536:切断(下)
華南地域の経済のアキレス腱ともいわれている深セン。
今現在、大勢の庶民が路頭に迷っていたのだ。
「何処もかしこも仕事がないからな……」
「戦争で物価は高騰して、俺たちの主食のコメも北部に優先的に回されているらしいからな」
「何と言っても問題なのは今後どうなるかだが……俺としてはこのまま困窮するのは耐えきれん」
「俺もだよ。クソッ……それなのに役人達は旨い飯にありつけるからいいよなぁ、やってられないよ」
華北地域での戦乱や麦の不作が影響していることもあり、比較的米の収穫が例年通りであった華南地域には皇帝の命令で優先的に物資の輸送が命じられていたのである。
米をはじめとした穀物に並び、日保ちする野菜なども海上輸送で運ばれており、今や清国海軍は輸送艦隊として船団護衛の役割を任されているのだ。
何故なら沿岸部の海上輸送を行うルートは、清国海軍による護衛の元行われていたこともあり、殆ど襲撃を受けるようなことは無かった。
海軍は清国海軍の中でも大規模であり、ヨーロッパの技術を応用して作られた船も複数存在しているため、総合的な能力としては白蓮教を近づけさせないのにはうってつけであった。
この1786年度の清国における輸送手段は、比較的安全であった黄海で行くルートが主流になっていた。
なぜなら武装した大型船に攻撃を仕掛けるような者は流石に殆どいなかったのである。
ただ停泊中に白蓮教によるサボタージュや破壊工作が無かったわけではないし、フリゲート艦に工作をされて船が沈む事件も度々発生してした。
それでも、海上輸送で運んだほうが運河を中心とした水上輸送に比べて遥かに安全であった。
陸路が白蓮教の支配地域になってしまったことで、大型船による護衛によって華北にたどり着いた輸送船から運び出された食料が、凶作に喘いでいる華北地域の数少ない支援となっていたのもまた事実である。
「今じゃ、水運業者も怖いもの知らずの人間しか雇わないらしいな」
「そりゃそうだろ?誰だってあんな戦場に近い運河を通るなんて普通じゃやりたくないさ。ただ、報酬は良いけど帰ってくるまでは給料が支払われないし、途中で逃げたら給料だってもらえないんだぜ?」
「……水夫の仕事だって楽じゃないのは知っているけど、そこまで徹底しているとはな……」
「海上輸送で政府のお守りしながら輸送する業者はコバンザメだって言われるしな……それに、政府が斡旋している業者の給料はかなり安いらしいからな……」
「どっちにしても、仕事は大変というわけか……」
1786年2月までに大陸中を張り巡らされている運河での輸送において、白蓮教と繋がりのあった水運業者ギルド以外での運搬は困難になりつつあった。
白蓮教と青幇が手を組み、彼らの意見に従わない個人の水運業者や、直接政府によって買収されてたりして国が保有する船には、すぐさま連絡が各地に行届く仕組みになっており、これらの行動が逐一仲間に連絡が行届いてしまうので、襲撃の対象になっていたのである。
水夫たちも、自分達の所属しているのが青幇のギルドでないと安全に積荷を運べないという理由で、政府系の水運業者に行くのをためらった。
安い給料だが、他に行く当てのない者達は、そうしたところで働くしかなかったのだ。
「ただ、政府系の業者のトップに関しては薬関係で大いに儲かっているらしいぞ」
「薬関係で……?どういうことだ?」
「薬は華北全域で不足しているんだよ。言い分としては薬草の原産地が白蓮教の支配地域になってしまってから、今まで供給していた量が確保できなくなってしまったんだとさ。ただ、白蓮教の支配地域以外でも薬草とかは生産しているはずだから、白蓮教への批判を向けさせるために行動しているんじゃないかという噂まであるぞ」
「それで薬の値段が最近大きく上がっていたのか……」
「そうだ、だから汚職役人とかが一番恨まれているというわけさ」
襲撃対象となっていたのは白蓮教と相反する清王朝に忠誠を誓っている業者と、彼らの利権で食べている物産の重役、役人たちだ。
商品が滞っていても、薬品類であれば高値で支払いを請求してもその分の支払いを行ってくれるからだ。
薬などの単価が高い商品を買い占めて、それを華北の市場に売りつけるだけで、食料輸送よりも儲けが出ているのだ。
これは政府系の業者とその取り巻きたちが得られている特権であり、薬に関しては大きな制約を受けている状態であった。
襲撃対象となっている場合、船主はそこに行こうとしないし、多額の損失を恐れて問屋も商品を運ぼうとしないのだ。
結果的に、飢えや戦争で物資不足に苦しんでいる地域に、高値で販売するような手法を王朝側が行ったことで、十分な医薬品の類が行届かないという事態に発展し、多くの人達が命を落としていたのだ。
人々は嘆いた。
なぜこうも理不尽なことばかり起きてしまい、食べ物が高値続きなのに重税を課している政府に対し、多くの不満を募らせていたのである。
華北だけではなく、華南でも清王朝に対する不平不満は最高潮に達しようとしていた。
そして、夕刻。
僅かな食料を買い求めて市場に人が集まりだした時、白装束の衣装を身に纏った集団がやって来て、清王朝への不平不満を大声で漏らす。
その後ろには荷車に大量の米を積んだ者達が列をなしている。
「さぁさぁ、もうこの世は苦しみだけしかないよ!我々は極楽浄土の世界を目指して行動するよ!」
「米も麦も沢山ある!我々に協力して、悪しき役人達を叩きだそう!」
「貧しい者達を救うのが仏の教えであるにも関わらず、政府は漢民族の事を何とも思っていない!人徳の心がないのだ!」
「白蓮教が救済のための道しるべを示す時が来たのだ!共に立ち上がろう!」
白蓮教が大挙して人々への救済のために米などを無料で配布したのである。
人々は直ぐに飛びついた。
特に、飢えていた農民や出稼ぎ労働者たちに至っては、藁にも縋る想いで彼らに救いの手を願い、その願いが行届いたかのように優しく振る舞われる。
まさに夕焼けに背を向かうようにしてやってきた白蓮教徒たちを、仏の救済のように扱い、その狂乱は人々の間で瞬く間に伝播していく。
市場に集まっていた人々は、白蓮教による「救済」を歓呼の声を持って迎えた。
その一方で、大混乱に陥ったのは八旗軍であった。
夕刻の市場で大挙して現れた白蓮教徒に対し、どのように対応していいのか個人の判断では決断出来なかったからだ。
「おいおい、あれ白蓮教徒じゃないか!しかもこんなに沢山……」
「今は民衆があっちに意識が向かっているけど、こっちに殺意を向けられたら……」
「ああ、ただじゃすまないだろうし、これっぽちの守備隊だけでここを守れるわけないだろ!」
「本部に応援を頼んでも時間が掛かるからな……どうする?」
「どうするって……そりゃ決まっているだろ、そっと持ち場から離れて逃げるだけさ」
「逃げるって何処に?」
「青龍だよ、陸路で逃げてもいずれ追いつかれる。なら一層のこと、フランスの領土まで逃げてしまえばいい。亡命希望をすればギリギリいけるだろ」
兵士が一人、また一人と逃げていく。
白蓮教徒を見て恐怖し、逃げているのだ。
殆どが満州人以外で構成されていた治安部隊ということもあり、必要以上に恨みを買っている八旗軍の仲間だと言われたら殺されるのは目に見えているからだ。
深セン、及び広州の八旗軍は、一斉蜂起による白蓮教徒の対処ができず、僅か3日間で司令官が自殺し、事実上華南地域における八旗軍の本部が陥落してしまったのである。
これにより、清国の陸上戦力は南京と北京で分断されてしまい、気がつけば包囲されているのは八旗軍という異常事態に陥ったのであった。




