389:Accélérer la religion
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1780年11月29日
オーストリア大公国 ホーフブルク宮殿
史実ではこの日、マリア・テレジア女大公は風邪をこじらせた末に崩御した。
この世界では歴史が大きく変わったことで、彼女はまだ存命である。
それに加えて、風邪予防としてフランスから手洗いとうがいの方法が持ち込まれたことで、テレジア女大公は日課の散歩を終えると必ず手洗いとうがいをするようにしていた。
その結果、彼女の死因となった高熱を引き起こした風邪をひくことなく、元気そのものであった。
お気に入りの紅茶を飲みながら女大公はデスクで仕事を行う。
息子のヨーゼフ2世が入ってきて母親の体調を伺う。
「母上、今日も元気一杯ですね。でもあまり無理をしてはいけませんよ?」
「勿論よ。無理をしない範囲で頑張っているわ。それにまだまだ私も現役よ?あの子もフランスで夫を支えて頑張っているもの……。それに、ロシアの対応は私たちとしてもこのまま放置しておくわけには行かないわね。クラクフ共和国の高官との会合に出席するつもりかしら?」
「勿論ですよ。クラクフ共和国はプロイセン王国への牽制を行ってくれている前衛国家です。無下に扱うことは出来ません。ロシアへの介入が出来なかったことでプロイセン王国は殺気に満ちあふれておりますよ」
オーストリアは対プロイセン王国への牽制に躍起になっていた。
スウェーデンはフランスのみならずオーストリアとも連携して対ロシア・プロイセン方面の牽制を行っていたのだ。
プロイセン王国は欧州でも最強と謳われている陸軍戦力を保有し、グレートブリテン王国の内戦ではその実力を遺憾なく発揮してグレートブリテン王国から戦費の担保としてカリブ海の植民地を確保していた。
しかし、華々しい勝利とは裏腹にプロイセン王国やその領邦に属している国々の実情は切羽詰まっていたのだ。
というのも新大陸動乱とそれに伴うグレートブリテン王国の内戦によってプロイセン王国の経済状況は悪化していたのだ。
新大陸動乱によってアメリカ大陸では派遣された軍人の3分の1が戦死ないし捕虜となった。
おまけに莫大な額の戦費を植民地の確保という形で賄うことが出来たが、これが頓挫していたらプロイセン王国の経済は完全に破綻していただろう。
カリブ海の植民地を確保したプロイセン王国であったが、グレートブリテン王国との引継ぎや、それに伴う事後処理などで正式に引き渡しが行われるのは来年の4月を目途に行っている。
プロイセン王国の海運能力は民間企業を中心に行われており、国営の企業は殆ど参入していなかった。
それ故に軍の兵站輸送や海上貿易における海路についても民間船などに依存しており、グレートブリテン王国から得られた資金などもプロイセン海軍の増強の為に充てられている。
グレートブリテン王国に属していた海軍軍人や造船技術者などを高額で雇い入れて海軍の育成に専念している情報を見て、ヨーゼフ2世は少し懐疑的な意見を述べた。
「しかしながら、プロイセン海軍が今になって海軍の増強を行っても厳しいのではないでしょうか?内戦時に鹵獲したロンドン革命政府軍の軍艦や亡命してきて接収した元グレートブリテン王国海軍の戦列艦が複数あると伺ってますが……運用するにも諸外国には遠く及ばないのでは?」
「そうね、大西洋に出るのであればプロイセン海軍は圧倒的に不利ね……でも、大西洋に出ない条件だったらどうかしら?」
「大西洋に出ない……っ!つまり、プロイセンは有事の際にはバルト海と北海を遮断することに専念できる海軍を有するというわけですか?」
「消去法でいればそうなるわ。デンマークの大ベルト及び小ベルト海峡にエーレ海峡……バルト海に通じている海路はこの三つ。ここを遮断すればフランスやスペインが主にやっているスウェーデンへの物資運搬路である海路が塞がれるわ。ノルウェー側がプロイセンと通じていればスウェーデンを孤立させることもできるわね」
「この一点をやるためだけに集中的に狙っているわけですか」
「そう考えたほうがいいわ。ロシア側との関係を絶たれても、バルト海の海上封鎖が出来ればプロイセン王国は海に心配をする必要がなくなる。あとは精強な陸上戦力をぶつけてくればこちら側に多大な損害が出るという寸法よ」
大西洋側の植民地を失っても、プロイセン王国には強靭な軍隊と工業化によって急速な発展を遂げている都市国家がいくつも存在している。
領邦の経済力と資本力によって資源を意図的に吊り上げたりすることも可能であるのだ。
事実、1779年に発生した木材や石材の価格高騰もプロイセン王国が周辺国の木材や石材の仕入れ店で大量発注をしていたことが原因である。
これは、プロイセン王国国内で新しい要塞や城壁の建設が加速的に進められており、主従関係の領邦でも同様に国土全体の城壁化が進められており、それまでは城だけであった城壁が、今現在では都市内部、都市郊外にも広がっている異様な光景である。
領邦の構成国家の一つであるブラウンシュヴァイク公国のカール・ヴィルヘルム・フェルディナント公が軍を通じてフリードリヒ2世に進言を行ったことに由来している。
フェルディナント公は新大陸動乱及びグレートブリテン王国内戦において顕著にみられた要塞や城壁を有していない都市部の脆弱性を指摘し、敵が侵攻してきた際に都市が丸ごと守りに徹して防衛を行い、城壁ないし要塞内部にて弾薬を含めた物資を製造し持久戦による徹底抗戦の末に相手の攻勢限界が来た際に、敵の戦隊で疲弊した箇所への反撃を行うという『決戦防衛論』をフリードリヒ2世が採用したことに由来する。
当初はラキ火山噴火に伴う措置の一つとして調達されていたのだが、グレートブリテン王国とのエディンバラ条約で周辺国との対立姿勢が現れたことで、この戦略構想を実現するべく多くの木材や石材が必要となり、国内だけでは足りないので国外の資源も買い占めを行ったのだ。
結果的に、貧弱な小国ですらプロイセン王国の支援の下で城壁や要塞が建設されていき、結果的に周辺国の木材や石材が買い占められたことにより高騰していったのだ。
「そしてプロイセン王国にとって本当の悩みの種はロシアですか」
「ええ、ロシア帝国が二分化されたことで味方が殆どいなくなってしまったわね。それが結果的にプロイセン王国が大きく動いている要因の一つね。まったく、グスタフ3世も中々やるわね」
露普同盟として同盟を組んでいたロシア帝国が内戦とそれに伴う政変によって親スウェーデン派に置き換わったことでスウェーデンとの対立構造が深刻化していたのだ。
同盟を組んでいたプロイセン王国とロシア帝国はまだ同盟関係にあったが、ロシア帝国がメンツの問題も合わさって内戦介入を拒んだ。
無論、スウェーデンやオーストリアの工作によってプロイセン王国の影響力がロシアで低下し、代わりにスウェーデンやオーストリアを支持する動きが広がった。
結果、政変が発生しエカチェリーナ派が失脚してプロイセン王国との同盟関係が解消され、代わりにザクセンの血を引継ぎながらスウェーデンの手引きによって親スウェーデン派としてアドルフ皇帝が即位したのだから、プロイセン王国のフリードリヒ2世は報告書を握りつぶして大激怒したという話すらある程だ。
「顔に泥を塗られた事でフリードリヒ2世も相当激怒していたそうです。うまくいけばロシアにも影響力を誇示できるつもりが、気がつけばスウェーデン派の傀儡政権が樹立したのですから」
「とはいえ、あれは内戦に積極的に対応せずにエカチェリーナが愛人に現を抜かしていたのも悪いわね……毎晩違う男の人と抱き合っていたそうよ……とてもじゃないけど私としては彼女の行動が理解できないわね」
「男ならそうした話はよく聞きますが、女性では早々ないですからね……まだ20歳にもなっていない美青年を集めて部屋の中で快楽におぼれたとか……娼婦の皇帝だと貴族の間では揶揄されていたみたいですし」
「実際に彼女は気に入った貴族の男性の子供を産んでいたんじゃないかと言われているわ。全く……そうした堕落して快楽主義におぼれてしまうからこのような結果になるのよ」
テレジア女大公は男に現を抜かしていたエカチェリーナを嘆いていた。
もしエカチェリーナが男の身体を求めることよりも内政に力を入れていればこんなことにはならなかったのに……。
だが、嘆いても状況が変わることはない。
テレジア女大公は再び筆を走らせて関係者との取りまとめの協議などをヨーゼフ2世と協力して執り行うのであった。