465:亡国(上)
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1783年10月30日
日本国
今、東洋最大の街と呼ばれた江戸は不気味な程に静まり返っている。
街の大部分は火山灰が降り積もったことにより、何度も灰を除去しても積もり、積もってしまった為、20センチ近くの高さにまで達しようとしている。
密集していた伝統的な長屋や、二階建ての日本屋敷がいくつも倒壊しており、江戸の天守閣も既に屋根の一部が崩落している。
街に人の姿はおらず、野良犬が道端で倒れている病死した人間や馬の死肉を食い漁り、治安を守るべき町奉行なども機能不全と化し、武家屋敷だった場所には金目当てに盗賊団や命がけで東北地方から逃れてきた流民の集団が居座るようになってしまった。
しかも、夏場に発生した台風が浅間山大噴火と連動して関東地域に直撃したことにより、火山灰が雨と混じったことにより固まり、アスファルトのような役割を果たしていた。
硬く重たい火山灰が累積したことにより、家屋が重みに支えきれずに倒壊しているのだ。
屋根の火山灰を払っても払っても浅間山から噴火した火山灰はひしひしと積もっていき、ようやく火山灰が止み終わった後も、江戸の街に人が戻ることはなかった。
また、浅間山より東側の地域では甚大な被害が発生していた。
陸奥国、出羽国といった日本の東北地方には複数の藩が存在したが、これらの藩では浅間山大噴火による火山灰が降り積もったことで農作物が壊滅的な打撃を受け、コメの収穫量が前年に比べてたったの1割にも満たなかった地域が殆どであった。
これにより、備蓄分の食糧も底を尽いてしまい、辛うじて城内にいる人間だけに配布される量だけが残されたのだが、その食料を巡って領民が城に押し寄せる事態となっていたのだ。
「もうだめさ!ここにいたら飢え死にすっど!」
「米!米をくれ!」
「作物が育たん!これでは飢えで死んでしまう!」
「お殿様!何卒!粥だけでもいいんです!いえ、水だけでも何卒!」
各地の城には城主への嘆願が詰めかけており、やせ細ってそのまま城門の前で餓死する者が続出。
さらに、山で採れた野草やキノコを鍋で煮詰めて集落全員で食べるも、食中毒を引き起こす草やキノコが混ざっていたことにより、集団食中毒を引き起こして死亡する事例が多発。
死肉を食い漁り、どうにか生き延びていた者も、もはや我慢の限界に達していた。
「なんたることだ……なんたることだ……こんなはずではなかった……」
白河藩の藩主として養父からその地位を譲り受けた松平定信は、自分自身にも降りかかった災害に頭を悩ませていた。
史実の松平定信は浅間山大噴火の際には会津藩や越後などから米を融通させてもらい、天明の飢饉を乗り切ったのだが、ここではそううまくいかなかったのだ。
まず、史実以上の火山噴火によって会津藩でも米の備蓄輸送が出来ず、越後でも被害が少ない大坂方面で米の価格が高騰したことにより、そちらに米が多く行き渡ってしまったのだ。
さらに江戸では米をかき集めようとするも、火山灰の影響によって江戸の都市機能が麻痺した上に、政治面では火山噴火を予見し、警告していた田沼意次の支持が上昇し、中立的であった幕府の役職者も次々と田沼派に鞍替えして傘下に入ったのだ。
「おのれ……おのれ田沼共め……反田沼派諸共飢死させる気か……」
東北地方も退避の呼びかけはあったものの、多くの領民は藩主の判断によって出国を許可できず、農作物の生産を続けるように命じられていたのだ。
しかも、多くの藩が一時的な被害で治まると楽観主義的な考えてだったこともあり、江戸城で行われた火山対策の際にも「そんな破滅的な噴火は起こらんだろう」という考え方が主流であった。
特に田沼派を毛嫌いしていた藩ではそれが顕著であり、火山対策を行わずに備蓄米などを輸出して外貨獲得のために他の藩に売りに出している程であった。
幕府も備蓄米などを保管していたが、東北向けに輸送していた船の大半が台風の直撃によって沈没し、十分な数の米が送れず、さらに運が悪いことに幕府の役人の間で高止まりしている米を売って私腹を肥やす汚職役人による横流しなどが横行していたこともあり、当初半年は持つと言われていた備蓄米の城米が横流しによって大幅に減らされていたのだ。
米が無い。
食べる物は食いつくした。
もう、食べ物がどこにもない。
問屋や米屋から奪った米も底を尽きた。
食べ物が残っている場所は城だけだ。
それを知った人々は一斉に城に目掛けて走り出した。
城を取り囲むように大勢の人々が白河城に押し寄せる。
布はボロボロに裂けており、火山灰を被った影響で煤だらけの身体でやってきたのだ。
「お殿様!もうだめだ!飢死してしまう!」
「米を!米をください!」
「ええい!下がれ!無礼であろう!上様はお忙しい!後にせぇ!」
城門を守っていた足軽が押し寄せた人々を槍で追い払おうとした。
槍で威嚇するつもりで振り上げた際に、槍の先端がやせ細って辛うじて立っていた一人の老人の顔に当たり、老人はその場に倒れた。
老人はその場から動かなくなった。
しかし、その瞬間に人々は一斉に足軽に襲い掛かった。
攻撃をしてきたと感じ取ったのだろう。
慌てて足軽は槍で応戦するも多勢に無勢。
あっという間に人々が押しかけてきて潰されてしまう。
「やめろおおおおお!やめろおおおおお!うああああああああ」
「くそおおおおおおおお!来るなあああああああああ!」
城門の前にいたもう一人の門番にも人々は襲い掛かった。
死ぬぐらいなら一矢報いてやる。
米を溜め込んでいる場所に口を突っ込んで食ってから死んでやる。
飢餓地獄の様相を呈していた者達が見せた力によって門番は息絶えた。
「あああああああああ!寄越せ!メシを寄越せ!」
「米!俺たちが採った米じゃ!隠している米を返せ!」
「門を破れ!城の中にあるはずだ!」
怒号と共に、城門がドンドンと丸太で叩かれている。
ある者は城内に向けて投石を行い、またある者は梯子を持ってきて城壁を登ろうとする。
怒号が飛び交う中、城内にいた侍達は刀を抜刀し、火縄銃を手にして暴徒と化した民衆を攻撃し始めた。
しかし、もう止めようがない。
飢死か、それとも死罪か。
飢えで死ぬぐらいならお腹いっぱい食べてから死んでやる。
その気持ちが怒りとなって、彼らの原動力となっていた。
前の者が撃たれたら、次の者が襲い掛かれ。
気がつけば、人々は個から群れとなり、一気に白河城になだれ込んだのだ。
「無礼者!ここがどこか分かっているのか!」
「早く!刀と槍で応戦しろ!」
「であえーっ!であえーっ!」
白河城の武士は決死の応戦を試みる。
しかし、城にいた武士よりも、城外を取り囲んでいた民衆の数のほうが圧倒的に多く、瞬く間に城の大部分が制圧され、天守閣に迫りつつあった。
「定信様!定信様!駄目です!ここはもう持ちこたえられません!」
「上様!どうが上様だけでもお逃げくださいませ!ここは我々が死守します!」
定信は自分の運命を呪った。
こんなはずではなかった。
田沼派の流言飛語だと思い込んでいたが、それ以上の被害が出たのだ。
意識を辛うじて保っていた定信だが、ここは天守閣。
逃げようにも逃げる場所はない。
定信を守ろうとして決死に応戦していた侍達だったが、押しかけてきた民衆に鎌で斬殺された。
血が周囲に飛び散り、畳の上は血の海と化した。
やがて押しかけてきた民衆と定信の目が合った。
彼らの目は、憎悪と飢餓による苦しみによって輝きが無かった。
(もはや……これまで……家治様……御養父……御父上……申し訳ございません。定信は将軍家に仕える者として最後の責務を果たします。この親不孝者をお許しください……)
これでは、どの道責任を取らせて切腹は免れない。
自分自身の未熟さと、反田沼派としてこじらせてしまった事を後悔しながら、定信は責任を取るべく油を蒔いて傍で燈していた蝋燭の火を投げ込んだ。
瞬く間に蝋燭の火が油に引火し、白河城は炎に包まれたのであった。




