299:歯
「ただいまテレーズ様がお戻りになられました」
「おお、テレーズおかえり」
「おかえりなさいテレーズ」
「ただいま戻りました!お父様!お母様!」
やがて、ブリジットから作法を学んできたテレーズが帰ってきた。
今日はえらく機嫌が良かったので、どうしたのかと尋ねると、おやつに好きなクリームブリュレが出たとのこと。
現代でいう所の焼きプリンに近い上に、こっちはもっちりとしていて中々美味い。
もうこの時代には現代と材料の差異こそあれど、似たような食感は味わえるので俺も好きなお菓子の一つとしてお気に入りメニューに加えていたりもする。
「おやつにクリームブリュレが出たんです!すっごく甘いの!」
「おお~それは良かったねぇ~!甘いお菓子はテレーズ大好きだもんね。でも食べ終わったらキチンと歯を磨かないと虫歯になるから後で一緒に歯磨きしようね」
「うん!歯磨きちゃんとやる!」
「アントワネットも一緒にやってみようか!歯磨きにもコツがあるからさ、折角だし俺が教えられる範囲で教えるよ」
「そうですね……では、その際にはよろしくお願いいたします」
実はアントワネットは歯磨きをするのが苦手だったと言われている。
かのテレジア女大公陛下がアントワネットに宛てた手紙にも『ちゃんと寝る前には必ず歯磨きはしなさい』と記入するぐらいに、釘を刺してまで歯磨きをしっかりとやりなさいと書いてあった程だ。
現代のような電動歯ブラシのように自動で歯を隅々まで磨けるようになればそう苦労はしないけどね……。
この時代に虫歯になってしまうとアフターケアを含めて大変なのだ。
「歯が汚れると、歯の合間に溜まっている汚れが内側に入って行ってしまって歯を痛めてしまうんだよ。それも知らず知らずのうちにね……曾祖父(ルイ14世)はそれで虫歯になった挙句、歯を全部引っこ抜いてしまったんだよ」
「歯を全部ですか?!」
「うん、虫歯になっていない歯を含めて全部抜いてしまう。それが当時のフランスでは健康に良いという謎理論に則ってやったみたいだけど、かえって歯が無くなったことで固い食べ物が食べられなくなってしまって健康を損ねてしまったんだよ。まだ入れ歯の技術も殆ど無かった時代だからね……とはいえ、今の入れ歯だと食べ物を食べるのは厳しいから外してから食べる人が多いんだ。頑丈な入れ歯ならまだ大丈夫かもしれないけど、虫歯は本当に恐ろしいから歯磨きは毎日やることが大事なんだよ」
この時代における歯に関する公衆衛生学は、割と進んでいて現代でも遜色ないレベルではあったが、それでも歯は一生モノであると同時に、現代のように歯の定期検診などもないので、虫歯などが酷くなってしまって削って詰め物などをしたり、抜歯するレベルになるまでは基本的に放置するスタイルが主流であったとされている。
ヨーロッパの人達が歯磨きを習慣的にするようになったのは現代の歯ブラシが普及した20世紀になってからと言われているので、それまではあまり歯の掃除はしなかったとさえ言われている。
また、陶器で出来ている入れ歯ならまだしも、動物の骨などを削って入れ歯をしている人もおり、こうした入れ歯は着色がしやすいのと素材が痛んで腐ってしまい悪臭を放つことも多々あったという。
おまけにバネなどが顎に合わないということもあり、入れ歯なのに食事の時は使えないという欠陥を抱えていたのだ。
……この時代の日本の入れ歯は顎の形を型取りしてから作っていたそうなので、多分入れ歯技術に関しては日本の方がリードしているだろう。
あと年配のご婦人方が扇で口元を隠す場面があるが、アレ実は入れ歯の悪臭を隠す為だという説もある。
日本では既にこの時代から現代でも通用するような入れ歯が作られている上に、価格も庶民でも何とか買える値段だったということもあって、広く普及していたそうだ。
詰め物や抜歯技術に関してはそれなりに進んでいるものの、虫歯を予防する為に欠かせない歯ブラシが、まだ一般庶民には大規模に普及していないのが現状だ。
「歯ブラシも庶民層に届く値段で販売できるようにしないとね……それから、ネーデルラントに協力を仰いで入れ歯を作ってくれている技師などもフランスに何とか出向いてもらえないか交渉もする予定だよ」
「歯ブラシの値段って高いのですか?」
「俺達が使っている歯ブラシは柄とかにも金や銀の装飾品が使われているから値段も必然的に高いし、庶民向けの歯ブラシも一本1リーブル相当のものが多いからね……おまけにブラシの毛束が密集し過ぎていて歯磨きした後の通気性が悪いからカビが生えやすいという欠点もあるんだよね。なんとか毛束を減らした物も作ってみて、大量生産できないか考えているところさ……それで歯磨きの習慣が出来るようになれば、入れ歯になる人も減るだろうし……」
「そこまでお考えになられていたのですね……」
「最近は対革命対策で忙しかったからね。革命騒ぎが無ければ多分こうした問題を真っ先に片付けようと思うんだけど、どうしても優先的に片を付けないとね」
現代の歯ブラシと遜色ない代物もあるが、これは王族や富裕層などが使っており、鯨の骨や豚の体毛などを利用して作られた代物だ。
現代みたく誰でも買えるようになるまでにはまだまだ時間が掛かりそうだ。
歯が病気になると歯周病になって最悪脳みそにまで影響を受けると言われているから、歯が健康であることは大事な事でもある。
これは現代でも通用することなのでしっかりとやらないとね。
「テレーズも、歯は大事にしないといけないよ?」
「はって……この歯?」
「そう、キチンと磨いて汚れがない歯であれば食べ物を噛んで味わうことが出来るからね。歯が丈夫であることは健康である証でもあるんだ」
「うーん……じゃあ磨いていれば虫歯にはならないの?」
「あー……そうでもないね。磨き方が不十分だったりすれば磨き残した部分から虫歯になる事もあるんだ。だからキチンとした歯磨きをすることで、そうした歯の病気を防ぐ事が出来るんだ」
「オーギュスト様も歯についてお詳しいのですね!」
「フフフ……それにアントワネットの為に特別な歯ブラシも特注品で作らせてみたんだ……」
「えっ、特別な歯ブラシですか?」
「そうさ、また後で渡しておくね……使い方もその時に教えてあげよう」
本当は今日ではなく明日辺りにプレゼントする予定だったのだが、歯の話題になったので今日のうちに渡しておこう。
アントワネットの為に用意した歯ブラシ……。
それは絹糸を使った歯間ブラシであり、これを歯の間に挟んで汚れを取るというものだ。
勿論のことながら、絹糸もしっかりとしたものを使っており、寝る前に行ったほうが効果的に汚れを防ぐことが出来ることも伝えないといけない。
ちゃんとテレーズも歯磨きをしておかないと虫歯になってしまうかもしれないからね……。
いやはや、大変な時期だからこそ……こういった事もやっておかないと……。
出来るときにやる……貴重な休みだからこそ、そうした日常生活における細かい事をやっておくべきなのかもしれない。
参考文献
「歯の博物館」
ホームページ:https://www.dent-kng.or.jp/museum/ja/
(2021.2.21)




