486:公武合体政策
★ ★ ★
1784年7月6日
日本国 京都御所 紫宸殿
京都御所では、江戸幕府の代表である徳川家治や、彼を補佐し日本経済を引っ張ってきた田沼意次らが出席して、京都御所において朝廷と幕府の幕藩体制の再編成が行われようとしていたのだ。
もはや、そうしなければならないほどに江戸幕府は甚大な被害を被っていたのである。
朝廷から賜った権限の一部を返上し、朝廷も幕府側の再建に力を貸すという形で、公武合体が実現したのだ。
「このような形で公家と武家が合体するとは思いませんでした……」
「まったくだ……元々朝廷と幕府は役割も異なっているからな……とはいえ、今は国内の幕府の威信も回復せねば復興すらままならない状況だ……私も議長として立たねばなるまい。それを忘れてはならないぞ」
「はッ!」
家治は、京都御所で公武合体の為の合議制議長として就任する見通しなのだ。
数年前には考えられない政治体制が日本では構築されてしまう程に、今回の浅間山大噴火がもたらした被害は甚大であり、経済的・文化的な復興には数十年以上を有するのは確実である。
朝廷側も幕府側への牽制ではないが、政治学に詳しい者達が天皇への補佐と同時に将軍家に出向いて、政治的な調整を行う事で、未だに東海地域を中心に権力を維持している徳川家とのバランスをとろうとしているのだ。
朝廷側と幕府側からそれぞれ要職者が産出され、新しく出来上がる公武合体後の新政府として就任するのだ。
『公武合体政策』として、糸魚川静岡構造線より西側の地域に主軸をおくことを取り決めた【日本再編成計画】並びに、浅間山大噴火で甚大な被害を被り、未だに被害の全容が分からない陸奥国、出羽国といった東北地域の偵察と、復興支援を盛り込んだ【遠国救援組織の発足】などが既に朝廷・幕府側双方の申し出によって盛り込まれている。
「それにしても、ここまで朝廷側が我々の要請に応じてくれるとはな……」
「やはり、高山殿の尽力によって成し遂げることが出来たのが大きいでしょう。彼の持っている朝廷側との人脈は侮れません」
「うむ……江戸でも彼は奇人扱いだったが、今回でその調整手腕は卓越したものであるからな……我々幕府としても彼の功を労わねばな……」
これほどまでにスムーズに朝廷と幕府が上手く行動に移せたのも、尊王活動家として奇人扱いされていた高山彦九朗の調整の賜物であったのだ。
彼を幕府側がそれなりに交流を持っていたからこそ、今回の公武合体政策が実現したようなものであり、彼がいなければ日本は残された西日本地域を巡って内戦に突入する可能性すらあったからだ。
これは、失った東日本地域の領地内から命からがら脱出した流民などからもたらされた情報により、江戸幕府の統治が及ばなくなった地域が次々と反乱が起こり、その多くが重税に苦しめられていた農民たちによるものであった。
仏の救いを求めて一向一揆のような寺院や、比較的資金的にも恵まれていた資産家などが地域を牛耳るようになり、戦国時代さながらの状態となっている。
この状況を把握した幕府側であったが、現在江戸だけで百万人以上の強制移動による住居・移住問題などが山積している状態であり、且つ、無事であった西日本地域を主軸とした農地改革と食料増産計画、またフランス領青龍からの食料援助などを必要としていることから、現在の日本国では東日本への救援よりも、西日本地域の整備と開発を急遽進めて流民となった人々の収容を急いでいるのだ。
そうした中で、高山彦九朗は尊王強靭論を元にした朝廷への権限の増強と、国内外から万全の体制にするために備えをしておくという防衛力強化を訴えていたこともあり、朝廷側、幕府側双方から信頼されていた貴重な人材だったのだ。
田沼派で科学者・研究者として重宝されていた平賀源内と結びつきが強かった蘭学者前野良沢との関係も親しかったことから、幕府側が朝廷側へのアプローチを試みる際に彦九朗を通じて情報を介することもあったほどだ。
「現在の国難ともいえる状況では、江戸幕府単体では乗り切ることはできない。ここは朝廷との合体を図り、統一した政治体制下で乗り切るしかありません。江戸という政治的・経済的な拠点を失った現在、我々幕府としては朝廷側との対立よりも、少しでも復興が迅速に行えるようにしていかなくてはなりません」
田沼意次もこう徳川家治に進言を行い、高山彦九朗から得られた朝廷側の情報を精査し、幕府としても朝廷としても大噴火による混乱と戦乱が西日本全域に広がることを危惧した結果、双方は急接近を行い、政治的な合流を実現するきっかけになったのだ。
こうした信頼関係の構築が功を奏して、公武合体が実現したのである。
勿論のことながら、この公武合体が実現するまでに、日本は史実では考えられないような被害を出していた。
まず浅間山大噴火によって直接的な被害を受けた長野県東部地域や群馬県西部地域は甚大且つ復興不可能なレベルの被害を生じ、これらの地域は「再建不可能地域」として、放棄されることとなったのである。
これにより、宿場町として栄えていた軽井沢は火砕流によって根こそぎ破壊されたことにより、以後復興されることはなかった。
すでに江戸という徳川幕府にとってかなり大金と人員をかけて動員した百万都市が、浅間山の大噴火によって機能不全となったことで立ち上がることができなくなってしまったのだ。
江戸・京都・大坂の三都市が日本における中心的な役割を担っていただけに、このうち関東一の大都市である江戸の都市機能喪失は非常に大きな痛手であった。
特に江戸幕府の象徴ともいえる都市が機能喪失したことにより、経済的な結びつきが強かった関東圏の経済状況も破綻し、これらの地域では人が著しく流出している。
これによる直接的な被害と、経済的な損失は日本国の国内総生産の実に10年分以上に及び、東日本の殆どの地域で甚大な被害をもたらした大災害として「浅間山破滅噴火」とまで呼ばれる程に記録されるほどであった。
江戸城は勿論のことながら、浅草橋は崩壊して避難民も巻き添えを食らっており、江戸という街は僅か半年で滅亡後のような荒廃した都市になっていた。
江戸はこの時代では最も人口の多い都市として数えられていたが、今では流民や盗賊団などが入り乱れて、幕府の統治が及んでいない地域となってしまっている。
もはや東北地域は江戸幕府をもってしても全容が解明出来ない程に、混迷とした戦場と破壊とカオスが入り乱れた場所となってしまっているのだ。
浅間山大噴火から半年以上が経過した日本。
現在、日本の総人口の二割以上に当たる600万人近くが流民となって西日本や東海道方面になだれ込んでいたのである。
多くの人々は尾張や大坂といった地域への避難を開始しており、既に大勢の人々が火山灰などの被害から退避してきたのである。
日本は再建しなければならないが、その道はあまりにも厳しく、公武合体が実現した現在でも、その難易度は高いままである。