444:女大公の眠り
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1782年12月2日
オーストリア公国 首都ウィーン ホーフブルク宮殿
ウィーンの空に雪が舞い始める。
いつになく寒く、凍えそうな温度。
本格的な冬が到来しようとしている中、このホーフブルク宮殿の一室にて、一つの歴史が幕を閉じようとしていた。
黒色の喪服と亡き夫のガウンを身にまとい、一人用の椅子に腰掛けて天井を虚ろな表情で見上げる一人の女性。
髪の毛は白く、ここ数日に体力を消耗してしまった為か、彼女の健康を診ている医師たちも首を横に振って、傍に佇んでいる者達に、もう命が尽きようとしていることを告げた。
「大変申し訳ございませんが、テレジア女大公陛下はもって3日でしょう……辛うじて受け答えには反応しておりますが、目の焦点が定まっておりません。意識も朦朧としております故……」
「そうか……これまで母を診てくれてご苦労であった……母は命が尽きるまで、王族としての尊厳を守ろうとしている。余は母の尊厳を守り、王として死ぬその時まで母を見守りたい」
ヨーゼフ2世は医師からの診断結果を聞いたうえで、母のテレジア女大公が亡くなるその時まで、母の傍にいることを誓った。
いつも威厳ある堂々とした表情で会議などに臨んでいた母の姿ではなく、ゆっくりと生命活動が徐々に止まり始めてきている母の姿を、ヨーゼフ2世は歯がゆい気持ちで見ていたのだ。
(流感を患ってしまったと聞いたが……どうやら脳にまで流感の毒が入ってしまったようだな……もう、あの威厳のある姿の母ではなくなってしまった……)
すでにテレジア女大公の死は大きく近づいている。
流感の毒は熱だけではなく、彼女の肺や脳を蝕み、今では様々な臓器が不全状態に陥っており、こうして息をしているだけでも奇跡的な状態なのだ。
それでも、気力を振り絞って今は亡き夫のフランツが身につけていたガウンを身にまとって椅子に座っているのだ。
当時としては異例の恋愛結婚で結ばれた間柄だけあって、夫に対する想いは今も変わらないのだ。
自らの命が尽きるその時まで、彼女は夫の形見で傍にいたいと感じたのだろう。
「お母さま……お母さま……」
「大丈夫ですよ。私たちがついておりますわ」
「ゆっくり息を吸って……お母さま……」
テレジア女大公の周りを囲むように、アンナ、クリスティーナ、エリーザベトの三人の娘たちがテレジア女大公の傍に立って肩を揉んだり、手を握って母のことを想って声掛けなどをしている。
特に、母から特段の愛情を注がれて恋愛結婚を許されたクリスティーナに関しては、涙が止まらずボロボロと零れ落ちている。
もう、母の命は長くはない。
であれば、親が亡くなる最後の時まで傍にいたいと思うのは万国共通の想いなのだ。
ヨーゼフ2世と末っ子のフランツはその様子を見て、せめて母が安らかに眠れるようにと、暖炉に薪をくべてから、フランツは母が遺言を遺す際に聞き洩らしがないようにと、筆を取っていつでも用紙に書き記す準備を整える。
テレジア女大公は「うーっ」「おおーっ」と数度唸り声を発してから、ほんの少しだけ目を娘たちに向けたのだ。
娘たちが周りを囲み、息子たちも近くで見守っている。
その様子を見たテレジア女大公は少しだけ微笑んだ後、言葉を発した。
「……あの子は……あの子は元気かしら?……アントーニアは?」
テレジア女大公の意識が戻ったのだ。
発した言葉はアントワネットのオーストリアでの呼び名だ。
最後に産んだ娘であり、可愛がっていた娘の名前を聞いたクリスティーナがすぐに返事を返した。
「元気ですよお母様。アントーニアは……旦那様と一緒で幸せですと言っておりますわ」
「そう……アントーニア、本当におっちょこちょいでお転婆なんだから……」
「ええ、お転婆ですわね……」
「……あの子が、あの子が夫を支えることが何よりも大切よ。フランスは西欧の中でも大国に返り咲いたわ……だから、あの子とフランスを支えてあげなさい。それがオーストリアが繁栄するために必要な事だわ」
テレジア女大公は病魔に侵されながらも、今後のオーストリアが取るべき道を娘たちに伝える。
意識が辛うじて戻っていることを見ていたヨーゼフ2世も近づいてテレジア女大公に尋ねる。
「母さん、大丈夫ですか?」
「ヨーゼフ……ええ、大丈夫よ。少し楽になりたいわね……水を貰えるかしら?」
「ええ、ちょっとまってくださいね……」
ヨーゼフはテーブルの上に置かれている水の容器を取り出してコップに水を注ぐ。
きっと神がいるとしたら、最後のひと時を過ごすために母の意識をこちらに戻してくれたのかもしれないと思いながら、コップをテレジア女大公に手渡すと、ゆっくりと水を飲み干した。
「もう体中が痛いわね……ヨーゼフ、貴方がちゃんとオーストリアを導いてあげなさい。アントーニアとフランスの事は常に気に掛けなさい」
「ええ、勿論ですよ母さん」
「それから……私としても、ここにいる皆に伝えるわ……ちゃんと、ハプスブルク家の血を残しなさい……ハプスブルク家は……これからも栄えるわ……」
それから、テレジア女大公の呼吸が少しずつ乱れ始める。
息をしようにも肺の機能が低下していたこともあり、大きく息を吸い始める。
スゥー……スゥー……と息苦しさを感じる呼吸をした後、ぐるりと辺りを見渡した後で呟いた。
「私はとっても幸せな人生だったわ……夫にも、子供にも恵まれた……王族としても、人としても良い人生を歩めたわ……私は……わ……」
その呟きの後、大きく息を吐いた。
はぁぁぁぁぁ……とため息に近いような声と同時に、テレジア女大公の意識は段々と黒色のような水に飲まれていく。
心臓の機能が停止したのだ。
「おっ、お母様!」
「お母様!お母様!」
「母さん!」
テレジア女大公の傍に集まっていた子供達はテレジア女大公の死を悟ったのだ。
誰もが涙を流して母親との最後の別れを惜しんだのだ。
テレジア女大公の意識は段々と崩れていく。
それは、砂で出来た城が打ち付けられる波によって崩れていくように、彼女に残っていた脳の意識が消失していったのだ。
娘や息子たちの声が残響として頭の中で響き渡っていく中で、彼女の脳は最後に幻影を見せたのだ。
黒い影が視界に入り込んだ直後に、ウィーン宮廷の庭先で服装を整えて待っていた若い男性が佇んでいる。
彼はテレジア女大公を手招きしており、次第に重くなっていた身体が若返っていく感覚に研ぎ澄まされていく。
忘れることはない、一生彼についていくと決めていた大好きな夫、フランツ・シュテファンだったのだ。
「フランツ……」
テレジア女大公は、彼の死後17年間ずっと喪服のまま過ごしていた。
その身につけていた喪服も華々しいドレスへと変貌し、フランツの元へと駆けていく。
フランツに抱きしめられると同時に、彼女が見た幻影と合わせて庭先の花々が彼女を包み込む。
脳が最後に彼女に幻影を見せた後、意識は完全に暗闇の中に沈んでいったのだ。
マリア・テレジア女大公
ハプスブルク家を確固たる地位に固めた上で、政治家としても大国を渡り合う手腕を見せた「女帝」であり、名君でもあった。
史実よりも2年程長生きした彼女だったが、その最期も史実と同じように子供達に見守られながら65年の人生に幕を下ろした。




