434:振動
今の俺の顔はきっと恐ろしいものになっていただろう。
サン=ドマングの一件で、俺はこの世界にやってきてから初めて心の底から憎しみと殺意が沸き起こってしまったのだ。
落ち着け……愛しの妻を怖がらせてしまう事なんてしたくないし、第一そんなことをしていいわけがないだろう。
戦争が勃発してから、俺の頭の中にいくつもの考え方が浮かんでくる。
自分の想いだけではなく、考えたことすらないような考え方までが、蛇口をひねり出したようにポンポンと浮かんできているのだ。
『容赦なく敵兵は殺せ、相手に潰される前に……でなきゃやられるぞ』
『フランスの利益を考えれば、カリブ海での戦いに勝利してから有利な講和条約を結ぶんだ。欲をかけば痛い目に遭うぞ』
『これが戦争の醍醐味だ。HOBFをプレイしていた時のモニター画面からは数字としてしか出なかったものが現実に出来るんだぞ?』
『ゲームとリアルじゃ違うんだ。こっちはホンモノだ……アントワネットと温もりを感じることが出来る。であれば、もっと自分のやりたいことをするのが得策じゃないか?』
『ルイ16世……改革を多く成し遂げたフランス中興の祖となるか……それとも最後の王になるか……或いは転生者として自分の我儘を貫くか……お前の運命はどっちだ?』
『アントワネットを救えるのはお前だけだ。なら、やるべき事は戦争と脅威から家族を守り抜くことだろう。君なら出来るはずだ』
色んな事が頭の中でグルグルと蠢いている。
まるで会社に設置されたPCの電源コードが絡まってしまったように、自分以外の考え方までが入り込んでしまっている。
ルイ16世本来の考え方でもない……。
俺はこれからどうなるんだ?
アントワネットを幸せにできるのか?
戦争に明け暮れるようでは、いずれルイ14世やルイ15世が歩んだ破滅への道を歩むだけだ。
だが、この戦争を切り抜けないとフランスに未来はない。
このままでは、俺は壊れてしまいそうだ。
(俺は王としての器は大丈夫なんだろうか……本当にアントワネットを守れるのかな……)
ゲームだったら、何度でもリトライできる。
何度でもやり直しが出来る。
だが、これはリアルであり現実だ。
やり直しなんてできない。
ああ、どうすればいいんだろうか。
「オーギュスト様……」
アントワネットが心配そうにこちらを見つめている。
気がつけば、俺の目からポロポロと涙が零れていた。
机の上を温かい涙が一滴、また一滴と零れていく。
……不甲斐ない自分が嫌になってしまう。
ハンカチで涙を拭いても、何度も繰り返し涙が零れてしまう。
重圧……俺の行動一つで数万人の命が掛かっているんだ。
それなのに、まだどこかでゲームをやっている時みたいな考え方で行動していた自分が恥ずかしい。
サン=ドマング動乱時よりも、自分の行動が大胆になっていくのが怖い。
何人いれば相手を殺せるとか、補助兵は沢山いるから心配ないとか……兵士を人命ではなく数値として見ている自分が怖くなってきた。
あの時は補佐をしていたハウザーがいたから何とかなったのだ。
今の俺は暴君にでもなってしまう程に、心がおかしくなってしまっているのかもしれない。
それこそ、モニター画面でクリックとキーボード操作で打ち込み作業のように兵士に出撃コマンドを出している時よりも、命の重みを理解していない。
そんな俺を見かねてか、アントワネットがギュッと抱きしめてくれた。
「オーギュスト様……抱え込みすぎては心も身体も壊してしまいますよ……だから無理はしなくていいんですよ……」
その一言で、心の奥深くで止めていた感情が一気に雪崩れ込んできて、俺は泣いてしまった。
嗚咽と共に、アントワネットの胸の中で子供のように泣いた。
心の奥深くで不安と感情が入り乱れたものが一気に爆発したように、涙が止まらなくなってしまった。
なるべくアントワネットの負担にならないようにと抑えていたのだが、彼女の見せてくれた優しさと抱擁で、その抑えははじけ飛んでしまった。
一旦はじけ飛んだことにより、心の奥で抱え込んでいたモヤモヤは少し緩和したような感じがする。
少々情けない姿ではあったが、アントワネットの優しさに涙腺が刺激されて崩壊してしまったようだ。
まるで、泣いている我が子を宥める母親のように、アントワネットは優しく抱きしめてくれた。
……どのぐらい泣いたんだろうか。
目元は赤く腫れており、顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになってしまった。
ハンカチで拭ってから、アントワネットに謝る。
「すまないアントワネット……取り乱してしまって……」
「いいえ、オーギュスト様も無理をして抱え込んでしまうのはよくないですわ」
「……その通りだ。ごめん……」
「辛い時は、抱え込まずに頼っていいのですよ?無理をしてしまう事の方が一番辛いですから……」
無理をしないようにと釘を刺された上で、机の上を整理して物を置けるスペースを作る。
外交的・軍事的な基本方針には変わりがないので、仕事は一旦休憩という形で休息を取る事にした。
これ以上無理をしたら本気で心も身体もキャパシティーを超えてしまいそうだ。
さて、すこし落ち着いてきた所で休憩しようかな。
「そうだ!せっかくですし、休憩も兼ねてお茶の飲み比べでもしてみませんか?実家から珍しい茶葉が届いたんです!」
「ほぉ、アントワネットが珍しい茶葉というぐらいなら飲んでみたいね……せっかくだから机を片付けて一緒に飲もうか」
「ええ!それが一番ですわね!すぐに茶葉とクッキーを取り寄せるように言っておきますから」
「ああ、それじゃあ俺は机の上を片付けておくよ」
休憩をするにあたって、机の上に置かれていた羽ペンや一般向けの資料は机の引き出しの中に、その他国の深部に関わるような機密情報などは金庫に保管することになっている。
間違っても機密情報だったり貴重な品はそのまま置いておくのは一番危険な行為だ。
以前のようにヴェルサイユ宮殿は一般公開されていないので、防諜と防犯の面ではかなり安心はできる。
……が、油断は禁物だ。
何時、どこで敵国のスパイが紛れ込んでいるか分からない。
片付ける際には出しっぱなしにするのではなく、きちんと管理ができる場所に置いておくのが一番だ。
机の裏側に置かれている重圧感が漂う金庫がある。
これは鋼を使って作られた金庫であり、8ポンド砲の直撃を受けても表面が少し傷つくだけの頑丈さを発揮している耐久性を持ち、金庫の開錠をするには12桁のダイヤルに決められた数字を入力してから鍵を二箇所同時に回す必要があるのだ。
開錠して今後の政治情勢を左右する機密情報をしまい込んでから金庫の扉を閉める。
鍵を二つ、同時にロックをかけると自動的にダイヤルの数字が移動し、別の数字になる。
これによって鍵を発見したとしても開錠するためのダイヤルを入力しないと開錠できない仕組みを生み出してくれたのだ。
この時代では屈指のセキュリティーを誇る金庫といっても過言ではない。
金庫に重要書類をしまってから、アントワネットが提案してくれたお茶の飲み比べをするために、机の上を雑巾で拭いたりしたのであった。




