416:赤い津波(下)
知事であるトゥーサンは県庁に登庁して職務に当たっている最中であった。
フランス本土より、高性能化した高圧蒸気機関のリースが開始されたことにより、品質の高いサン=ドマング産蒸留酒の製造をやり易くするために科学アカデミー出身の技術者数名と意見交換をしていた。
これで未教育の労働者でもお酒を造れるように職業訓練の増設なども話し合われていたまさにその時に第一報が入ったのだ。
「……北米連合の軍艦が300隻以上沖合に現れただと?!それは本当か?!」
「はいっ、間違いありません!先程港に駆け込んできたビランダーから緊急の報告が挙がってきております。それと同時に、海岸で奴隷船から脱出してきたと語る黒人奴隷の人達を保護しました。彼らは奴隷の身柄引き渡しを求めてきております!」
「なんと……とにかく情報が欲しいッ!すまないが会議は一時中止になります。本当に申し訳ございません」
わざわざ本土から赴いてきた技術者だが、流石に一大事の時にまで巻き込んでしまっては元も子もない。
トゥーサンは部下から挙がってきた報告を聞き取ったうえで、カプ=フランセの沖合に北米連合の軍船舶が接近している状況について話の整理をするように求めた。
黒人奴隷側は、劣悪な環境下に置かれていた奴隷船から命からがら逃げてきた。
一方で北米連合側は奴隷船内で殺傷事件を起こした奴隷が小舟を奪って逃亡し、逃げ込んだと言っているという。
双方ともに逃亡したことは認めながらも、意見が食い違っていることに頭を悩ませている。
「……つまり、今回海岸で保護された黒人奴隷は奴隷船から逃亡してきたことに間違いないと言っているのだな?」
「はい、少々訛りが強い感じなので、聞き取りづらかったですが、確かにドゥアラからやってきたと言っております。元々奥地に住んでいた部族のようで、無理やり連れてこられたと言っております」
「ドゥアラか……確かポルトガル王国の奴隷貿易拠点だっただろう?もう廃止されたと聞いていたが……」
「ええ、確かに”ポルトガル王国”はフランスに見習って奴隷貿易を廃止し、アフリカからの奴隷の仕入れは行っておりません。しかしながら、現地の有力者が大量に労働奴隷を購入している北米連合に向けて輸出しているそうです」
「つまり……そこで奴隷として売られて連れて来られたというわけか……何ともややこしいな……」
フランスが一足早くに奴隷廃止を制定したことにより、奴隷制度廃止の動きはヨーロッパで加速していた。
フランスの農奴および奴隷廃止令と合わせて行われた寛容令により、名目上は奴隷は無くなったのだ。
当然アフリカの沿岸部で財を成していた奴隷商人は廃れていくかに見えた。
しかし、現在労働力を欲している北米連合がアフリカ大陸に大型で積載量の大きいインディアマンと呼ばれる貿易船を使って奴隷労働者としてだぶついていた奴隷を大量に買い出したのだ。
これは両者の思惑が一致しており、労働力の欲しい北米連合と、財を成したい奴隷商人や現地有力者との間で取引が成立し、奴隷貿易が盛んであったとされている一世紀前よりも、かつてない規模で奴隷貿易が盛んに行なわれていたのだ。
フランスをはじめとした西欧各国は北米連合を批判し、奴隷貿易を止めるように北米連合の属する企業などへの経済制裁なども加え始めているが、根本的な解決には至っていない。
むしろ北米連合はヨーロッパを制さずとも、手短にカリブ海諸国への威圧的な行動を取り始めており、ここ数か月はプロイセン王国との一件もあり緊張状態が高まっていたのだ。
その緊張状態が一気に沸騰したのだ。
「このままでは我々は戦争を引き起こしてしまう撃鉄を引いてしまうようなものだ……ここで北米連合に譲歩して奴隷を引き渡せば本国を含めて非難されるだろうし、かと言って引き渡さないと北米連合の軍艦より砲撃を含めた攻撃が行われる可能性が高い……という事だな」
「そうなりますね……しかも相手は正規軍で組織化されております。恐らくですが、新大陸動乱時にグレートブリテン王国から掠め取った船を使っているのでしょう」
「ふむ……今までの人生の中で危機はいくつもあったが、これは極めつけだ。しかも大勢の命が掛かっている問題だ……」
これまでにもトゥーサンには危機と呼べるような状況はいくつもあったが、それはあくまでも一個人としての危機であり、他の人達まで巻き込むようなものではない。
トゥーサンはまだ知事になって間もないが、このサン=ドマングで全ての人々から支持を集めているが、まだまだ政治的にはそこまで自由に決められるものではなかった。
(私一人ですべてを決めるには荷が重すぎる……ここは補佐官のカンバセレス氏に助言を求めたほうがいいな……)
知事補佐官としてサン=ドマングに派遣されていた法服貴族であり、史実ではフランス革命後にナポレオン法典の作成に携わったジャック・レジ・ド・カンバセレスに助言を求めたのだ。
カンバセレスはモンペリエの大学で結成されていた改革派のサロンにて執行役員としてその手腕を振るい、改革派に属したことにより運命は大きく変わった。
その手腕が認められたことと、大学卒業者でも改革を行う原動力を欲していた政府に才能を買われて父親の参事官の跡を継ぐのではなく『海外県知事補佐官』に就任したのである。
これは海外県における知事の汚職の調査や法律の執行の有無、さらに外交的な交渉なども踏まえて総合的な判断が求められる職種だった。
若くて、活発的……それでいて法律などの知識を有する仕事だけに、大学卒業者というこの時代ではかなり狭き門の中からさらに選ばれた数名が補佐官として就任できるものであった。
倍率は高いがその分仕事の厳しさも参事官の比ではなかった。
筆記試験の段階で振るいにかけられ、さらにその後の試験では口頭や実技だけではなく、交渉術なども試されるというものであり、短気な性格であったり貪欲で金欲しさに賄賂を受け取るような者は即刻弾かれたのだ。
そんな厳しい試験を合格し、世襲するはずであった参事官のポストを蹴られた父ですら「参事官よりも誇りになる仕事に就けたのであれば文句はない。お前の道を歩め」と擁護するほどに知事補佐官の職を誇りにしたのだ。
トゥーサンから呼び出しを受け、カンバセレスは事態を把握すると、すぐに機転を利かせてトゥーサンに助言を行う。
「トゥーサン殿、彼らはあくまでも『殺傷行為による事件の首謀者』として避難してきた黒人奴隷を引き渡すように命じてきたのですね?」
「そうだ……これに応じない場合は攻撃も辞さない構えを見せているようだ」
「……ふむ、ではこうしたらどうでしょうか……双方の意見を聞いたうえで裁判所に判断を仰ぐというのは……」
「裁判所に……?」
「そうです。双方の主張を聞いた限りでは奴隷船から逃げてきたのは事実ですし、我が国では禁じている奴隷貿易を継続して取引しているのは北米連合の問題です。さらに黒人奴隷がこうした奴隷貿易による劣悪な環境下でやむを得ない事情で殺傷事件を起こしていたとなれば、裁判によって明らかにすべきです。その為にも事件の起こった奴隷船に警察機関と連携して乗り込んで『実況見分』をするのです。その間に本国に艦隊派遣の応援要請と共に、弁護士団を派遣してもらって黒人奴隷の方々をこちらで引き取れるように調整すれば問題はありません。必ず彼らを守ることが出来ます!」
「裁判……!なるほど……その手があったか!」
サン=ドマング側からしてみれば、裁判所でケリを付けることが出来れば御の字であった。
というのも、海外県(外国からしてみれば事実上の植民地)とはいえサン=ドマングには司法機関が存在しており、地方裁判所としての機能を有している。
北米連合が軍事的な圧力をかけてきたとしても、サン=ドマング側には司法権が存在しており、司法の結果が出るまでは引き渡しが出来ないと突っぱねることが出来るのだ。
勿論、奴隷船での殺傷事件がフランス側の領海で起こったのであれば尚更フランスとしても事件の捜査をしなければならない。
ましてや、すでにサン=ドマングはフランス領であるので、捜査を行うには十分な理由と動機もある。
北米連合側も要求を呑んで貰いたければ、捜査に協力し、裁判において自身の正当性を主張して認めさせて連れ戻さないといけないのだ。
こうした機転によって黒人奴隷の人達は保護された上で、トゥーサンはサン=ドマングに駐留していた憲兵隊による奴隷船への実況見分を行うように命じ、カプ=フランセに停泊していたフランス海軍には沿岸防衛の任務を与える。
陸軍や地方防衛を担う地元住民で構成された民兵組織である郷土防衛隊、行政機関には万が一北米連合側が実況見分を拒否して応じないと判断して攻撃してくるといった有事の際に備えて、トゥーサンは警察・軍・行政機関の担当者を集めて市民の避難準備情報の策定を急がせたのだ。
だが……平和裏に済まそうとした矢先に、県庁の行政庁舎に轟音と共に大きな振動が襲い掛かったのであった。




