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ヴェルサイユ宮殿で大きく変わった場所といえば、職員や関係者が入浴可能になったヴェルサイユ公衆浴場だろう。
この公衆浴場のお陰で、ヴェルサイユ宮殿で働いている職員は、何時でも好きな時間に入浴することが可能になったのだ。
古代ローマ風をイメージした新古典主義風味マシマシの浴室や、シャワー、サウナ室まで取り付けることが出来たのは僥倖だった。
これにより、ヴェルサイユ宮殿から世間に向けて入浴をする文化の大切さを発信することが出来たのだから。
「恐らく、俺がこの世界にやってきて一番文化的な介入をした案件だと思っている……というか、ヴェルサイユ宮殿の中に設置されてあるお風呂そのものが全然使われていなかったぐらいだし……王室専用で、それ以外の人達が使えないのはいかがなものか……やはりこれは、前世の日本人の部分が出ちゃっているな……」
そう、とにかくお風呂に入らない習慣が強かったフランスでは、入浴という文化は田舎を除いて都市部では殆ど定着しなかったのだ。
これは水の質が悪く、何度も水を入れ替えずに同じ水を使いまわしたことにより、ペストなどの伝染病を媒介する要因になった事を理由に、そうした入浴をしなくなってしまったのだ。
「ペスト流行時にはお風呂から汚染された水が感染したとも言われているし……それが原因でお風呂を入らないような風習ができちゃったんだろうなぁ……オーストリアは入浴の文化があるから、アントワネットはよくお風呂に入っているし、俺も前世が日本人だから入浴しないと気が済まないというか……やはりこれは風習面での意味合いが強いのかもしれないな……」
勿論、完全にパリで入浴をする文化が無くなったわけではない。
ここに転生した際には、前世の知識が優先されてお風呂全く入らないだろうと思っていたのだが、実はパリには移動式の貸し風呂屋というのが存在するのだ。
この貸し風呂屋というのは、荷車に水を入れた大きな釜を乗せて移動し、そこで釜を焚いてお湯を沸かすというものである。
この貸し風呂屋を利用するのは、香水でも臭いがごまかしきれなくなった場合や、病気になって健康のために洗うケースが多かったらしく、その人がお風呂を使用した後の釜の中は、垢などが大量に浮かんでいたらしい……。
こうしたお風呂を利用するのは比較的財力に余力のある中産階級の人が多かったようだ。
大半は水の張った桶にタオルを突っ込んでゴシゴシ身体を拭く程度だったようだがね……。
ヴェルサイユ宮殿が誇る公衆衛生の見本ともいえるこの公衆浴場には、地下水で冷やした牛乳や炭酸水を入れた瓶を浸けておき、入浴後に5ソルを支払えば冷えた飲み物を何時でも飲めるようにしたのだ。
入浴後に飲み物を一杯飲める体制になった事で、より多くの職員が福利厚生の面でこの浴場を利用できるようになり、今も職員数名が公衆浴場のドアを開けて入っていった。
「ふむ……みんな利用しているみたいだし、とにかく収益よりも福利厚生の面で活用しないといけないからね……万人向けの娯楽と生活施設を充実させるのも国王の務めだね」
そう、先のルイ15世といい、ルイ14世は宮殿の機能拡張や豪勢さを強調する事を優先していたが、トイレなどの人間が生きていく上で必要な施設を全く宮殿内に拡充していなかった。
職員が寝泊まりする宿舎はなく、皆が周辺のホテルで寝泊まりするも、そのホテルは宮殿で働いていることを知っているので、ぼったくり同然の料金を徴収して彼らの手元にお金があまり残らなかったのだ。
そして一番、現代人の感覚で辛かったのは、ヴェルサイユ宮殿にトイレが『王室専用』しかなかった事だ。
(本当に、トイレ禁止縛りをしていた理由がちょっと分からないんだよなぁ……排泄もおまるを使ってやっていたし……この時代、携帯用トイレが既に存在していたのに、排泄物をそこら中に捨てていくという悪習が残っていたのはやばかったな……)
過去にも話したことがあるかもしれないが、ヴェルサイユ宮殿で中庭や茂みのところに行けば行くほど糞便の悪臭が漂うようになってしまったのは、ヴェルサイユ宮殿で働いている数千人もの職員に対してトイレが全く無かったからである。
そりゃおまるで用を足して捨てに行く事になる。
これにより、ヴェルサイユ宮殿の草藪から悪臭が漂う原因にもなっていたのだ。
特に中庭は絶好の排泄物廃棄スポットとなっていたこともあり、最初ヴェルサイユ宮殿にやってきたんだから中庭に行ってみるかと意気揚々と行ったら、草木のところから排泄物の臭いが漂ってきたこともあり、かなりショックだったのと同時に、本当に漫画や小説とかで見たことのある”18世紀のヴェルサイユ”にきてしまったんだなと実感する要因にもなったのである。
「今ではヴェルサイユ宮殿の六か所にトイレを設置……簡易水洗式だから臭いなども比較的抑えられるようにしているから、これは有り難いことだ。王室専用のトイレも簡易水洗式に換装したし、下水道整備がもっと進めばこうした水洗式トイレに置き換わっていくだろうね……」
まず、ヴェルサイユ宮殿の衛生環境を徹底して良くするためにしたことはトイレの設置であった。
流石に簡易水洗式のトイレは技術的にまだ難しかったので、いきなり設置することは出来なかった。
汲み取り式のボットン便所をまず設置して糞便がそこら中にあるひどい状況を打開。
簡易水洗式便所の技術が確立されてから、ようやくボットン便所から順次更新する流れとなり、ヴェルサイユ宮殿だけではなくパリ各地にある宮殿や王立関係の施設にあるトイレは全て簡易水洗式トイレとなったのだ。
簡易水洗式トイレになったことにより、それまでヴェルサイユ宮殿だけではなく、各宮殿で圧倒的に足りなかったトイレはカバーすることになったと同時に、どうしても新規の設置が難しい場所に関しては、携帯式の簡易トイレを作ることで事なきを得たのである。
本当に、これに関しては真っ先に改善したいと思っていたので、改善が出来て良かった……。
「これで衛生面でもだいぶヴェルサイユ宮殿の質は向上できたからな……」
この時代で出来る範囲での事はやり遂げたのではないだろうか?
人々の暮らしも改善し、それまで虐げられてきた平民層の地位向上と所得増額計画、それに合わせて住居や道路の拡張工事等……。
今後のフランス政治や都市建設の模範となれるように、大きく手を加えることが出来たのは確実である。
これから先のフランスの未来はどうなるのだろうか?
少なくとも、俺が知っている歴史の教科書の知識から予測は困難になりつつある。
大きく変わってしまった歴史……この歴史をこの世界における後世の歴史家が評価するとすれば、一体どんなことを書くのだろうか?
中興の祖として讃えられるならうれしいが、これから先は一歩一歩……着実に歴史の上を歩いていくしかない。
「……さて、愛する妻と子供達の下に行くか……」
宮殿を一通り見回った後、俺はアントワネットがいる部屋に向かうのであった。




