368:寡黙の発明家
保冷庫……。
日本では戦後の高度経済成長期に三種の神器としてもてはやされていた家電は「白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫」であったが、そのうちの冷蔵庫が普及する前は氷を入れて食品を保管する保冷庫というものが存在していた。
歴史上登場したのは19世紀頃と言われているが、そんな保冷庫が試作品とはいえ完成したのだ。
冷蔵庫は家電として電力が必要だが、この保冷庫であれば氷を入れておけば大丈夫。
完全に大丈夫というわけではないが、それでもこの時代であればかなり画期的なシステムになるだろう。
氷を外気になるべく触れないように保冷庫には氷を入れる場所に断熱材として加工した金属などで覆いつくし、その氷によって冷やすことにより一定の気温を保たせるというものだ。
それでも外気が暑くても保冷庫の気温は10度以下に抑えることができる点を鑑みても十分に優れている。
そんなこの時代では最先端の保冷庫がお披露目になったので、さっそく拝見してみよう。
「ほぉ……これは中々凝ったデザインをしているね……」
「上の引き出しには……あっ、ここに氷が詰まっていますよ!オーギュスト様!この保冷庫の中ですが、物凄く冷えてますよ~!」
「ははっ、はしゃぐのもいいけど内部は冷たいだろうからあまり触らないほうがいいよアントワネット。ところで……タンスのような外見をしているのも理由があるのかい?」
「……」
ジッとこちらを見つめている発明家……もとい、この保冷庫を発明・開発した第一人者であるグレートブリテン王国から亡命してきたヘンリー・キャヴェンディッシュであった。
史実において彼は多くの発明や発見を成していた化学者なのだが、その大部分を生前に発表せずに死後になってから発見されて評価された人物だ。
一応元フランス人であるのは確かなのだが……生涯の経歴は国土管理局の情報網を駆使しても謎に包まれている部分が多く、彼は中々の人嫌いであるのと同時に無口で自分から喋らないことでも有名だ。
噂では聞いていたけど……本当に寡黙な人だ……。
数秒ほど沈黙した後にポツポツとヘンリーは語り始めた。
「……この形が氷によって発生する冷気を循環させるのに役立つからです……一体型の保冷庫も作りましたがうまく冷やすことが出来なかったので……上部に氷を入れて冷やすことにしたのです」
聞くと、最初は氷を下に入れて冷やそうとしたらしい。
しかし、それだと冷気が効率よく循環せずに中間に置かれている野菜などが傷んでしまったという。
なので、上部に氷を入れて冷気を確保し、下のほうに行き届くようにしたという。
淡々とした表情で説明をしているが、この保冷庫を作るまでに数十個もの試作品を作ったそうだ。
予算なども移籍したフランス科学アカデミーから出資してもらったこともあって、より効率よく冷える保冷庫が発明されたというわけだ。
「まだこの上部に氷を入れて、その冷たい空気を利用するだけですが……いずれは電気装置などを組み合わせた冷気装置の開発の役に立てれば幸いです……」
「なるほど……電気を利用した冷気装置か……実現はできそうか?」
「はい、ジェームズ・ワット氏が開発した圧縮式蒸気機関と、静電誘導を伴う電力の循環が行える仕組みを導入すれば可能かと思います。ただ、そうした場合熱が内部で籠ってしまいますので、排熱問題が大きいです。なのでこの排熱問題が解決されるまでは研究が必要でしょう」
やはり研究の事になると熱弁をするという話も本当のようだ。
ヘンリー曰く、保冷庫の発明は今後の研究において、あくまでも通過点に過ぎないそうだ。
彼の話を聞くに、冷蔵庫のようなものを開発するという。
今回の保冷庫はあくまでも化学的な実験で生じた副産物を利用しているようで、本格的な冷蔵庫の開発が実現すれば、史実より半世紀以上も早く誕生することになりそうだ。
その頭脳は確実に役に立つし、実験を好きなだけできるという条件で雇い入れているので、本人が発明したものに関して、今後特許などが必要な際には必ず申し出を行い、彼に対して一定のロイヤリティを支払う契約も交わしている。
フランス科学アカデミーだけに置いているのも惜しいという声もあるが、今現在彼の故郷であるグレートブリテン王国の惨状を鑑みて、こちらで研究に没頭していたほうが幸せなのかもしれない。
なお、先ほどからアントワネットは保冷庫の中をじっと見つめて不思議そうな顔をしている。
やはり氷が入っているとはいえ、こうした冷たいものが必要な理由などを探っているのだろうか?
一応野菜や肉類を保管する上で必要な装置であることをヘンリーの助手が説明しているようだが、どうやらアントワネットの頭の中にはもう一つ妙案が思い浮かんだらしい。
「そうだ!オーギュスト様、この保冷庫って内部の気温を一定の温度に保つことが出来る仕組みですよね?私、一つ妙案を思いつきました!」
「おっ、本当かい?言ってごらん」
「この保冷庫の中に薬品などを保管するのはどうでしょう?実験の道具とかでも暑さに弱い薬品があると聞きますし、そうした薬品の保管場所としては最適かと思います」
「……確かに、冷気を一定に保つことができるようになれば医薬品の保管にも役に立つね……高温になると薬が傷んでしまうリスクも高いし」
「それからサン=ドマングのような南国だと氷の確保も大変ですので、将来的には冷気装置もあれば離島や僻地でも大活躍できるのではないでしょうか?」
アントワネットの妙案は中々鋭いところを突いていた。
食品だけではなく、薬品の保管場所として利用するという案を提示してくれた。
これは優れた妙案だ。
食品衛生に関する事を重視していたが、言われてみれば薬品というのは高温多湿な環境には弱い。
出来る限り一定の気温条件を満たしている場所でないと、管理・運用は難しい。
瓶を入れたまま戸棚にしまうのもいいが、化学薬品の場合は温度が高いと発火する恐れもある。
つまり、アントワネットの妙案は実に合理的でもあったのだ。
「それはいい案だね!薬品用の瓶の保管に使用する……うってつけかもしれないねヘンリーはどうかな?」
「……陛下、お言葉ですが薬品類の瓶はあまり冷たくなり過ぎるとガラス瓶が破損してしまいます。それに、表面が水滴の結晶となって滑りやすくなってしまう原因にもなります。特に有毒な化合物を扱う際には危険です。故に、あまり冷たい環境で保管する場合では、瓶そのものが急激な変化に弱いので、温度もより慎重にやらないといけません……常温の環境下で直射日光の当たらない涼しい部屋の戸棚に保管したほうがいいでしょう……が、今回陛下や王妃様にお見せしているこちらの保冷庫は食用品類を入れるものになっております故、薬品類の保冷庫となる場合には、より温度管理を厳格化させたものになります……うむ、これではまだまだ駄目だな……持ち帰って薬品用の保冷庫も作らないと……」
ヘンリーに尋ねたところ、あまり冷たくしすぎてしまうと瓶の破損などを招いてしまうので、当面は薬品類は瓶に入れて常温保管でもいいようだ。
転生する前に流行していたウイルスに効き目のあるワクチンはかなり冷たい環境下で保管していたのを思い出したので、冷たい環境下で保管したほうがいいと思っていたが、この時代の薬品類は直射日光さえ当たらなければ常温下でも大丈夫だと語ってくれた。
そして、どうやらヘンリーのスイッチが入ったらしく、この保冷庫を持ち帰って薬品用の保冷庫の開発も同時に行うらしい。
将来的には医療用の点滴液などを病院で保管するのにも適するようになるだろうし、化学薬品などの保管庫としても使えるし、何よりも肉類などの保存期間を長くすることも可能になる。
保冷庫が一般に普及すれば生活環境の水準も上がっていくだろう。
俺は彼の研究の成果を評価した上で、引き続き保冷庫の開発を踏まえた実験を行うことを許可したのであった。