271:倫敦動乱
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1776年11月20日
イギリス ロンドン
普段は酔っ払いたちのたまり場と化している酒場……。
ウイスキーにビール……あとは美味しい焼きチーズやソーセージ、塩辛いスープさえあれば男たちが何時間にも渡って話の肴と合わせてゆっくりと各自が思っている事を話し合う場所だ。
だが、今日の酒場はそんな和やかに酒盛り達が集う憩いの場ではない。
「なんという堕落!なんという不甲斐なさ!政治的、外交的失敗によってイングランドの誇り高き戦士が数万と殺されたのだぞ!それなのに……大陸から追い出された挙句、奴らは領邦軍の連中と手を組んで裏切ったのだからなんと腹立たしい事か!」
「それだけではない!国王陛下は倒れてしまい、次期国王が決まらぬ……それぞれの弟君も女癖が悪くて、一人は庶民の娘と秘密結婚をして、もう一人も王族とは別の女性との間に子供を密かに授かったという噂を聞くぞ……あまり良い印象がない二人を巡って王位の座を議会が争っているとはな……」
「それまで仲はまずまずだったのが、今回の一件で致命的に関係も悪化していると新聞は報じているではないか。庶民院は機能不全、おまけに経済状況は戦争に負けたことでより一層悪化しているじゃないか!債務者も倍増しているし、このままでは我が国は破産だ!」
「債務監獄を襲撃しても結局はお偉いさん方は庶民の事なんて考えてくれちゃいないんだよ……全く、嫌になるぜ……こんなクソッたれな状況になったのも、みーんな政府のせいだ……」
「こんな状況でも喜んでいるのはあの博打野郎だけだよ……全く、賭けに勝った金持ってフランスに高跳びしやがった!」
今、ここの酒場では社会に不平不満を持っている人々が集まって政府上層部への不満を大声で口にしていた。
2年前、ここの酒場では新大陸での戦争でどっちが勝つかで賭けをする余裕があった。
その中で植民地政府が勝つと見込んで財産の半分を賭けた男がいた。
当初は勝率が35対1というとんでもない倍率だったために、酒場にいた皆が「とんだ大馬鹿野郎」だと爆笑していた。
だが、その戦争でイギリスが負けて植民地政府が圧勝してしまったので、財産の半分を賭けた男には莫大な金が集まった。
財産の半分……10ポンドを賭けた男は350ポンドという大金を手にした。
私立大学の学費が1年で1ポンドの時代だった故に、現代の紙幣価値にして約4億円相当の金を手にしたのだ。
これだけあれば中堅貴族と同じ生活が出来るという金を得た男だったが、周囲から嫉妬や殺意に溢れる目線に疲れ果てたのか、全財産を持って逃げるようにフランスに高跳びしたのだ。
「フランスはルイ14世以来の経済発展を遂げていると聞くが……あの国に移住できるなら今にでもしたいわ……」
「だけど、この間国外だけでなく地域外への移動を禁じる移動制限措置法案が即日成立された訳だろ?移動も出来ないんじゃどうしようもないだろ?」
「……今朝、隣の家に住むアンダーセンさんの一家が措置法違反容疑で警察にしょっ引かれていったぞ。息子さんをフランスに密航で行かせようと捕まったらしい……。警察は持っていた金だけじゃなくて身ぐるみ剥いだ状態で牢屋にぶち込んだそうだぞ」
「ヒデェ話だ……なんだって俺達が戦争を推進させた貴族や王の尻拭いをしなければならないんだ!」
「全くその通りだ!経済の疲弊も元々は戦争に負けたことが原因だ!俺達庶民なんて使い捨てが出来る消耗品としか考えていないのだよ!」
男がフランスに高跳びしてから程なく、11月17日にイングランド全土で国外だけでなく地域外への外出禁止令が発令された。
その理由としては経済的疲弊による社会不安と新市民政府論思想に感化された者達による暴動と動乱が首都ロンドンだけでなく地方都市にも拡大していたのが原因である。
バーミンガムにマンチェスター、リヴァプールといったイギリスでも主要な都市にも騒ぎが拡大し、政府関連施設に対しての抗議運動だけではなく、放火や略奪といった過激な行動すら見受けられるようになっている。
まるで国内が内戦状態一歩手前まで追い詰められている状態だ。
「これじゃあ、俺達が俺達の国を壊しているようなもんさ……政府のお偉いさんは地位や名誉を守る為に議会を進ませないし、金持ち連中はみんな海外に高跳びか……残った俺達がそのツケを払わされているってわけだ」
「リヴァプールじゃ、市庁舎が放火で全焼したそうだ……おまけに駆けつけた憲兵隊に大勢の市民が撃ち殺されたみたいだし、もうすぐロンドンも新大陸事変みたいに火の海になるだろうよ……」
「あの戦いは特に酷かったみたいだな……何でも兵隊以外に降伏するとリンチされて殺されるんだろ?一般人に投降した兵士には同情するよ……」
「……俺の従兄弟はニューヨークで奴らに殺されたよ。」
新大陸の独立戦争、イギリスでは現在新大陸事変という名称で呼ばれている。
北米連合ではイギリスからの独立を目指して起こしたので独立戦争、イギリスでは植民地政府の反乱という位置付けであり、懲罰目的での紛争という位置付けであった。
内戦という風に書いてしまうと国内外からの示しがつかないという事もあり、あえて事変という表現で誤魔化していたのだ。
だが、現地にいた民間人や派兵された兵士達までは誤魔化すことはできなかった。
彼らが見たのは紛争や武力衝突という生易しいものではない。
植民地人と罵っていた人達が斧や鎌などを振り回してイギリス兵を追いかけ回した。
ボストン暴動事件以来、緊張状態が続いていた中での独立派による武装民兵組織による蜂起に合わせて、植民地人は積極的にイギリス人狩りを行った。
「従兄弟のジョージは……あの植民地人共に舌を抜かれた挙句、殺されて便所に投げ捨てられた……!なんだってそこまで残忍な事をするんだ!」
「……俺の兄も……あいつらに殺されたよ。馬に引きずり回された挙句、鎌や鍬で何度も刺されたり殴られたりしてボロ雑巾のように死んでいたそうだ……」
「新大陸で不動産屋を営んでいたワトソンさんの息子夫婦も、子供諸共建物を焼かれたらしい。奴らに必死に命乞いをして助命された生存者の女性が裁判所でそう証言していたそうだ」
北米大陸での惨敗……派兵された大勢のイギリス軍将兵が反英感情に駆られた植民地人によって一方的に蹂躙され、その代償は民間人にも多大な犠牲を出した。
必死に命乞いをして助命された民間人の大部分はイギリス海軍の護衛の元で、着の身着のままの状態で母国であるイギリスに帰ってきた。
そこでイギリス国民は初めて北米大陸で何があったのかを知る事になったのだ。
「……で、そんな大変な状況だったのに、政治家や国王は身動き一つせずに指くわえてボーっとしていたというわけか……国民が汗水垂らして必死に稼いだ税金使って呑気に戦争なんかするからだ」
「もっと兵士を動員して徹底的にやればここまで酷い結果にならずに済んだ!この事変……いや戦争は我が国の上層部の判断が誤った結果だ!」
「そうだ!そうだ!俺達の声なんて彼らには聞く耳すら持ち合わせていないんだよ!こんなに酷い状況で増税決定するとかアホなのかよ!」
イギリスが有していた北米大陸の植民地は全て北米連合によって武力制圧されたのだ。
もし、もっと早くに和平なり講和条約などを締結できていれば東海岸の一部地域だけでも保持することが出来ていただろう。
しかし、首相のノース男爵や国王ジョージ3世がそれをよしとはしなかった。
すでに新大陸には莫大な投資を行っており、イギリスの植民地であり東インド会社の数倍以上の利益を生み出す新大陸の土地を無駄にはしたくなかった。
ボストン暴動事件の際に現場指揮官などから兵士の増援要請などもあったが、現地の軍隊を総動員して戒厳令を敷けば、すぐに騒乱も治まると見込んでいたこともあり早期の大規模派兵を行わなかったのが運の尽きだった。
現地の植民地人によって土地は荒らされ、おまけにイギリス憎しの感情が爆発してイギリス人狩りまでされた結果、新大陸に移住していた銀行家や企業家の25パーセント近くが現地住民によって裁判なしに処刑されたり、逃避行中に命を落としていったのだ。
もはやイギリスが軍事的・経済的巻き返しを起こすにはインドといった弱小国への恫喝や植民地を推し進めて損失分を回収するしかない。
この時既にイギリスの威信は大きく落ちてしまっていたのだ。
だが、イギリス国内ではそんな事よりも手っ取り早く現政権が起こした負債を解消するべく、瞳に光が当たらない者達が蠢き、酒場や集会場で積極的に語り始めている。
ここ数か月でそうした者達に賛同したり仲間になったりするイギリス人が増えてきている。
すでにイギリスでは発禁処分となっている本を手に取って高らかに叫んでいた。
「今こそ我々一般市民が堕落した腐敗政治を正す為に立ち上がる時なのだ!新大陸での重い経験を活かそうともせずに権力闘争に明け暮れる議会など不要だ!新市民政府論に則り、市民を守り安心して暮らしていける新しい政府を作り上げよう!」
「我々に国王など不要だ!新大陸を取り戻し、社会に安心と活力を取り戻してくれる強力な指導者の元に集うべきなのだ!」
「そうだそうだ!」
「俺達がこの国を変えてやるんだ!」
彼らは新市民政府論を崇めているロンドンの大学生たちであり、ロンドンや地方都市の活版印刷所を買い取って新市民政府論のコピー本を刷って国中に配布しているのだ。
大学生達には新市民政府論を読んで感化される者が多く、そのほとんどで現政治体制での政治的混乱への不満と怒りが大きかった。
そして、彼らが刷っている新市民政府論本は完全なコピー本ではなく、彼らが望んでいる社会構造を実現するためにより過激な文章も付け加えられた加筆版だ。
そして皮肉にも、フランス革命時に旧体制打破という名目で市民から賛同を得ていた革命勢力の主張と瓜二つであった。
混迷のロンドン、やがて掲げられるのは血染めのユニオンフラッグ。
やがて在英フランス人に下されるのはイギリスからの退避命令。
新しい動乱の時代の幕が上がる。