されるのを確認すると、第二防衛線の間に大量の油を撒いてから火をつけた。
炎が盛んに燃えていても、そんなことはお構いなしに兵士達は突っ込んできている。
身に着けている服などに引火して、身体が燃え上がっても動きは止まらない。
第二防衛線に到着した頃には、既に6回目の攻勢にかけて進軍した兵力の3分の1がやられてしまっているが、それでも動きが鈍ることはない。
第二防衛線、第三防衛線が突破される頃には、オスマン帝国軍も数を大きく減らしており、僅かに残ったアラブ人兵士がマスケット銃だけではなく、使えるものは何でも使って防戦をしていた。
弾薬が尽きれば、さらに斧や剣などを使って数で突進してくる救世ロシア神国軍を迎え撃つ。
血で血を洗うような戦場、最も狂った戦闘ともいえるこの戦いは、最終的に救世ロシア神国軍は総兵力の20パーセント近くが死傷する損害を受けるも、オスマン帝国軍が構築したエルホヴォの防衛陣地を攻略することに成功した。
『街は、赤く塗装された……全ての万物がこの世の地獄のような光景は、未だかつて見たことがない。多くの屍が転がり、野犬や獣……そして蛆虫が死肉を食らう中でも、救世ロシア神国軍は衰えることなく、兵士を突撃させてくる。弾薬も残り少ないが、増援までこの場を死守しなければ、彼らは我々を飲み込んでしまうだろう。そうならないように……私は最後までこの地を決戦の地と定め、聖なる戦いとしてこの身を捧げる覚悟だ……』
オスマン帝国軍はエルホヴォを放棄したその日のうちに、ありとあらゆる人員と武器を動員する法令を発布し、徹底抗戦を行うことを国内外に示したのであった。




