334:無力
午後11時30分……。
バスティーユ牢獄から出火が確認されて一日目が終わろうとしている。
未だにパリ市内は燃えており、第二次世界大戦において連合軍総司令部が設置されていたヴァンセンヌ城にまで及んでいる。
報告によれば城の内部にまで煙が充満し、今現在職員や周辺住民は風上の方に避難しているという。
ヴァンセンヌ城は14世紀ごろから要塞として使われていたが、今では狩猟場として王族関係者が使用している場所に過ぎない。
だが、もうすでにヴァンセンヌ城があるヴァンセンヌの森にまで被害が及んでいることもあって、クレテイユまで火災がやってくるのではないかと危惧していたが、どうやら現実のものとなりそうだ。
新トリアノン宮殿の大会議室に押し寄せてくる火災の被害状況は、午前中の時に比べて悲惨な状況を示していた。
「避難の際にセーヌ川に押し寄せた人々が落下して複数の溺死者が出たとのことです。それも一人や二人ではなく、数百人単位で出ており、その多くは下流域にまで流されている模様で遺体の収容が難航しております……」
「今回の大火災によって既にパリ植物園、王立図書館の建物の一部が焼け落ちました……被害は最小限に抑えられましたが、それでも一部の重要な資材や書物が焼失したとのことです」
「今現在判明しているだけで、死者の数は800名を超えております。鎮火作業が済み次第遺体の捜索にあたりますが……犠牲者は数千人規模以上かと……」
「医療器材や人手がまだまだ足りないのが現状です。医療福祉省としてもパリだけではなく近郊の町から物資を調達しております」
閣僚たちも小休憩や仮眠を取りながら作業に当たっている。
今まで危機が迫ったこともあったが、パリが直接大規模な災害に巻き込まれるのはほとんどなかった。
少し前に想定していた災害時の避難計画も、実際に起こった際には問題があって活動に支障を来してしまう。
何ということだろう。
炎の勢いは夜になってから風も弱まっていることもあってか、数日以内には鎮火できるという。
しかし、被害は甚大だ。
わかっているだけで、死者は800人を超えているそうだし、何よりもこれは負傷者の数はまだ集計中のようだ。
避難中に転倒したり、煙を吸い込んで肺を痛めた者も多いという。
恐らく、これは歴史書に記されるぐらいの被害になるだろう。
「負傷者の収容状況はどうなっている?」
「現在、パリ市内の公園や病院、教会などに収容しておりますが、何分負傷者の数が多いので収容人数を大幅に超えております!」
「やむを得ないな……火災を免れた宮殿を臨時開放して避難所として一般開放してもらうのはどうだろうか?無論、機密保持のために機密性の高い部屋は衛兵などを立たせて警備に当たらせるのは……?」
「備品が盗まれるリスクはありますが……非常事態なので大部屋などを開放するのがよろしいかと……しかし、本当によろしいのでしょうか?」
「今の外はここの大会議室よりも冷え込んでいるからな……それなら暖の取れる部屋に一人でも多くの人を入れるのが先決だ。これによって生じた責任は余……ルイ16世が負う。負傷者を宮殿の敷地に入れることを王の命令で許可する!直ちに実行してほしい」
「はっ!すぐに馬を飛ばして勅命をパリ市内の宮殿に伝達いたします!」
伝令などを行う人たちも休憩を入れて働きづめだ。
今日だけでも馬をかなり飛ばしている。
疲れ切ってしまった馬を休ませると同時に、体力のある馬でヴェルサイユとパリを駆け巡る。
勅命を携えた職員と入れ替わるように、現在の被災状況を示した伝令兵が駆け込んできた。
「報告します!ヴァンセンヌの森ですが……大部分が焼けたとのことです!火の勢いは弱まっておりますが、それでもなお延焼中とのことです!」
「報告ご苦労!休憩室でゆっくりと休んでくれ……それにしても思っていたよりも被害範囲が大きいな……国庫から災害時特別給付金を被災した人に一律で出すことはできそうか?」
「それは可能ではありますが……いかんせん、被害が大きいので被災者の正確な統計や住んでいる場所などを確認するのに膨大な時間が掛かってしまいます。すべてを調べるのは難しいかと……」
「被災して泊まる場所がない人達向けに、広場や公園を解放して炊き出しや毛布の支給をしております。被災者への災害時特別給付金の支給もそのころにやっても遅くはないかと……」
現代日本のように、災害が起こった際に学校の体育館や公民館に避難して、自宅が被災した際には火災保険や地震保険等で一時的にしのぐことができるのは難しいだろう……。
一応火災保険はロンドン大火の際にイングランドの保険会社が始めたようなので、この時代でもパリにいくつかの保険会社が火災保険を取り扱っているという。
しかし、火災保険に入れるのは富裕層やマンションなどの集合住宅を経営しているオーナーであって、一般市民の大部分はそうした保険には入っていない。
中には家財道具などを火災で燃えてしまったために、無一文で過ごすことを余儀なくされた人もいるだろう。
気の毒な話だ。
政府としても何とかして彼らを助けてあげたいのだ。
居住地を無くしたものには当面の間、別の空き家や住宅を提供できるように現在パリ市内だけでなく、近隣の市町村に馬を飛ばして空き家がないか調べている。
プレハブ住宅なんてものはないし、仮設住宅も本当に間に合わせの木の板で補強した程度のバラック小屋のようなものでしか調達できない。
「仮設の住宅の建築は……間に合いそうにないか?」
「ええ、建築用木材などをかき集めておりますが……一か月以内に収容できるのは3千人が限界かと……」
「被災状況から鑑みて、少なくとも2万人以上が避難をしていると想定されます。焼失した住宅なども合わせて5万人は被災したと見られます」
燃えた場所は復興しなければならないが、木材と違ってこちらはレンガなどが崩れて瓦礫となっているので撤去作業も時間がかかるだろう。
大火災の被害状況にもよるが、恐らく復興までに最短でも半年はかかるだろう。
もうじきラキ火山の噴火が迫っているというこの時期に限って、ひどい事が起きてしまったものだ。
そして何より、明日はランバル公妃の生まれ故郷、サルデーニャ王国からの来賓が訪れる予定だったのだ。
その来賓というのもサルデーニャ王国上級貴族として名を連ねているサヴォイア=カリニャーノ家であり、ランバル公妃のご実家の当主、第四代カリニャーノ公ルイージ・ヴィットーリオが、サルデーニャ王国の代表者としてフランス王国との経済協定を結ぶためにやってくる。
しかしながら、経済協定に関する交渉はともかく、その後に執り行われる予定であった祝賀会は中止にしなければならないだろう。
このような状況下で吞気に祝賀会をやっている場合ではないからだ。
ランバル公妃は今後のことについて祝賀会の際に父親と話すつもりであったらしい。
その機会を潰してしまうのは少々気が引けるが、せめて代わりに彼女のために時間を作ってあげよう。
「どちらにしても、明日執り行われる予定であった祝賀会は中止にしなければならないな……ランバル公妃には気の毒だが、こんな時期に祝賀会をしていたらバッシングされてしまうからね……」
「では、私の方からランバル公妃に直接祝賀会の中止を説明したほうがよろしいでしょうか?」
「助かるよ……ランバル公妃も父君に会えることを楽しみにしていたからね……軽い挨拶程度なら交わせると思うけど……」
ランバル公妃にとっては申し訳ないが、明日は大火災の対応で経済協定の時間も予定より早く切り上げることになるだろう。
大変な時期だからこそ……ということもあるが、ランバル公妃には普段から世話になっている。
アントワネットの補佐を行ってくれているからね……。
思ったように物事が進まないのは悔しいが、今はとにかく大火災の犠牲者がこれ以上増えないことを祈るしかない。
パリ大火災の対応は真夜中になっても続けた。
ようやく火が小康状態になって火災の鎮火報告を受け取り、最終的にベッドで仮眠を取ったのは日付を跨ぎ、朝日が昇り始めた午前8時15分であった。