449:愛娘
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「……という事から、この問題に関してはこちらの方程式を覚えれば解けるようになりますわ」
「ありがとうブリジット……この問題を学校で先生にも聞いてきたけど、どうしても分からなかったから助かるわ」
「いえ、この問題は私でも難しいですからね……数学に関しては大学入試になると、流石に私でも分かりませんわ。コンドルセ侯爵でしたら漸化式の問題でも簡単に解いてくれるはずですわ」
ヴェルサイユ宮殿の別室に設けられた勉強部屋には、テレーズがブリジットから教育を受けていた。
元々ルイ16世の幼年期からの教育係を任されていたブリジットは、ルイ16世が成人になったら引退も考えていたのだが、その人徳などをルイ16世から評価された事もあり引き留められたのだ。
結果、しばらくの間娘のテレーズの教育係として、学校で分からない問題を復習する際に教えを行っているのだ。
王族や貴族の子供たちが学ぶ国立学校がヴェルサイユ宮殿から歩いて10分の場所に開設されて、テレーズは平日は毎日学校に通っているのだ。
勉強に関しては、アントワネットが立案した全国一律かつ、統一した教育内容を教育免許を取得した教師によって教えるカリキュラムが制定されたこともあり、勉強のできる地域とできない地域の差を埋めることを目指している。
「こうして学校でも家でも勉強が出来るのはごくわずかなのよね……」
「……そうですね、王族や貴族……それに、富裕層は家庭教師などを雇っておりますが、一般の家庭では宿題を持ち込まずにしておりますからね……特に女の子であれば、他の習い事などをさせているところもあります」
「……やっぱり、まだまだ勉強を広げるためには余力が必要なのかしらね……」
この時代には15歳未満の子供であっても児童労働というのは当たり前だったこともあり、特に農民や所得の低い子供は親の手伝いをしながら勉強を行う事への負担が大きかった。
パリでも経済改革が行われてもなお、15歳未満の児童労働が無くなることはなく、生活に余力のない家の子の場合は、子供の頃から働くのが当たり前という習慣が身についていたために、児童労働について肯定的であり、むしろ子供が勉強を行うことに対して親が否定的な見解をすることが多かった。
また、18歳以上の大人でも文字の読み書きができるのは男性が全体の50パーセント、女性に至っては30パーセント以下であり、この読み書きに関しても『自分の名前』を書いて理解できるか否かというものであり、実際に文章を読んで、文字を書いて理解できる人間というのは男女合わせても比較的裕福な所得層で、教育を受けることができた限られた者だけであった。
ごくまれに必死に努力して、勉学などが優れていることが分かった者に関しては、教師が大学などに推薦状を送り特待生として学費を免除してもらうことも可能だったそうだが、その例はほんのごくわずかであったことから、大半の者は自分の名前さえ覚えれば問題ない……というのが当時フランスだけではなく欧州全体の社会常識でもあった。
特に女性に関しては、文字の読み書きが理解できる人の割合が男性よりもずっと低かったのだ。
これは、小さい頃から家の手伝いをずっと行っている以上、勉強を学ぶ機会が少なく、自分の名前だけでなく、文法などを理解して文字の読み書きができる人は100人中……2人から3人いれば良い方であった。
そのぐらいに女性の教育が男性に比べて進んでいなかった。
なので、この状況を是正するためにルイ16世は教育改革を行ったのだ。
平日の昼間に子供を通わす現代日本のような一般的な教育を受ける子供は全体の4割程度であり、残りの子供達は夜6時から9時の間に授業を行う夜間学校や、週に1~2回ほど学校に通って勉強を行い、宿題などを本業の開いた時間に行う通信学校に通っており、こうした学校には子供だけでなく、子供の頃に勉強を行うことが出来なかった大人達も新しい仕事や、資格を取得するために仕事終わりに学びにくる事が多かったのだ。
「最近では女性のための学校も開かれておりますし、育児や家事をしながらでも学べるようにしているそうですよ。王妃様が主催をしている【フランス婦人教育会】では、女性の識字率向上の為に教科書の費用なども格安にしたり、コンサートホールなどを使って、卒業生の朗読コンテストなどを実施しているみたいですよ」
「……教科書を割引するのは分かるけど……卒業生の朗読コンテストってどんなことをするのかしら?」
「書かれている言葉を朗読するコンテストですわ。女学校を卒業する生徒の中から、朗読に優れている方を誘ってパリのコンサートホールで詩を朗読するのです。詩は直前10分前に渡された内容のものを出され、それをしっかり詠むことが求められますの。教養だけでなく、その人の声のメリハリなども評価されるのです。学術的にも芸術的にも優れている人を発掘できることが期待されている新しい取り組みなのです」
ブリジットは嬉しそうにテレーズに語っていた。
この取り組みは去年から開始されたもので、女学校の卒業生のうち、全国から30人の女性が推薦されて朗読コンテストを取り行い、優勝したのはフランス中央部ヌベール郊外に住んでいる36歳の農村出身の女性レジーヌ・アルトーという女性であった。
朗読コンテストで優勝した声量もさることながら、その経歴を見た審査員も思わず心を打たれたのだ。
「優勝したレジーヌ・アルトーさんは元々農奴の方でした。夫とは30歳の時に死別したことで子供を女手一つで育てたのです。その話が苦労を重ねていらっしゃったので、審査員を務めた婦人会の方が思わず声を詰まらせるほどでした」
「……それだけ苦労した人だから、誰だってそういう苦労話を聞くと涙もろくなってしまうわね」
「そうですね……私も最初聞いた時は思わず悲しい気持ちになってしまいました。だからこそ、その分コンテストの評価に繋がったのでしょうね……」
勉強の話からコンテストについて熱く語るブリジットとテレーズ。
ふと、テレーズは父の様子が気になった。
最近は北米連合との戦争のせいで休日に顔を合わせて話をする程度。
父の様子が気になったので、ブリジットに様子を尋ねたのだ。
「ブリジット……お父様の様子は如何かしら?」
「はい、陛下はここ最近王妃様と一緒に公務をなさっておられます……やはり気になりますか?」
「ええ、勿論気になるわ……最近お父様は悲しそうにしていたから……私はあの悲しそうな顔を見るのは辛いのよ……」
テレーズとしても、最愛の父親を再びあの忌々しい革命の炎によって殺されるのは勘弁してほしいと思っている。
今のテレーズは、父親と母親が……家族団欒の生活を維持できるように革命とは無縁の世界になってほしいと願っているのだ。
(もう、あのような悲劇で家族が引き裂かれるのはまっぴらごめんよ……せっかく掴んだ幸せなのよ……これが、幸せなんだから……)
前世を知っているからこそ、早く戦争が終わってほしいと思いながら、気を取り直してブリジットの指導を受けて勉強に励むテレーズ。
ブリジットもテレーズに丁寧に勉強を教えている。
これから向かっていくフランスの未来の行く末に希望を馳せながら、今日も彼女たちは勉学を学ぶのであった。




