466:亡国(下)
……。
同日 江戸城
辛うじて城としての機能が保たれている江戸城では、幕府の閣僚が最後の荷造りの点検を行っている最中であった。
皆、口元に手ぬぐいを巻いて火山灰が肺に入らないように対策をしている。
これを怠っていた者は、大量の火山灰を吸って喘息などを発症したり、肺気腫や急性肺炎を引き起こして命を落としていった。
ここで最後まで城に踏みとどまっていた家治は、側近の田沼意次らを呼んで最後の確認を行っていたのだ。
「……では、私や政治関係は京都に……商業に関するものは大坂、子供は尾張に預ける……という事で間違いないな?」
「はっ、既に先方には話は付けてあります」
「そうか……こことはもうお別れなのだな……」
「ええ、ですが、いずれ江戸に戻ってこれる日がくるでしょう。多くの町民は無事に脱出できました。後は我々のみです」
「うむ……では、最後に城内を見渡してから出発だ……」
家治は城内を隈なく見渡してから江戸を離れることにしたのだ。
かつて、様々な想いを馳せながら江戸城の中で暮らしていた。
政治の事や、娯楽、勉学など様々な情報を知り、最近ではフランスとの本格的な貿易開始を行おうとした矢先の浅間大噴火であった。
想定されていたよりも多くの火山灰が江戸にも降り注ぎ、噴火が始まって一週間足らずで江戸の街には江戸よりも酷い火山灰の被害を受けていた上野国・信濃国周辺からの流民が大勢押し寄せており、その中には武士の姿も少なくなかった。
皆、身体が火山灰によって煤だらけであり、関所を守っていた者達は只事ではないと悟り、すぐに奉行所にも報告を行った。
大勢の流民が押し寄せた関所にて、奉行所から派遣された役人が彼らに取り調べを行ったところ火山灰が大量に降り積もり、上野国の北毛地域と信濃国の北佐久郡のほぼ全域が壊滅したという知らせが江戸城にも入ってきたのである。
『上野国に属する各藩は極めて甚大な被害を被り、たった一刻の間に田畑は全くもって使い物にならない状態となる。川も火山灰が降り積もった影響で農用・飲用共に使用できず』
『小諸は噴火の轟音と共に、物凄い早い勢いで白い煙の塊が浅間山を下っていき、畑も人も次々と飲み込んでいった。小高い丘に避難した者だけが辛うじて助かった』
『牛や馬も火山灰を被った草を食べたがらず、灰を払ってようやく干し草を食べるも嘔吐と痙攣を起こして次々と死ぬ。灰を吸った者達は苦しみだして死に絶えた村があり、唯一の生存者は醤油醸造の土蔵に籠り、布を覆って過ごしていた七歳の子供だけであった』
『人々、皆息が出来ぬと苦しみだし、灰を外で吸った者は尽く労咳の如く血の混じった痰と咳が止まらなくなり、数日のうちに死んだ。噴火が発生した時に、卵を腐らせたような強烈な臭いが立ち込めていたほどだ』
北毛地域や北佐久郡を壊滅させたのは、大量の火山灰に含まれていた二酸化硫黄が噴出し、それが草木や動物、さらに人体に多大な影響を及ぼしたのだ。
浅間山から半径10キロ圏内にあった地域を『火砕流によって埋没』した状態となり、小諸や軽井沢を呑み込んでしまう。
既に一定数の者達を避難をしていたが、予想以上の噴火だったことにより火砕流が四方向に拡散したことにより、史実よりも大きな被害をもたらした。
特に、火砕流が四方に流れ出たことにより千曲川に一気に押し寄せた。
長野県……信濃国側の被害は史実以上に直接的な火砕流による被害が発生した。
千曲川になだれ込んだ火砕流はその衝撃と共に大洪水が発生し、洪水によって川沿いの家屋などが流されたり、稲作を作っていた川沿いの田んぼの手入れをしていた多くの農民が巻き込まれた。
さらに火砕流によってせき止められた千曲川は氾濫を起こし、それによって火砕流から逃れた地域でも行き場を失った大量の水があふれだし、大洪水となって押し寄せてきたのだ。
火砕流だけで信濃国側だけで直接的な被害で亡くなった者は五千人以上、洪水による二次災害を含めると1万二千人を超える。
さらに上野国方面には有毒な火山灰に二酸化硫黄が流れ出たことにより三万人以上が噴火直後に亡くなったのだ。
備蓄米の緊急輸送なども行われたが、火山灰が想定以上に積もったことにより、牛車を使った運搬は車輪が滑ったり、そのまま火山灰に車輪が埋もれてしまう事態が多発し、災害の激震地に十分な物資の運搬が困難になってしまった。
江戸でも多くの火山灰が降り積もり、次第に都市機能が麻痺を起こし始めた。
雪のように降り積もっていた火山灰が井戸水を汚染し、排水溝などに火山灰が詰まってしまう被害も拡大していった。
屋根に積もった火山灰に、8月中旬に太平洋を横切った台風によってもたらされた雨が染み込んで、その重りに耐えきれず倒壊する家々が続出した。
物流の大混乱による物資不足をはじめ、米の先物相場が火山噴火と同時に値段が高くなり、江戸から食糧が無くなってしまったのだ。
浅間山大噴火から九日間、田沼意次は有識者を集めて何度も検討したが、火山灰による江戸の都市機能の回復が数年以上見込めないとして、家治に経済機能を大坂に、政治機能を朝廷のある京都への移転を進言したのだ。
「家治様、江戸はあと三週間もすれば備蓄米も尽きて途方に暮れる事になるでしょう。今のうちに江戸の住民を西日本に退避させるべきです。陸奥や出羽に関しても糧がある限り西日本に向けて退避するようにしなければなりません」
「しかし……復興は出来ぬのか?」
「残念ながらこれ以上火山灰が降り積もれば江戸は一か月も持ちません。降り続く灰を吸い込めば労咳になり、江戸中で病人が溢れるでしょう。江戸百万人の民は家治様のご決断にかかっておられます」
「……では、朝廷に手紙を出してきてほしい。そして一週間後に出発できるように準備を整えよ」
これに反田沼派を中心とするグループが猛反発を行うも、家治が唯一愛した今は亡き倫子女王が皇族であった関係で、将軍家と皇室との関係は良好であったのだ。
家治は閑院宮典仁親王こと慶光天皇への親書を送り、徳川家の政治体制と合わせてより朝廷と近づくように幾つかの政治的な譲歩も行ったのだ。
いくら将軍家の権力があるとはいえ、皇室との仲が良好であった家治だからこそ、政治的な面で朝廷を頼ることができたのだ。
将軍家だけの問題ではなく、東日本地域に甚大な災害をもたらしたことで、彼らも幕府と朝廷の問題ではなくなってしまったのだ。
さらに、高山彦九郎による「尊王強靭論」に同調する開国派の勢いもあり、家治は京都や尾張、大坂などの火山の直接的な被害が無い西日本地域に江戸からの避難民を受け入れを指示した。
これに各地の大名たちも戸惑いを見せたが、浅間山噴火に対する対策の中に、避難民の受け入れに関する計画書も事前に策定していたことから、経済力の強い藩を中心に、大勢の避難民受け入れを江戸では各地区ごとに避難民の受け入れ先を決め、江戸の港に停泊していた漁船なども総動員し、延べ江戸を含めた関東圏に住んでいる三百万人にも及ぶ人々は避難民として移動を開始。
浅間山が大噴火を起こして5日以内に、江戸から大勢の避難民が西日本を目指して歩き出した。
普段は関所での通行許可証がなければ通れない場所も、関所が解放されて通行できるようになった。
人々は持てるだけの荷物を持って西への移動を開始していた。
「さらばだ……また、収まったら必ず戻る……」
そして最後に、家治は朽ちていく江戸を離れて、京都に向かうのであった。




