497:2月26日
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私はオーギュスト様と一緒に、チョムキナさんを屋敷までご案内致しました。
チョムキナさんの表情は、スウェーデン大使館にいた時よりも和らいだ表情を見せています。
馬車の中で肌を引っ掻き回したことには驚きましたが、オーギュスト様曰く、強い不安やイジメなどの逃避行動として自分の身体を傷つけてしまうそうです。
元々、看守から暴行を受けていたと説明を受けておりましたので、そうした行為はストレスを緩和するための手段として彼女の身体に染みついてしまった行為なのだそうです。
無理に、止めようとすれば更なるストレスに繋がってしまうこともあるため、オーギュスト様はチョムキナさんに語り掛けるように、ゆっくりとした口調で話しかけておられました。
そうして、少しずつ心を打ち解けたのか、屋敷を案内している時はオーギュスト様の後をしっかりとついてきて、説明もしっかりと聞いておられました。
説明を聞いた後、私はチョムキナさんを連れて部屋に入ってから、彼女の腕に包帯を巻いてあげました。
余りにも水ぶくれのように腫れてしまっている肌を見るのはこちらも心が痛かったです。
消毒液で染みて痛いかもしれませんが、身体に病気が入らないようにするために付けますねと言って綿に染み込ませた消毒液で傷口をサーッと塗ると、やはり痛いのか肩を震わせていました。
「大丈夫ですよチョムキナさん。これで病気が傷口から入ってくるのを防ぎますよ。よく耐えましたね……そして、痛い思いをさせてしまってごめんなさい……」
チョムキナさんに謝って、私は彼女に包帯を巻いていきます。
殆ど喋ることが出来ない状況からして、やはり彼女を取り巻いていた環境は相当酷かったのかもしれません。
ロシア帝国が分断されるまでは、普通に言葉を話していたそうですが、やはり母親の死や看守からのイジメによって完全に心を閉ざしてしまったのかもしれません。
「チョムキナさん……貴方が進むべき道はまだ閉ざされておりません。私としても、心を塞ぎこんでしまいたくなるほどに辛い事があれば何でも言ってください」
私がそう言うと、チョムキナさんは理解をしたのか、少しばかり俯いてくれました。
チョムキナさんの腕の傷口を消毒している間に、オーギュスト様は屋敷の警備を任せている憲兵隊や、世話人などの人達に、チョムキナさんの健康状態を説明しているところでした。
「……というわけだ。チョムキナは心に深い傷を負っている状態だ。彼女の世話をする際には細心の注意を払ってほしい。特に母親の事や怒鳴り声を挙げたりするのはもってのほかだ。自傷行為を繰り返していることもあって、腕には傷が出来てしまっている程だ……3日に1回は包帯を変えて、毎日医師の問診を受けることになるが……くれぐれも……彼女に失礼のないようにな……」
オーギュスト様は念入りに世話人や警備を任されている憲兵隊の人達への説明を行い、チョムキナさんの事について詳しく語っておられました。
やはり、普通の状態ではないということもあってか、彼らもかなり緊張した様子でオーギュスト様の語っている話をしっかりと聞き入っておりました。
「オーギュスト様、チョムキナさんに包帯を巻いておきましたわ」
「ありがとう……それじゃあ、余はこれからヴェルサイユ宮殿に戻る。あとは任せる」
「「「はっ!」」」
屋敷の方々からの見送りを受けて、屋敷を去りました。
丁度一時間程掛かりましたでしょうか……。
オーギュスト様は馬車の中で何度か屋敷の方に振り向いておられました。
「チョムキナさんですが……やはり気になりますか?」
「そうだな……俺が見た中でも彼女はかなり心に深い傷を負っているように見えたな……あれだけ腕がミミズ腫れになる程に引っ掻きまわしてしまう程に……相当心を病んで不安になってしまっている現れでもあるよ……彼女が普通の日常生活を過ごせるようになるのも、相当時間が掛かるだろう……」
「……オーギュスト様、チョムキナさんですが、今後はフランスでどのように過ごさせるおつもりですか?」
「少なくとも、政治利用はしないよ。まず必要なのは温かい食事と心を療養させることだよ。身体の傷よりもチョムキナの場合は暴言やイジメによって心に深い傷を負っているんだ。目に見えない分、そういった傷のほうが深刻になっている場合も多いんだ……自傷行為がやめられないのも、そうした行為で心が壊れてしまう前に自分自身で回避しようとした結果生み出したんだろうね……」
オーギュスト様は悲しそうな表情を浮かべて語っていました。
身体で受けた暴力は、余程重度のものでなければ時間が経過すれば治るのに対して、心が受けた傷というのは、時間をかけても完治が出来ずにずっと残ってしまうことが多いのだそうです。
チョムキナさんが受けた言葉の暴力は、その中でも酷く……オーギュスト様でも一筋縄ではいかないと公言するほどに、チョムキナさんの心はボロボロなのだそうです。
「もしかしたらだが……チョムキナはこれからずっと屋敷で塞ぎこんだまま一生を終えてしまう可能性もある……それぐらいに、彼女は人間を信頼していないよ……」
「えっ……ですが、オーギュスト様と馬車で会話を交わした際には心を開いているように見えましたが……」
「あれはあくまでも彼女の処世術の一つかもしれない。確かに大使館にいた時よりは良くはなったかもしれないが……チョムキナの目を見たら、鋭い野獣のような眼光だったんだ。狙いすましたような……本当に子供かと思ったほどに鋭い目だったよ……信頼できる人物かと見定めていた。それまでは決して自分の手を見せない。従順な存在であると語っているようなものさ……」
「では……チョムキナさんの人間不信はどうなるのでしょうか?」
「幼年期に受けた心の傷というのは、一生残ってしまうんだよアントワネット……チョムキナは恐らく一生、自分以外の人間を心の底から信頼できないだろう。俺とはあくまでも”この人ならある程度大丈夫だろう”という目安でしかないよ」
オーギュスト様でも、チョムキナさんにとっては大丈夫な人という認識であると告げられた時、私は彼女からどう思われているのか不安になりました。
これからの彼女は、フランス王国がサポートはしていきますが、彼女自身が将来大人になった際に新ロシア帝国への復讐を願うことも考えられます。
オーギュスト様も、そうした事態を危惧しているようで、彼女が道を誤ってしまわないように、見張りを付けるとおっしゃいました。
「いずれにしても、俺や政府がその気でなくても、チョムキナ自身が新ロシア帝国への復讐を考えているという事も考えられる。彼女が暴走しないように信頼できる人物を傍で見張らせておく必要がある……彼女は切り札というよりも、トランプでいうところのジョーカーみたいな存在だ……だから、大人である俺達が彼女が道を踏み外すようなことがないように、支援していかないとね……」
チョムキナさんがどのような道を進むにしても、オーギュスト様の仰っているように我々大人が進むべき道に導く必要があります。
復讐ではなく、自身の未来のために行動できる人物になってもらうためにも……。
私達は、ヴェルサイユ宮殿に戻ってからも、彼女の安否をしっかりとやっておくようにと念には念を入れて通達を出すことにしたのでした。