280:イギリス革命
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1777年1月13日
「今日この場所に、ロンドンを中心として市民を守る為の国民主権による独立した政府機関の樹立を宣言する!」
ダンケルクにイギリス人亡命者と難民が殺到している頃。
イギリス首都ロンドンでは国民平等軍のリーダーとなった元オックスフォード大学法学部学生のチャールズ・ハリソンによるロンドンの完全占領宣言が出された。
議会場には大勢の国民平等軍の兵士や政治顧問らが集まり、声高らかに叫び声をあげて喜んでいる。
まだ25歳という若さでありながら、チャールズは国民平等軍のトップに立つことになった。
史実では平凡な日常生活を送り、妻と子供を授かって平凡ながらも平和で幸せな一生を終えるはずだった。
そんな彼がリーダーになるまでの過程を見ておこう。
でないとイギリスでの新市民政府論がどういった経緯で流行したのか説明がつかないからだ。
まずチャールズは1752年2月2日生まれであり、家はロンドン近郊にあった。
女性の使用人もおり、大貴族や富豪とまではいかないにしても、中流階級として子供の頃から何不自由なく暮らしていけるだけの財力があった。
彼の家は祖父の代から行っている中堅規模の海運貿易会社があり、ハリソン海運貿易会社と名乗っていた。
父親であるガブリエル・ハリソンは、祖父から残されていた財を使ってさらに北米大陸での事業拡大をしている真っ最中であった。
チャールズは法学に詳しく、それでいて秀でた才もあったのでヨーロッパでも名門大学として知られているオックスフォード大学に入学したのだ。
両親からは会社の跡継ぎとして期待されており、優等生として教授や同級生からも頼りになる存在であった。
しかし新大陸事変でイギリスが大敗を喫した事で全てが変わってしまった。
歴史の歯車が変わってしまったことで、彼の人生も大きく変貌させられた。
その結果……良くも悪くも、チャールズの歴史は彼から指導者としての素質を引き出すことになったのである。
まず父親が跡を引き継いでいた新大陸向けの海運貿易会社は、他のイギリス資本の貿易会社と同じく、北米で取引していた紅茶などの嗜好品の積荷が焼かれたり強奪されたりした結果、莫大な損害を被ってしまい保険では賄いきれなくなり1775年5月17日に倒産した。
半世紀近くの間、イギリスの中堅海運貿易会社として信頼と実績を積み重ねて名を連ねていたハリソン海運貿易会社は一か月もしないうちに潰れたのである。
そしてガブリエルの従兄弟で、いつもイギリスに帰って来るたびにお土産や特産品を買ってきてくれた北米支店代表のロバートは北米脱出に失敗し、植民地人による集団虐殺に巻き込まれた。
貿易会社に属していたことから植民地の富を奪った侵略者というレッテルを貼られた末に、現地住民から斧や鎌などで身体のあちこちを切り裂かれて死亡したという凶報が舞い込んできたのだ。
ロバートが運営していた北米支店の資金も民兵組織に吸収されてしまい、ハリソン家の豊かな生活は一変し、奈落へと転落していったのである。
長年培っていた会社が倒産したガブリエルは、従兄弟の死にショックを受けながらも、気力を振り絞って損害として請求された債務を返済するために、会社だけでなく持ち家である屋敷や所有していた東インド会社系列の会社の株式などを全て売り払って何とか全額返済した。
しかし、その代償は大きくガブリエルの精神をすり減らすには十分であったし、全財産で返済し残ったお金で借りれたのは貧民街にあるボロボロのアパートだけであった。
家族であるチャールズも例外ではない。
オックスフォード大学に通える学費を賄うことが出来ずに断腸の思いで1775年6月末に中退してしまう。
同級生や法学部の教授はチャールズが辞めることがないように学費を出し合ったりもしたが、それでも学費が払えない状況に陥ったので止む無く大学を去ったのだ。
この年、チャールズのような経済的理由で中退をする学生は全体の30パーセントにも及んだ。
チャールズのような優秀な学生なら奨学金に教授の推薦もあったのだが、学長が認可しなかったのだ。
『どんなに優秀でも大学に金を払えない以上は無理である。ましてやイギリスは既に財政難だ。いくらチャールズ君が優秀だと言っても例外を許せば他の学生らが反発するだろう。法学部ばかり優先出来るわけじゃない。奨学金制度を使うにしても親が金持ちでないと奨学金が返済できぬ。それだけ優秀であれば中退してもまた新しい職に就くことができるだろう』
チャールズは学長にそう言われたことが悔しかったのだ。
同級生や法学部の教授が抗議を入れたが、結果は変わらなかったのだ。
この時点でチャールズは、ハリソン海運貿易会社の跡継ぎと、法学部出を活かしたスキルで弁護士や法律家になる道を閉ざされたのだ。
金を持たざる者になったチャールズは、同級生と教授に別れを惜しんでから家族を養う為に、下宿を引き払ってロンドンに出向いた。
薄汚い貧困層向けのアパートで親子三人で肉体労働者として港湾の作業員として働いていたが、失業者となった父親は従兄弟と会社を失った現実を受け止めきれずに酒に溺れていく。
とうとうアルコール依存症が引き金となって、1775年8月1日にテムズ川に身投げをして自殺してしまったのだ。
『お前に何一つ父親らしい事を残してやれなくてすまなかった』
残されていた遺書にはそう書かれており、さらにそれから9日後の8月10日にはガブリエルの死で精神不安と化した母親もガブリエルの後を追うように飛び降り自殺を図り、その時の怪我が原因で翌11日に死亡してしまったのだ。
両親から愛されていたチャールズの心を徹底的に痛めるには十分過ぎる程の仕打ちであった。
(なぜだ……なぜ俺はこんなひどい目に遭わないといけないんだ……オックスフォード大学で法律学を学んでも……神様に毎日お祈りしていても無駄だったのか……俺の人生は……)
国教会の教会で毎週日曜日には必ずミサに行っていたチャールズだったが、母親が死んだ日を境に教会に行かなくなった。
教会でお祈りをしても死んだ両親が帰ってくることはない。
代わりにチャールズが興味を抱いたのが新市民政府論であった。
戦争に負けて経済不況に嘆くイギリス社会で蔓延し始めた革命主義……。
労働者が集う酒場で政府への不満から新市民政府論を語っていた一人の男に話して、一冊譲ってもらって読みだした事がチャールズの最大の転換期でもあった。
チャールズは新市民政府論の本を読み始めた途端に、政府や貴族、そして王に対する怒りで満たされることになったのだ。
「そうだ……。この本にも書かれている通りだ……!俺がこんなにひどい目に遭っているにもかかわらず、今まで税金を払っていたのに政府や貴族、そして王は俺を見捨てたんだ!だから俺にだってここまでむざむざと負けた政府に反旗を翻す自由があるはずだ……それに、この本には国民が立ち上がって市民による政府組織を構築する様が書かれているけど、政権を握れば大規模な法改正行為もできるじゃないか!俺と同じような考えを持っている人達を集めて行動しないと……!」
チャールズは大学を中退したとはいえ、法律に関しては熟知していた。
大学で使っていた教科書を大切に残していたチャールズは、法律を学んでいた者として新市民政府論の欠点である違法性を法解釈次第で合法化できるように調整を行った。
それからはチャールズの行動力が目覚ましく発揮されていく。
オックスフォード大学時代から付き合いのあった元同級生や、啓蒙活動をしているサロンなどを渡り歩いて新市民政府論の合法化と、新大陸動乱での政府や国王への責任追及を行うべく草の根運動を行ったのだ。
新市民政府論を街角などで配り、分かりやすいように画家に頼んでもらって文字が読めない人の為にイラストを付けて紹介したりもしたのだ。
そうした活動によってロンドンを中心に新市民政府論が急速に浸透していき、気がつけば新市民政府論を支持する者達によって酒場が埋め尽くされるぐらいに、人々がこの思想に共感を抱いたのだ。
「そうだ!俺は無能な王よりも優秀な民が上に立てば政治が良くなると信じているのだ!税は上がり、結果的に我が国はどうなった?衰退したではないか!今の政治家と王族に出来ることは自分達の生活を維持していくことだけであり、国民の事など気にも留めていないのだ!その証拠に王の弟君は不倫や隠し子騒動が絶えない。つまりは俺達の事を気にも留めていない証拠でもあるのだ!」
やがて、チャールズの主張は人々から支持をされていくうちに過激になりはじめていく。
最初は政府批判だけであったが、やがてはタブーとされている王族批判、それだけでなく政府の政策が無策であり愚の骨頂であるというセンセーショナルに人々を扇動するものに変わっていったのだ。
法律を熟知していたチャールズは、法に違反しないスレスレの過激な主張を繰り返すようになり、それが彼の拠点としていた貧民街の酒場を通じてロンドンや地方都市に伝播していったのだ。
支持者が集まってくると同時に規制や警察の取締も厳しくなってくる。
1776年7月頃には法律の抜け道だけでは切り抜けないと判断したチャールズは、イギリス各所にいる現体制に不満を持っている学者や地獄の新大陸動乱から帰還してきた兵士達や高級将官たちを取り入れて味方に付けたのだ。
その中には北アメリカ連合州軍との戦闘で捕虜となり、イギリス帰還後に軍法会議において問責決議が可決されて軍人だけでなく政治家としてのキャリアを絶たれたジョン・バーゴイン元陸軍中将の姿もあった。
ジョン・バーゴイン元中将の指揮の下で戦闘要員への訓練と、長期的な軍事戦略、集団武装蜂起に関する計画が練られて、チャールズが民衆を味方にするために扇動役を買って出たのだ。
二人が計画していた絶妙なタイミングで、ノース男爵の内閣が総辞職しジョージ3世が精神的な問題で国王不予となったことで社会情勢が不安定化した好機を逃すはずもなかった。
かくしてイギリスで大規模な新市民政府論を主体とする革命運動が勃発したのだ。
そして、その運動によって今やロンドンはユニオンジャックではなく、国民平等軍の旗が靡いているのだ。
1777年1月13日……ロンドン国民平等政府(別名:ロンドン革命政府)が樹立され、急速に勢力を拡大していく。
その余波はヨーロッパ全体に激震を持って伝えられたのであった。




