272:逃避行
お陰様で2000万PV突破したので初投稿です
……。
酒場で盛り上がる不穏で血生臭い話題。
独立戦争でイギリスが敗北して以来、良いニュースは殆ど流れていない。
強いて良いニュースがあるとすれば大麦が豊作だった事ぐらいである。
暗い雰囲気のままカウンターの片隅で酒を飲んでいるのは、大物スパイのデオンだ。
今日は彼……いや、彼女は至ってシラフであった。
(最近では彼らも隠さなくなったものね……以前での会食では、隠語や比喩表現を使って新市民政府論を語っていたのに……それだけ国王や警察、軍隊への求心力も低下している証拠ね……)
国土管理局並びに国王から直々にロンドンの状況を探るように命じられ、その中でも過激な王政廃止を唱える新市民政府論を高らかに叫んでいる連中を監視しているのだ。
彼らの首謀者ないし幹部の人間について調べているのだ。
近年では新市民政府論を公の場で述べることは法律違反であり、政府転覆の恐れがあるとしてイギリスでは御法度として扱っていた。
しかし……。
「新市民政府論を政府が封じるのは、これが正しいが故に禁書にしようとするのだ!脅威ではなく、自分達が無能ゆえに対策すら出来ぬ事への焦りが生じている証拠でもあるのだ!」
「経済は低迷し、政治も混迷……おまけに国外だけでなく地域外への外出禁止令まで法令として定められたこのご時世……俺達に希望なんてものはもうこれしか残されていないんだよ!」
「切り開くべきなんだ!この国を!真っ向から変えてみないといけないんだ!」
新大陸事変に負けた後、イギリス国内では未曾有の経済的不況と政治不安によって新市民政府論が支持されはじめる。
最初はロンドンの大学生達が、やがて大学生の家族や友人、それから人から人へ話が伝播していく。
今の政治はダメだから我々が新しい政府をつくろう!
王ではない、国民から選ばれた指導者の誕生を切に願う!
そんな夢物語とも言えるような理想とする国家体制を掲げて叫んでいる彼らは、王党派や貴族から『負け犬の遠吠え』とあしらわれており、国王陛下への悪口を延々と垂れ流すことに業を煮やした者が乱入して演説の最中に襲撃されることもよくあったのである。
「ぐはっ!いてぇっ!」
「おいっ、こいつヘルマンを刺しやがったぞ!捕まえろ!」
「くそっ!また貴族の差し金か!」
「医者を、医者を呼んでくれっ!」
店では先程まで元気よく新市民政府論を謳っていた学生の一人が背後から近づいてきた男に背中をナイフで刺されて倒れてしまったのだ。
すぐに男は走り去っていき、後を追いかけるように学生達が数名男の行方を追う。
倒れた学生は必死に痛みを訴えながらのたうち回る。
そうこうしていると今度は剣や槍を持ってきた学生達が現れ始めたりするなど、かなり騒がしくなってきたのだ。
(長居は無用ね……またここも警察がやってきて流血沙汰になりそう……任務じゃなかったら酒を嗜んでいる所だけど……ここで事務所まで戻って退避計画がどれだけ進んでいるか進捗状況を確認しないといけないわね)
デオンはグラスの傍に酒代とチップを置いて店を後にする。
任務でなければ酒を一杯嗜んでいたところだろう。
スコットランドで盛んに生産されているスコッチ・ウイスキーを一杯引っかけるだけでも身体がポカポカと温まるものだ。
このスコッチ・ウイスキーとニシンやチーズを炙って食べると酒が進んでしまうのだ。
だが、そんな嗜みをしている場合ではない。
酒場ですら国王の悪口を言ったり、政府への批判を平然と行えるほどに状況は悪化の一途を辿っているのだ。
以前であれば警察や憲兵隊がやってきて懲罰を与える所だが、もはや騒乱が日常的になりつつあるので警察官の数も憲兵隊の数も不足気味になりだしたのだ。
おまけに市民側が身近な道具などを武器にして新市民政府論が邪魔されずに論ぜられる場を設けるようになってきているので、仮に内戦状態になればこうした市民達も兵士代わりに戦えることになる。
今後の事にも考慮して一週間以内には在英フランス人の退避行動を行えるように調整を進めないといけないのだ。
調整は国土管理局の支部で行われている。
国土管理局イギリス支部はクロムウェル・ロードにある在英フランス領事館内に設けられており、支部を拠点にロンドン各所に六ヶ所の拠点を設けていた。
領事館に戻ったデオンは部下にいよいよ大きく事件が動き出すのはそう遠くない時期におこると予測し、拠点や在英フランス人との連絡を密にするように指示を出す。
「いよいよ状況は切迫しつつある。このままでは遅くても年末までに大規模な暴動が起こるのは間違いない。陛下から手紙と報告書への返答はまだこないのか?」
「はっ、まだ来ておりません」
「そうか……いいか、いざとなればこの領事館に亡命者を受け入れられるように準備をしなければならない。船は国が手配してくれると思うが、それでも想定以上の人数が殺到する事態を覚悟しなければならないぞ」
「先程バラムにて新市民政府論を掲げた学生団体と警察隊との衝突で学生側に大勢の負傷者が出たという情報が入って来ております。その20分前にはアールズフィールドの警察署で放火事件が起こり、囚われていた政治犯が解放されたと……」
「……いよいよもって、この国はダメかもしれないな……」
デオンはイギリスに長い事滞在している。
イギリス政府との関わりもあり、そのパイプラインは実に太い。
しかし、ここ数か月はイギリス議会の混乱と経済不況によって関わりも次第に悲壮感溢れるものになっていた。
当初はインド方面で挽回をする予定だったのが、国王が精神的な病を患ってしまい指揮が困難になったことで庶民院だけでなく、もう一方の議会院である貴族院も敗戦処理やジョージ3世の後釜を決めるべき次期国王に対して意見が派閥や党派によりバラバラになったことが混乱に拍車を掛ける結果となった。
【国王不予となれば弟君が摂政を務めれば良かったのだが……もう、議会が賛成と反対、そして議論の棄権をしているようではもはや埒すらあかない。イギリスが新大陸から完膚なきまでに叩きのめされて追い出されたことが、我が国にとって最大の不幸であり、屈辱であった……そして政治が空回りしている今ほど己が無力であると改めて痛烈に感じているのだよ。首相すら決まらない有様を見ているとな……】
デオンに情報を提供し、イギリスが内戦状態になった際にフランスへの亡命を希望している庶民院所属のとある議員は嘆くようにそう打ち明けたのだ。
ノース男爵は新大陸での責任を取って内閣総辞職を行い、次期首相の座を巡っても派閥闘争や与党、野党が入り乱れて場外乱闘を繰り広げる程に悪化している。
一時は混乱を収束させるために野党ホイッグ党から二代目ロッキンガム侯のチャールズ・ワトソンが臨時首相に選ばれるのではないかと思われたが、戦争が始まった際に兵士の増援部隊派兵の要請を棄却するように働きかけたことが指摘されたのだ。
与党を引きずりおろすために北米連合国に有利な政治的混乱を意図的に発生させたのではないかと与野党から批難され、議会では反対多数で首相になる事を否決された。
この報が伝わった後、ロッキンガム侯の邸宅に保守派の暴徒が押し寄せて家に火が放たれたのだ。
警備を担当していた者も、暴徒に殺されるぐらいなら売国を働いた者への懲罰は問題ないとする認識だったこともあり、止めることはせずにむしろ門を開放したほどだ。
このような事態が生じる事になったのである。
「……避難計画の進捗状況はどうかしら?進んでいる?」
「はい、まずウェールズ方面にいる在英フランス人に関しては全員に意志の確認を行い、脱出の際には優先的に保護する事を確認致しました。グラスゴーやリバプールも脱出か残留の意思表示を示した人達から脱出を行うとの事です」
「大変よろしい。残りはロンドンを含めたイングランドね……」
イギリスが描かれた地図に画びょうを刺して避難の事前準備などを完了している箇所ごとに分けている。
ウェールズ方面は事前準備を済ませている人は多いが、イングランドには騒動が過ぎ去るのを待っている人のほうが多いようだ。
イングランドでの呼びかけはまだまだ不十分であり、呼びかけをしていない率は30パーセント程残っているのだ。
これからが正念場だ。
デオンは職員を労った上で無理をしないように指示を出す。
「大変だけど、今は休めるときにしっかりと休んでおきなさい。これからがもっと忙しくなるわよ。それからあなた達も今の内に破棄する書類があれば暖炉の中に放り込んで燃やしておきなさい。いずれこの領事館を引き払っていく時がくるかもしれないわ……本国には直ちにプランGBを発動するように進言して頂戴、このままではもう時間はないわ。ロンドンの領事館を引き払って王族関係者が避難する可能性が高いバーミンガムへの移動を一週間以内に完了させて頂戴」
「……はっ!」
「それじゃあ何かあったら起こして。私は少し部屋のソファーで仮眠をするわ」
デオンは自室のソファーで横になる。
今後のイギリス情勢を鑑みて脱出も時間の問題だろう。
その後で、これからイギリスがどうなってしまうのか、そして周辺国との関係がどうなるのか……といった問題を自分自身に投げかけつつ、デオンはゆっくりと目を閉じてソファーの上で眠りについたのであった。