415:赤い津波(上)
「赤い津波がやって来た。轟音と共にやって来た。世界中で血の海となる。人も町も城も国も……すべて、赤く染まってゆく……官能的であり、情熱的であり、廃絶的で赤黒く世界は塗りつぶされていく」
―1782.3.9 マルキ・ド・サド バスティーユ牢獄での日記より
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1782年3月10日
フランス王国海外県 サン=ドマング 県中心地カプ=フランセ
1771年にサン=ドマングの反乱が発生して以来、すでに10年以上が経過しているが、現在では白人と黒人労働者との間に生まれた混血の人達の中でも勉学や体力に優れている者が行政の要職に赴いており、人種混合地域のモデルケースとして紹介されるぐらいには改善されるようになった。
その中でもサン=ドマングのカプ=フランセ(現在のハイチ共和国北部)出身のトゥーサン・ルーヴェルチュールという人物がサン=ドマングの知事としてその手腕を振るっていた。
彼は史実においてハイチ革命を起こして黒人主導の独立国家として誕生させた指導者だ。
元々勉学に優れていた彼であったが、フランス革命が発生すると彼は革命のスローガンであった自由・平等・博愛の精神を以って軍人として技術や装備に劣る植民地軍を率いてイギリスやスペイン軍、さらに仲違いしたナポレオンの軍隊とも交戦し、最終的には彼の育てたサン=ドマングの黒人軍は勝利し、サン=ドマングはハイチ共和国として独立を果たした。
ただ、残念ながら史実ではその後にハイチ共和国は周辺国や欧米諸国の介入もあって発展することはできず、長年に渡る内戦や米国の軍事介入、さらにクーデターが発生したり独裁政権国家となってしまったりと、国家情勢は不安定化してしまう。
これは現代でも改善されていない。
その証拠に2021年には現職大統領の暗殺事件が発生するなど治安情勢が悪化しており、カリブ海諸国の中でも貧しい国家の一つとなってしまった。
しかし、この世界ではそのような史実の歴史を歩ませないようにと、ルイ16世がサン=ドマング各地に学校を建設し、人種問わず受け入れる教育方針を本土や海外圏でも導入し、少しずつではあるが人種間における差別や偏見をなくそうとしている。
その主な取り組みとして、プランテーション農園における労働基準法の徹底厳守化であった。
長時間労働の禁止や適切な休息、そして事故や事件が発生した際の迅速な警察機関への報告などを徹底し、それまで虐げられてきた黒人やムラートの労働者を守る法律を制定したこともあり、朝から晩まで働かされることはなく、昼には一時間休憩が必ず設けられて、夕方には家に帰ることもできるようになった。
日曜日は休息日であるということで必ず休みを入れるようになったおかげで、多くの解放労働者が自由な時間を過ごせるようになった。
本土での農奴廃止令と同じくしてサン=ドマングでもこの農奴及び奴隷廃止が制定されたことにより、プランテーション農園で働いている黒人やムラートも「労働者」として扱われるようになり、人種間問わず問題が発生した場合は必ず仲介として各人種の警察官や弁護士などが対応をするようになった。
これにより、それまで意見すら述べることが出来なかった人々も労働問題などを訴えることが可能になり、横暴な対応を行うプランテーション農園の経営者などが逮捕されたり、脱税行為を含めた帳簿の不正行為を行った経営者は国に損害を与えたとして農園の所有権を国に取り上げられたりもした。
結果的に、サン=ドマング全体の3分の1に相当する農園で逮捕者や所有権取り上げが行われ、その農園は王国が運営する『王立フランス大西洋貿易会社』が所有している。
かつてインドに拠点を置いていた東インド会社のやり方に加えて、多人種間での共存共栄を掲げるルイ16世の意向を取り入れた農園運営により、欧州各国でサン=ドマングのコーヒーや砂糖だけではなく、さらに保存に適した瓶詰を応用し、オレンジやバナナといったフルーツをジャムなどに加工して保存食として、サトウキビなどを発酵したラム酒など加工品などに手を加えた状態で輸出されているのだ。
国営企業であることを活かして輸出する際には瓶の蓋には製造年月日を明記した上で、瓶に貼り付けている紙にはどの農園の作物を使い、加工した工場の名前まで記入しているのだ。
信頼性を付け加えた上で安心感を与える。
これは食品の衛生管理に疎かったこの時代には無かった手法であった。
ルイ16世は未来からの知識を用いて、食品の衛生管理を徹底させたお陰で、フランス王国サン=ドマング産のジャムやラム酒は安全だというPRにもなり、南米や東南アジアに植民地を持っているスペインやポルトガルですら、サン=ドマング産の品質と味については真似できないものとなっている。
ただ単に栽培したものを売るのは誰にでもできる。
しかし、持続的に産業を維持していくにはひと手間加えた上で売った方がお金になる。
付け加えれば、本土が搾取をするのではなく、地元の人たちが生産を行えるように教育を行い、よりお金が地元に回れるようにと経済の循環社会を作るために永続的な社会構成を行えるように指導を行った。
その指導的立場で頭角を現したのが、何を隠そうトゥーサン・ルーヴェルチュールであった。
彼はパリの大学を卒業した後、1776年にサン=ドマングに帰ってきたトゥーサンは国営企業の王立フランス大西洋貿易会社に就職し、そこで管理職として複数の農園の経営を任されたのだ。
トゥーサンは労働環境の改善の具体的な案や、実際に農園を経営して読み書きの学習の見込める人を募集し、小さいながらも学校を開設して教育を施した。
僅か3年で全ての農園を黒字にしただけではなく、農園で働いている労働者の環境も良くして初等教育まで施したのだ。
この功績は大々的に報じられたこともあり、サン=ドマングにおいて彼は白人、黒人やムラートを問わず信頼できる人物として尊敬の念を集めていた。
1779年には出身地のカプ=フランセにて国営企業で製造している蒸留酒の新規プラントの誘致や、自身で成功を治めた農園のやり方などを全サン=ドマングの農園でも実践し、1年間各地を歩いて農園の事業主や労働者との交流を行い、その巧みな交渉術や手腕を評価されて支持を確固たるものにした。
そして1780年10月には本土での導入にむけて試験的に行われた18歳以上の全サン=ドマング市民が参加したサン=ドマング知事選において、トゥーサンは全サン=ドマング人口の実に85パーセントという圧倒的支持を集めて当選したのだ。
投票といっても、この時代文字を書ける、読める人間はごく一部であった。
投票をしようにも名前が無い状態では投票も出来ない……。
そこで編み出されたのが絵具を使った投票である。
投票所ではそれぞれ候補者が希望していた色の絵具を使い、投票する人物の色の絵具を投票用紙に塗って投票するという方式が取られたのだ。
事前にカラーなども決められており、トゥーサンのカラーは青色であった。
裕福な白人経営者も、農園で働いている黒人やムラートも、トゥーサンを支持した。
投票用紙には青色に塗られた投票用紙が沢山投票箱に敷き詰められていた。
この出来事は『青い投票箱』という造語まで生み出すほどであり、圧倒的な人気と支持を得られたトゥーサンは知事に就任し、黙々と公務をこなしていた。
サン=ドマングでの知事としての生活は提出された書類との戦いではあったが、農園での作業に比べたらデスクワークであり、それはとってもゆったりとしたものであった。
……が、そんなささやかな平穏のひと時は、この日を最後に終わったのである。
3月1日午前10時頃、サン=ドマングの経済の中心地であり、県庁所在地のあるカプ=フランセにおいて1隻の小舟が海岸に到着したのだ。
小舟には大勢の黒人が搭乗しており、着ている服はボロ布でツギハギされたものばかりで、手首には手錠を付けられていた者もいた。
彼らは海岸に上陸すると、海岸で製塩作業をしていた黒人労働者に駆け寄って涙ながらに助けを求めてきたのだ。
彼らは口を揃えてこう訴えたのだ。
「俺たちは北米連合の奴隷船から逃げてきたんだが、奴らが追いかけてくるんだ……他に脱出した船は撃ち殺された……頼む!助けてくれ!」
労働者は直ぐに上司に報告し、上司も彼らから事情を聞いて一先ず保護を優先し、カプ=フランセの警察機関に連絡した矢先、北米連合所属の船舶がカプ=フランセの沖合に現れた。
それも1隻や2隻だけではない。
何十もの砲門を兼ね備えた大型の戦闘艦が12隻、さらに武装した私掠船も合わせると大小300隻以上もの大規模なものであった。
彼らは近くを通りがかったフランスのビランダー(小型商船)に対して「当艦隊の輸送船内において船員を殺傷し、逃亡した黒人奴隷がカプ=フランセに逃げ込んだ。直ちに身柄を引き渡すように。もし引き渡しに応じない場合は強硬手段を持って事態の解決を行う」と宣言。
船はすぐさまカプ=フランセに停泊していた海軍関係者に報告を行うと、たちまち港湾内が慌ただしくなりはじめる。
サン=ドマングは突如として北米連合との戦闘勃発寸前の危機的状況下に追い込まれたのだ。




