186:夢
手を握っていると、アントワネットの体温を感じ取っている。
だるさを抑えながらも彼女は頑張っているんだ。
俺もできる限り、彼女の傍にいて落ち着かせてあげたいんだ。
俺はひたすらにベッドでアントワネットの傍に座ってじっとしていた。
それはもう、動かない鳥として有名なハシビロコウのように、アントワネットの寝顔を見ながら、時が流れるのを待っていた。
ふと、遠くで誰かが俺の事を呼んでいる。
意識を戻すと、すぐ横に心配そうに見ているランバル公妃とルイーズ・マリー夫人の姿があった。
「……陛下、陛下!」
ランバル公妃が俺の事を呼んでいたらしい。
何という事だ。
ランバル公妃の声がほとんど聞こえなかったぞ……意識をアントワネットの方に集中しすぎていたせいだ。
いかんなこれは……申し訳ないとランバル公妃とルイーズ・マリー夫人に詫びを入れる。
「ん?あぁ……ランバル公妃とルイーズ・マリー夫人か……すまない、声を掛けてくれていたのに気がつかなくて……」
「いいえ陛下、陛下が王妃様の事を想い見守って下さっているのは本当に嬉しく思います。ですが少々お疲れではありませんか?王妃様でしたら私達がお傍にいますから、陛下も少しお休みになられて下さい。あまり無理をし過ぎると王妃様も心配なさいますから……」
「ああ……分かったよ……俺は少し大トリアノン宮殿で仮眠をしてから執務室の方で仕事をしてくる……もし何かあったら直ぐに呼びに来て欲しい……」
「かしこまりました。陛下……どうか、どうか無理だけはしないでください……」
「私からも……何卒、お体ご自愛下さい……」
「ありがとう。ランバル公妃……ルイーズ・マリー夫人……それじゃあアントワネットをよろしく頼む」
二人がアントワネットの様子を見てくれると言ってくれた。
ご厚意を無下にするわけにもいかないからね。
アントワネットの事を二人に任せて、俺は仮眠をしに
女性同士のほうがアントワネットも話しやすい話題もあるかもしれない。
ファッションとか噂話とか、そういった話題というのは女性同士で話をしたほうがスッキリするはずだ。
今日はアントワネットの事が気になり過ぎてほとんど寝れていない。
午前3時まで起きていて……午前3時から6時の間に寝て以来ずっとアントワネットの介抱をしていた。
彼女の辛そうな表情は見ているこっちが辛くなるぐらいだ。
「はぁ……なんとかならないものかなぁ……お薬は処方してもらったし……今はとにかく悪阻が治まるのを待つしかないな……」
大トリアノン宮殿に到着し、早速仮眠室を利用することにした。
前世……と言っていいのかわからないが、俺が働いていた会社では仮眠室というものがあったんだ。
喫煙厳禁、酒の持ち込みは禁止だったが泊まり込みで仕事をする場合にはよくお世話になったものだ。
繁忙期には翌日までに仕上げないといけない書類が午前2時を回っても仕事が終わらず、泣く泣くスマホに充電器を差し込んで、毎日ログインしていたスマホゲームをちょっとだけ遊んでから仮眠をしていたものだ。
朝起きたらそこは会社だった……そして仮眠を通り越して爆睡したために上司に大目玉食らわされた事もあったなぁ……大泣きしながら書類は提出期限10分前に完成させたけど、あの仕事だけは二度とやりたくねぇ……。
で、深夜残業手当も付いたんだけど……割と深夜残業手当というのはあまり金にはならない。
通常勤務に+300円とかほんのささやかな金しか付加されないのだ。
夜勤勤務者のほうがもっと貰えるからね。
まぁそんな事もあったなと少々苦笑いをしながら、仮眠室に到着する。
この大トリアノン宮殿には仮眠室は5つあるが、そのうち3つが個室だ。
これらの仮眠室を使用できるのは俺やハウザーなど王族や国土管理局の上層部のみであり、セキュリティー上の関係で個室で仮眠をするように言われているんだ。
残り2つの仮眠室は職員専用の仮眠室であり、職員のほうは二段ベッドが二つ用意されている。
仮眠室とはいえ、寝る際には防犯上の理由で高級品や重要書類の持ち込みは禁止されている。
紛失したり盗難されるリスクがあるからね、だから仮眠室の前で待機している守衛に貴重品を預けてから仮眠室に入る。
「貴重品、確かにこちらでお預かり致しました」
「……少し仮眠をするから午後5時30分になったら起こしてくれ……もし、緊急の用事があればすぐに私を起こして伝えるように」
「ハッ、かしこまりました」
守衛が頭を下げてドアを開けてくれた。
新造したこの仮眠室にあるのはベッドが1つ、天井に吊るされているシャンデリアが照明として機能するのだが、基本的に仮眠室なので蝋燭は数本程度に抑えられている。
あまり明るくし過ぎても寝れないからね。
サービス課の人が毎日シーツの交換をしにやってきてくれる。
毎日シーツの交換をしてくれているので、爽やかな香りがシーツに染みついている。
ミント系の香水だと思うが、ひんやりとした空気が漂っていて……心がほわーんと落ち着いてくるのだ。
「ふぅ~……すこし寝るか……っと、まずは靴を脱ごうか……」
この仮眠室では土足を厳禁にしている。
入り口で靴を脱いでから部屋に入るようにしている。
表向きの理由としては部屋の中を汚さないようにするためとしているが、実際のところは日本のような靴を脱ぐ風習をせめてこの部屋だけでも再現したかったからだ。
アントワネットが生まれ育ったオーストリアでは、土足のまま室内を歩き回るのはルール違反とされているので、必ず部屋履き用の靴に変えるんだよね。
つまるところ、フランスでは土足文化上等な状態なのでどんなに泥が付いていようが室内まで入って行く事が良しとされている。
なので、土足で部屋中を歩き回らないように、仮眠室の入り口には土足の靴入れを置いているし、正方形の大きめのタイルを張って、そのタイルの内側で靴を脱いでから部屋に入るようにしているというわけだ。
わりとオーストリアって日本みたいに、入浴や外履きの靴を脱ぐ風習があるのでこういった所では効果は抜群というわけだ。
何の効果が抜群なのか、自分でもよくわからないがね。
「はぁー……」
ため息と共に俺はベッドに横になる。
ベッドの中に引きずり込まれるように、身体が沈んでいく。
身体中の神経が海の中に引きずり込まれていくみたいだ。
やはりランバル公妃やルイーズ・マリー夫人が言っていたように、俺は相当疲れているみたいだ。
愛しのアントワネットがあれだけ辛そうにしていれば、俺だって辛くなる。
どうしようか、こうしようかとアレコレ悩めば悩むほど、余計に眠気が遠ざかっていくんだ。
(いかん、それではいかんな……一先ず前向きに考えなきゃ……前向きに……)
少なくともアントワネットは悪阻以外に悪いところは見つかっていない。
ガンだったり誤嚥性肺炎とかそういった厄介な病気ではないという事だ。
つまり悪阻さえ軽減すればどうにかなる。
その障壁を乗り越えて元気な赤ん坊を産む……彼女はもう大人だ……出会ったときのような少女の面影を残しているが、もう身体は女性だ。
体力も鶏肉や野菜をしっかりと食べているから骨も大丈夫だろう。
あとはアントワネットの体力次第だ。
(きっとアントワネットは大丈夫だ、さぁ……一旦休もう……)
目を閉じて、俺は仮眠を行う。
何も考えずに……ただ仮眠を貪る事だけに集中しよう。
国土管理局の局員が通路を歩く音や並木の枝が風に揺れる音、鳥のさえずり……。
全ての音が小さく縮小されていく。
段々と聞こえなくなり、最後に暗闇の中に一人ポツンと佇んでいる。
……。
意識が段々と、無くなっていく。
夢と現実の狭間だ。
だが、次第に辺りは明るくなっていく。
目を開けると、そこは砂浜だった。
これは夢の景色……何処かの砂浜の上に俺は立っていた。
空き缶やビニール袋などのゴミが一切落ちていない綺麗な砂浜……。
この時代にはないビジネススーツ……それも礼服を俺は着ていた。
明らかに砂浜に持ちこむ服装ではないと野暮なツッコミを期待したが、誰もツッコミを入れてくれない。夢の中なのにね。
波打つ海面を見てみると、海面に反射して映っているのは転生する前の時の顔であった。
そう、日本人のブラック企業に務めていた社畜時代の頃の俺だった……。
「うぉっ!かなり懐かしく感じるねぇ!転生前の姿をこうしてまじまじと見ることが出来るなんて……さすが夢の中だわ……」
懐かしさすら感じる俺の身体。
あの頃は大変だったけど、それでもパソコンなどの文明の利器をフル活用していたからなぁ……。
夢の中だからと砂浜で砂を弄っていると、真横でポンという音が聞こえてきた。
振り返ると、俺のアパートの自室で使っていたゲーミングパソコンが机ごと現れてきた。
砂から浮かび上がったのか、ゲーミングパソコンの上に思いっきり砂が降りかかっている。
アカン、熱を逃がす排気口から砂がパソコン本体に入って壊れるわ!
「おいおいおい!こんなやり方をしたらダメだろ……」
咄嗟にパソコンの上に被ってしまった砂を払おうとした途端に、ゲーミングパソコンはガラガラと音を立てて一瞬にして砂に変化して崩れてしまう。
崩れたパソコンは元には戻りそうにない。
これも夢の中だからこそ起こる現象なのかな?
しかし、パソコンのモニターだけはブルースクリーンがひとりでに動いている。
やっぱりパソコン壊れているじゃないか……。
だが、ピピピッ……とモニターから音が鳴ると、場面が切り替わる。
モニターに映っているのは、黒塗りの皿に盛られたチーズケーキだ。
「なんだこれ?チーズケーキか?」
チーズケーキは北アメリカ大陸のような形をしている。
そのチーズケーキから赤い斑点のようなものが噴き出してくる。
噴き出しているのは東海岸……ちょうどボストン辺りだろうか?
斑点は血のようなドロドロとした流体状のモノに変化し、ケーキの断面をみるみるうちに赤色に染めていく。
やがて、チーズケーキを裂くように無数のイチゴがケーキの上に突き刺さり、そのイチゴにフォークが刺されるシーンで夢は終わってしまうのであった。