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1775年7月19日
パリ・シャンゼリゼ通り
宝石店や香水店などが連ねているパリ有数の繁華街。
一昔前であれば貴族やブルジョワジーなどお金に余裕のある富裕層が中心となって集まる街であった。
普通の平民がやってくることは滅多になかった。
だが、今ではシャンゼリゼ通りの街並みは大きく変わりつつあった。
「アルプスで採れた炭酸水を使ったレモネードを販売中です!新鮮で美味しい炭酸のレモネードで暑さを吹き飛ばそう!」
「食材を一から作るのは面倒ですよね。そこで、当社は国営企業から買い取った瓶を使って保存食を販売致します!オリジナルブランドの保存食ですが、勿論当局の審査に合格したお墨付き品です!」
「地中海貿易を通じて入ってきたオスマン産のオリーブはいかがでしょうか!隠し味にも合いますし、高級料理店でも使用されているものですよ!」
以前はこの場所は食品とはほぼ無縁の場所だったのだが、改革によって食への意識が大きく変わってきたこともあって食品を取り扱う店が大幅に増えたのだ。
以前から店を構えているカフェも多く存在するが、以前はファッションや宝石、劇場を中心とした観たり着飾る文化の中心部であったのが、如何に美味しく人々の舌を奪うかを競う食の街になりつつあるのだ。
勿論、シャンゼリゼ通りであまり騒ぎ過ぎないようにと飲食を提供する店は営業時間や、販売エリアなどを取り決めで制約しているが、それでも食を求めて裕福になった平民や、家族の誕生日に訪れる者が増えて結果的にシャンゼリゼ通りは以前よりも多くの賑わいを見せているのであった。
そんなシャンゼリゼ通りにある建物の一室。
蝋燭の灯りに吸い寄せられるように、一匹の蛾が入り込んだ。
自然の灯りだと思ったのだろうか、蛾はフラフラと飛びながら蝋燭に飛び込むと、そのまま火だるまになって絶命する。
その様子をテーブルで見ているのはポリニャック伯爵夫人であった。
ポリニャック伯爵夫人は白いローブを、彼女の向かい側に座っているもう一人の女性は黒いロココ様式の服を着ている。
椅子に座ってくつろいでいる二人は、互いに顔を見合わせながら会話を始めた。
「欲を出し過ぎるといつか自滅する……そう教えたのに、あの人はまるっきりダメでしたね」
「ええ、淫欲だけでなくお金にも目が眩むような人でしたから……処刑は当然の判断ですわ」
「私もアレ以上の付き合いはしたくありませんでしたから……早いとこ手を切って正解でしたわね」
「そうですね……陛下はあの事件以来さらに監視の目を厳しくしているみたいですから……」
「とにかく、もうあの人はこの世にはいない……それだけで十分ですわね」
あの人とはロアン枢機卿の事である。
文字通りロアン枢機卿は様々な取り調べの末に、1775年6月18日正午に公開処刑された。
処刑された際の罪状は『武器・兵器不正輸出』『未成年者暴行』『不正資金流用』など重罪に相当する罪を挙げられて、ロアン枢機卿もこれらの罪を認めた為に死刑となったのだ。
また、ロアン枢機卿に有利な判決を出そうと目論んでいた高等裁判官3名がいたが、3人とも次々と自殺死を遂げた。
ロアン枢機卿との関係や、中立派による資金活動を暴露されない為にも死ななければならないのだ。
ロアン枢機卿は欲が深かった為にゲームに負けた。
そのゲームを引き延ばそうとする高等裁判官はポリニャック伯爵夫人らにとって脅威であったのだ。
中立派は今現在はファッションや芸術のパトロンなどを通じて資金調達を行っているが、2年前までは密造武器などを第三国経由で売りさばいていたのだ。
武器を売りに出そうとしたのはポリニャック伯爵夫人の案ではなく、宗教的なコネクションを強く持っていたロアン枢機卿のアイディアでもあった。
しかし、浪費家で女癖が悪いロアン枢機卿は実行したくても、武器の調達を行える人員が不足していたのだ。
そこで手を貸したのがポリニャック伯爵夫人である。
ポリニャック伯爵夫人はロアン枢機卿と接触した際に、伯爵夫人である事を告げずに「クロエ」という女性を演じてスポンサーを請け負ったのだ。
その際に馴れ馴れしく興奮した様子でロアン枢機卿が必要以上にスキンシップをしてきたので、思わず鳥肌が立ってしまい暫くの間寝込んでしまう。
以後、ロアン枢機卿に伺う際には別の者を派遣するようになり、武器密造に必要な人員を彼の元に派遣したのであった。
「新大陸にポーランド……いえ、クラクフだったわね。作れば作るほど、倍以上の値段で飛ぶ鳥を落とす勢いで売れていくのは驚いたわ。株や投資よりも手っ取り早くお金を回収出来る上に利益が見込めたもの。あのまま有頂天になっていたら私の身も危うかったですわ……」
「ええ、憲兵隊に目を付けられていたにも関わらず、今まで以上に大胆になっていくロアン枢機卿との関係を切って大正解でしたね……」
「大聖堂に武器を保管しておくなんて……あれは愚の骨頂よ……もっとスマートに、そして隠してやるべきなのに……本当にあの人はダメな人だったわ……」
同じキリスト教圏で反乱や戦争状態の国であれば武器の密売は当初の予想よりも大きく売上を伸ばしていた。
それに比例するように、ロアン枢機卿の行動も大胆になりはじめた。
愛人の為に家を何軒も建設し、教会への寄付も莫大な金額になっていく。
そしてついには愛人を囲って酒を飲みながら淫行に走るという酒池肉林を謳歌し始めた。
流石に行動が派手すぎると二度ほどポリニャック伯爵夫人は仲介人を通じて注意をしたものの、すっかり大物気分であったロアン枢機卿は聞く耳を持たなかった。
さらに国王に復讐を誓っていた高等裁判官達もロアン枢機卿に協力して、ルイ16世を陥れる為にボストン暴動事件の際に大量の武器を新大陸に送り付けていたのだ。
ポリニャック伯爵夫人はこの頃から直感的にロアン枢機卿が近いうちにやらかすと思い、彼との関係に距離を置いた。
そして距離を置いてから2カ月しないうちに、案の定中立派に属してイギリスに派遣されていたブルジョワジーから英仏共同捜査が始まったという連絡を受けて、ポリニャック伯爵夫人が陣頭指揮を取って自分達が関わっていた証拠を全て抹消した。
証拠となる本や書類は多く、フランス国内だけではなく海外にも拠点を持っていたポリニャック伯爵夫人は証拠の処分を徹底的に行った。
ロンドンやアムステルダムのサロンに隠していた表には出せない帳簿などは破棄し、口の軽そうな関係者に関しても馬車や橋から転落して事故死したり、急性アルコール中毒や心臓発作による病死が相次いだ。
フランス・ネーデルラント・イギリスの三カ国で、裏稼業に首を深く突っ込んでいた中流貴族やブルジョワジーの平民19名が死を遂げたが、これによって中立派の証拠を抹消する事が出来た。
一連の裏稼業によって中立派が手にした資産は莫大であり、少なくとも今後数年間は不自由なく大規模投資事業などに参入できる程であった。
「今までは裏で活動をしておりましたけど、これ以上は身を滅ぼしかねませんからね……私は中立派を纏めてその長に堅実に務めるのが無難ね」
「それがよろしいかと存じます。陛下もロアン枢機卿繋がりで中立派に近い人物の捜査も行っているという情報もありますから……」
「そうね、これからは裏での活動は当面凍結して真っ当な事業への投資案件を進める事に専念するわ……ところで、貴女もそろそろ決心がつきましたか?」
「ええ、ポリニャック伯爵夫人のためにも私は今日をもって中立派から離脱して、新大陸方面に赴きます。北アメリカ連合とのコネクション確立の為に、予め引き抜いてきた技術者と共に3週間後を目途に活動をする予定です」
「ありがとうリーゼロッテ、貴女の任された使命は重大ですよ。成功した暁には貴女の地位もそれ相応のものを用意しますわ。では、私は貴女の辞意を受け取ると同時に裏稼業全てを【黒薔薇】の頭領としてリーゼロッテ、貴女に全て任せます」
「感謝の極みですポリニャック伯爵夫人」
ポリニャック伯爵夫人はリーゼロッテと呼ばれたこの女性に全てを任せたのであった。
リーゼロッテはフランス南西部に位置するトゥールーズの商人の家系に生まれ、ポリニャック伯爵夫人よりも3歳年上であった。
ポリニャック伯爵夫人が嫁いで来たときに、偶然サロンで行われた東洋の物品販売会で知り合った事をきっかけに交流を行い、その際に彼女の持っていた知略と処世術、そして経営戦略を借りてリーゼロッテはポリニャック伯爵夫人に重宝される経歴を持っていた。
リーゼロッテから金の扱い方を覚えたポリニャック伯爵夫人は、金を浪費するのではなくより莫大なお金を活用する事に邁進する事になる。
結果、ポリニャック伯爵夫人はリーゼロッテから教え込まれた経営術を受け継ぐことが出来たのだ。
これは幼い頃に貴族出身でありながら債務返済に追われて贅沢な暮らし方が出来なかった事への反動でもあった。
あのような思いをしたくない、そんな一心でポリニャック伯爵夫人は夫とのベッドで夜戦をしているときも、頭の中に浮かんでいたのはお金儲けの知恵と策略を考えていたのであった。
「思えば嫁いできた時に貴女に出会って良かったと思うわ。もし貴女と出会っていなかったらきっともっと表立って悪いことをしていたかもしれないのだから……貴女から教えてもらった運用方法は守っていくわ」
「いえ、私の知恵がポリニャック伯爵夫人の為にお役に立てるのであれば何よりです。後任のエリーゼも学のある子ですからポリニャック伯爵夫人のお手を煩わせることはありません。それに、色んな物まで買ってもらった私としても全力を尽くしますわ」
「ありがとう、でも無理をしてはダメよ?伝手を使って毎月手紙を書きなさい。黒薔薇としての任務は反乱軍への技術供与と商売の為ですからね?」
「ええ、肝に銘じております」
黒薔薇……。
それはポリニャック伯爵夫人が作り上げた裏稼業を行う組織である。
主にインサイダー取引や法的にグレーゾーンの金融融資などを行う経済マフィアだ。
手籠めにした大学教授や金融業の人間を中心に、パリの中でも見栄を張りたい貴族などを中心に表には出せない違法な商売をしているのだ。
その頭領であったポリニャック伯爵夫人は、正式に国内での活動を休止する代わりに拠点を新大陸に移し、その事業をリーゼロッテに預ける決意をしたのだ。
「それじゃあ、今日は貴女が無事に新大陸での旅路と商売を遂げる事を祈って……乾杯といきましょう。リーゼロッテ、グラスを出しなさい。私がワインを注いであげますわ」
「はい……では、有難く頂きます」
「フフフ、貴女ならやれるわ……それじゃあ乾杯……」
グラスに注がれた赤ワイン、まるで今まで彼女達が吸い上げてきた人間の生き血のようにも見える。
赤ワインは熟成しており、それをゆっくりと口に付けて飲み始める。
二人はにこやかに微笑みながら飲んだのであった。




