382:幕仏親交
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1780年8月30日
平賀源内を含めた日本使節団はブルボン宮殿で行われる交流会に参加するべく、日本人として初めてパリ市内に赴いた。
そしてパリ市内の光景を見て唖然としていた。
江戸を含めても、5階建ての建物が立ち並んでいる光景は早々ない。
木造建築物で高い建物といっても城ぐらいしかなく、その城に匹敵するような大きな建造物が建てられているのを見て、国力の差を実感していたのだ。
「これ程までに大きい建物がひしめき合っているとは……西洋の建築物は高いと出島のオランダ商人は言っておりましたが……それ以上に高いですね」
「ええ、それに淳庵さん、意助さん、見てください……どうも外見を見るに石材をふんだんに使用しているみたいです。窓もガラスを使っていますし……石畳の道であることを踏まえても、相当都市整備に力を入れているのでしょうね……」
「これだけ沢山の建物がタケノコのように建っていると……江戸もこのような街並みになったらどんなことになるのやら……」
彼らが驚いたのは石材を使った高層建築物であった。
宮殿や大聖堂などは遠くからでもハッキリと分かるぐらいの大きさだ。
人々の流れは江戸と同じぐらいかもしれないが、整備されているという点を考えればパリの方が上かもしれない。
そして、源内達を感嘆させたのは移動手段として使っている馬車にある。
馬車が日本で導入されたのは江戸時代末期の1860年頃であり、それまでは馬車という乗り物がなかったのである。
似たような乗り物で馬ではなく牛を使った牛車はあったが、それでも大半が米俵といった荷物を運搬するのに使用しており、人を乗せて走るということは殆どなかったのである。
「それにしても、この馬車という乗り物は思っていた以上に揺れが少ないですな」
「移動手段としてはもってこいだが……中山道を超えるとなると少々厳しいかもしれないですね……」
「あくまでも平らな平地を想定して高速で移動できる手段としてなら江戸でも運用ができるでしょう」
「しかし、人の多さを考えれば道を大きく整備しなければなりませんな……馬は早く走ります故……ここを走っている道も相当広いですし……もしこの馬車を導入するとしても最初は道路が整備されている江戸や大坂辺りですかね」
彼らを驚かせたのは馬車専用となっている大通りだ。
多くの馬車が行きかっており、そのほとんどが貨物専用の運搬車両であったのだ。
牛車よりも高速で、かつ早い移動手段としてパリ市民は重宝しているのだ。
馬車の移動速度も速く、それでいて整備された道路と来賓用として作られたサスペンション装置付きの車両であったことから乗り心地も良かった。
(うむ……これだけ速い速度で走っているにもかかわらず揺れが少ないな……水を張った湯呑みを持ってきても急に止まったりしない限り零れないだろう。それにしてもどういった原理で振動を抑えているのやら……ヨーロッパ随一の発明大国となっているという噂も本当のようだな。ただ、これだけ大きな馬車を動かすとなると日本の馬では少々力不足になるかもしれん……フランス産の馬数頭と馬車を一台取引して持ち込めないか頼むとしよう)
源内はフランスの技術力の高さに感嘆していた。
発明家でもある源内は今日の交流会で会談する相手がカルバン派プロテスタントを中心とする商会組合であることから、将軍や田沼から任されている琉球を通じた商談に関する取引で、馬車の部品を持ち込めるかどうか交渉するつもりであった。
勿論、交渉だけが全てではない。
源内達に与えられた使命は、フランスの技術力や科学力などを知る必要があるからだ。
馬車だけではなく最新鋭の医学に関する実践研修や蒸気機関などの技術見学なども連日して行うことになっている。
フランス科学アカデミー、フランス衛生保健省、王立パリ大学にそれぞれ見学する予定となっており、使節団一行に選ばれた付添人も、彼らに負けず劣らず文学などに頭角を現してきた者であり、田沼が使節団派遣の為に密かに選んでいた人材でもある。
また、使節団一行の中にはパリ市内の描写を残すために画家として将軍家治の寵愛を受けていた江戸を代表とする浮世絵絵師の狩野典信から指導を受けた塾生が同行し、見逃さないようにと光景を目に焼き付けてから夜にホテルに戻ってから素早く絵にしていたのだ。
「ここが大火のあった場所か……まだ建物も再建の途中か……」
「あまりパリでは大きな火災は起きないそうですが……この地区一帯を包むほどの大きな火災だったそうです。それに伴ってこの場所も区画整理をしているとのことです」
「7年前にも江戸で大火がありましたからね……やはり大きな火災等で再建するさいに道路を広くしているのですね……」
パリ市内では大火災の復興として再建中の区画を馬車で通り過ぎる一行。
7年前の1772年に日本橋一帯が燃えて一万人以上が焼死する明和の大火があったばかり。
奇しくも大火の原因がパリ大火と同じ故意による放火であった。
故に、パリでも同じように大火が起こり燃えたという事実を聞いて、石材を使っていても屋根に使われている木材に引火して火災が広がるという事を把握する。
そして気になっていたのは道路の広さだ。
道路をより広くしており、その道路には多くの馬車が片側4車線で走っている。
といっても、一番左側の車線には荷車など人力で動かす車両が走っており、馬車が走っているのは残りの三車線である。
道の真ん中には反対車線を超えないように柵が設けられており、柵の基盤は石材などで出来ているようだ。
十字路に差し掛かると、交通整備の者が大きい音が鳴る笛を吹いて馬車に停車をするように呼び掛ける。
時計を見ながら時間を確認し、3分経過すると道を進むように御者に指示を出した。
その光景を見ていた淳庵は通訳にどういった仕組みで道路を作ったのか尋ねた。
「この道路は一般の道路とは違い、綺麗に馬車が通る流れまで決められていますが……どういった意味があるのでしょうか?」
「今後、馬車などが普及していく際にルールを予め決める必要があるのです。今までは馬車も人も道の真ん中を行きかっておりましたが、今後馬車が人を跳ねてしまったりするのを防ぐために予め馬車で移動する際の交通ルールを決める事になったのです。大通りの場合は中央部分を馬車や荷車が走る専用道路とし、建物が面している道路を歩道専用として整備したのです」
「建物側を歩行者……道の真ん中を馬車や荷車が走るようにして事故を減らすために行ったということですか?」
「その通りです。そしてこの【復興大通り】は大火災の整備事業の一環として都市整備の模範となるべく整備されたのですよ」
パリと江戸を比較しても、パリの交通事情は馬車を中心とした車両が行きかう社会へと変貌している。
江戸は過密都市だ。
それ故に荷車や駕籠といった荷物や人を運搬する業者も多く、交通ルールなども整備されているとはいえ、道路の広さは大通りでも幅18メートル前後……。
それに対して幅100メートルの大通りを作っているので実に5倍以上もの広さであり、これは周辺国の大通りと比較しても物凄く広い。
源内たちは交流会に参加する前に、発展している交通網を見てフランスという国が予想以上の発展を遂げている国家だと認識したのであった。