587:空中遊泳
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1788年6月13日
ヴェルサイユ宮殿からおはよう諸君!
久しぶりに気分が清々しいと感じているルイ16世だ。
今日は陸軍が管理、運用を行っている熱気球を直接眺めている最中だ。
まだ空には飛ばしてはいないが、着々と一般飛行公開に向けて準備が進められている。
これまでにも、軍用として機密扱いされていただけに、熱気球を知っているのは軍人などのごく一部の人達しか知られていない乗り物だ。
史実よりも遅い一般公開されていることもあり、ヴェルサイユ宮殿周辺は人だかりもすごいことになっている。
多くの人が押し寄せていることもあり、ヴェルサイユ宮殿では警備体制を強化した上で、群衆整理を行う警察官や憲兵隊を配置して、会場内での窃盗や盗難が起きないように目を光らせている。
「志願兵の募集を受け付けております。志願を希望する方はこちらにサインと住んでいる住所を記入してください」
「簡易検査を行った後で贈呈品を受け取ってください。今後一週間以内に兵役事務所に出頭することになりますが、予備役の場合はもう一週間延長されます」
「保存食などの備蓄を推奨しております。最低でも三日間は自力で確保できるだけの食料を保存するように心掛けてください。こちらのブースでは保存食の販売を行っております」
最近は特に……戦争に向けての準備期間に入っている。
街中でも徴兵ではないが、志願兵を集うポスターなどの貼り紙が至る所に成されているし、戦傷病者へのアフターケアを充実させ、戦傷病者年金の支給額の確約と補償を明記したり、予備役として登録している人でも優先的に医療品や食料品の割引券を配布したりするようになり、とにかく軍人を増やす取り組みが始まっているのだ。
男性だけではなく、少数ではあるが女性の志願兵も動員を開始しており、軍全体では約1%近くが女性を占めている。
これは事務要員や従軍医療スタッフとしての意味合いが強いが、それでも女性も男性軍人との賃金格差是正を行い、医療スタッフに関しては危険手当を付けるといった具合に、性別で差別がないように配慮もするように俺が指示した。
この熱気球の飛行が行われるヴェルサイユ宮殿の付近でも、志願兵募集用のテントが設置されており、そこで志願を行うと、志願兵特典として一週間分の食料やワインなどが贈呈され、決められた日時に兵役事務所に出頭することが義務付けられている。
ここ最近だと、教会や市場等人が集まる場所を中心に、兵役事務所の出張登録受付所が幅広く設置されているのだ。
パリだけではなく、リヨンやナントといった地方都市でも志願兵の大規模動員が行える準備を粛々と進めているのだ。
本人が大怪我をしたり、親族が死亡するなどの特別な事情がある場合は免除されるが、これを故意に無視すると『兵役義務違反』と『兵役規約違反』となり、懲役3年以上の実刑判決、及び労働刑務所への送還が実施される。
また、戦争が勃発して食料を輸送する場所が占領されたり、パリが包囲される事態になった場合は、籠城戦となるために食料を十分に配給できない恐れが生じたこともあり、保存食などの展示がある。
オーストリアとネーデルラントと緊密に連携することで閣議決定し、宮廷も議会も国民も、戦争が起こったらすぐに行動できるように準備をしているのだ。
「だいぶ人が集まってきましたわね……思っていたよりも人が多い気がしますが……」
「少なくとも、今回は公の場としては初めて一般公開される熱気球だからね……それだけ見てみようって思う人も多いんだよ」
「お父様、あの水色のやつが空を飛ぶの?」
「そうだとも、上空を飛行するように設計されているんだ。鳥のように素早く動くことは出来ないけど、人を乗せたまま空を高く飛ぶことが出来るようになっているんだ」
アントワネットをはじめとした家族揃って熱気球の一般飛行の様子を眺めている所ではあるが、アントワネットは今回の熱気球の飛行は大丈夫なのかと尋ねてきた。
これは機密的な意味合いでだ。
「それにしても、熱気球は軍事機密だったのですけど……これを一般公開してもよろしいのですか?」
「確かに軍機だけど、それは改良型である程度の気候にも対応できる最新鋭のやつだね。今回飛ばすのは既に実験やカリブ海戦争で投入されたことのあるモデルだし、軍にも問い合わせをしたけど問題ないとの回答を得ているやつだから大丈夫だよ」
「軍から了承を得ているのであれば大丈夫そうですね……それでも、こうしてヴェルサイユ宮殿の上空に気球が飛ぶなんて初めての事ですわ」
「そうだね……確かに、初めてのことだから多くの人が集まって一目見ようとしているんだろうね……」
実は史実でも熱気球の飛行はヴェルサイユ宮殿で行われたことがあり、この時には沿道を埋め尽くす人が集まって、その様子をみていたことが記録として残されている。
そしてモンゴルフィエ兄弟は史実よりも早くに熱気球を開発しており、カリブ海戦争においてはシャルルマーニュ級フリゲート艦に搭載した偵察用熱気球による観測により、フランス艦隊を勝利に導いたとして既にフランスの栄誉勲章を受賞する程である。
ただ、一般向けには公開されていなかったこともあり、多くの人の前に姿を現すのが、今回が初めてとなる。
一般公開となった理由については、軍部の方から『国民を安心させるためと、軍の士気高揚のために是非ともヴェルサイユ宮殿で飛行を行って欲しい』と強い要請を受けたことが始まりだった。
「熱気球の一般公開を実施したい……それは大丈夫なのか?」
「はっ、現在国民の多くが戦争に備えて準備を進めておりますが、やはり不安に思っている国民は相当数おります。彼らを安心させるためにも旧型の熱気球の展示飛行を行いたいのです」
「うむ……余としてはそれは確かに一理あるとは思うが……高い場所まで上がる熱気球を諜報員が観測して、情報の流出が懸念されるが大丈夫なのか?」
「それに関しましてはご安心を、説明書や内部の構造に関しましては機密指定されておりますので、詳しい内容は伏せられております。それから、万が一に備えて”偽”の説明書を現場では展示する予定です」
「偽……という事は、燃えやすい素材や、可燃性で危険な燃料を使っているという偽情報を諜報員にリークさせておくというわけだな」
「その通りです」
熱気球がカリブ海戦争において、艦隊の上空偵察を実施し、それが成功を納めたことで軍事上重要な要素である航空偵察任務を行うことが出来るということもあり、機密事項として軍機の扱いを受けていたものの、基本的な設計に関してはフランス科学アカデミーの研究者でも製造可能である。
それ故に、万が一情報が流出した時に備えて、軍部では偽のマニュアルを作成しており、諜報員に「あえて」盗んでも問題のない設計図面を記したものを保管しているのである。
そんなことを思いながらアントワネットたちと世間話をしていると、今回の熱気球の飛行が始まろうとしていた。




