146:オーストリア製のお菓子はいかが?
本日4月1日より、毎日投稿を再開いたします。
臨時の会議を終えたのは、午後8時を過ぎた後だった。
この時期になると暑い日でも夕方になると涼しくなる。
現代のようにムシムシするような熱帯夜というものに無縁だった時代、8月後半となれば窓を開けて涼んでいればそれだけで天然のクーラーが完成だ。
通り抜けていく風。
排気ガスとは無縁の空。
ヴェルサイユ宮殿周辺に生えている木々の生い茂った香りが鼻の中に入ってくる。
「……夕暮れ時の風は涼しくていいなぁ~」
ヴェルサイユ宮殿周辺で指定されたトイレ以外での排泄行為を禁止にした事もあって、ヴェルサイユ宮殿周辺には糞尿の臭いが立ち込めるような事はなくなった。
ほんと、転生してからしばらくはこの糞尿の臭いに悩まされたものだ。
ハーブを焚いて部屋中を臭いを消していたりと、香水がどうしてフランスで普及したのか身をもって体感したわけよ。
逆説的にいえば、トイレをこれまでちゃんと敷設しなかったルイ15世も悪いという事にもなる。
ヴェルサイユ宮殿にはトイレがいくつかあるが、それの大半は大貴族・王族専用の立派なトイレだ……。
宮殿には3000人以上の使用人が働いていたわけだから……そうした人達がおまるに貯めた糞尿を草むらに放棄しまくった結果、悪臭が漂う原因にもなったわけだ。
トイレを沢山ヴェルサイユ宮殿に増設したことによって、そうした野外でブツを捨てる行為も無くなった。
いや~ほんと、生活環境が良くなればそれだけ影響も大きいという訳だ。
地味に俺が転生した中で目に見える形で一番良くなった部分だと感じている。
自画自賛しているわけじゃないからね。
「さてと……まずはアントワネットの為にお菓子を用意しなくてはな……急にドタキャンになったから大丈夫だと言っていたが……きっと内心では悲しんでいるだろう」
そんでもって、今日はイベントが中止になってしまった事を踏まえた上でアントワネットの為にオーストリアのお菓子を用意しようと考えている。
緊急を要するものだったとはいえ、アントワネットと約束していたイベントだ。
王という立場上は致し方無いが、妻となったアントワネットにフォローの一つや二つを行うのが夫としての責務だろう。
そうだとも……女性の心は傷付きやすいんだ。
これで俺が何のフォローもなしに帰ってはアントワネットは自分の事を見てくれていないんじゃないかと不信感を抱いてしまうかもしれない。
緊急の会議で閣僚を招集させる時に、アントワネットは私のことは大丈夫ですと言っていたが……それでも前々から楽しみにしていた企画がおじゃんになってしまったんだ。
何と言っても、この親睦会を企画したのがアントワネットなんだよ。
特に紅茶をいろんな人と飲みながら談話の場を設けるという意味合い……王族は国民に身近な存在ですよと国民に理解してもらう場としてつかうのはどうかと言われたんだ。
『今は庶民の方々も紅茶を飲む機会が増えておりますので、身分の違いなど関係なくお茶会を開いて交流の場を設けるのはいかがでしょうか?もちろん、企画書も作りましたのよ?』
最初アントワネットがここまで企画を発案したことに驚いたものだが、それでも豪勢な食事を庶民に見せつけるような伝統行事よりは遥かに理解されやすいという理由で2か月前から着々と準備をしているのを俺はずっと見守っていた。
ランバル公妃とかルイーズ・マリー夫人の手伝いもあって盛大なお茶会が開催されようと俺も楽しみにしていたんだ。
それが今回、この様な突発的な事態によって中止になってしまった。
アントワネットにとって記念すべき王妃として初の企画案件だったわけよ。
だから相当落ち込んでいるかもしれないんだ。
(不信感を相手に与えるのは対人関係でも一番やってはいけない行為だからな。ちゃんとアントワネットをフォローした上でお菓子とか持って行って彼女に謝ろう)
本人は緊急時だから仕方ないと言ってはいたが、それでも彼女の初めて立ち上げた企画が無しになってしまったんだ。
少なからずショックを受けているだろう。
史実でアントワネットが夜遊びをしていたのにも、ルイ16世の内向的な性格が要因として挙げられている。
錠前作りがプロ級レベルにまで極めていたものの、対人関係……特に女性との関係が苦手だったとされているルイ16世は2歳年下の結婚相手であるアントワネットの好きなようにやらされていたと言われているし、食事の時も団欒の会話なども少なかったと通説では言われている。
……と、現代における妻の行動にとやかく言うような性格ではなく、むしろ女性がやりたいように好きな事をやらせてあげたって感じかな。
女性陣なら夫として見れば理想的な男性だろうし、現にアントワネットも子供を産んでから夜遊びを控えるようになったようなので、夫婦の仲は険悪ではなかったことは確かだ。
で、今はどうなっているかといえば……あれだ、もしSNSや掲示板があればすぐ様「リア充爆発しろ」というコメントで溢れるような感じなんだよね。
俺もアントワネットの性格や優しさを受け入れた上で、どのように行動するべきなのか一歩ではなく二歩先を考えるようになった。
去年過労でぶっ倒れた時とかはアントワネットが涙を浮かべて叱ってくれたんだ。
無理をし過ぎですから休んでくださいって。
あれは心に響いたね。
女性が涙を流しながら訴えるのって凄く男として心に刺さってしまう。
それ以来心に誓っているんだ。
……アントワネットを悲しませる行為だけは絶対にしないってね。
前世から引きずっていたブラック企業並のワークを禁止して、労働時間を取り決めるようにしてからは身体の調子も良くなった。
だから今度は俺がアントワネットを支える番だと思っている。
「ちゃんとフォローすることも大事だが……何よりそうした会話に持ちこむためにはお菓子の力が必要だ」
断じて甘い物で女性を釣ろうというわけじゃない。
これには心理学的な意味合いが含まれている。
社会人になった際に、取引先とのトラブルで高級百貨店で取り扱っている菓子折りをもって謝罪をしに行ったことがあるが、わりとそうした詫びる気持ちがあるという誠意を相手側に示すことが重要なんだ。
それと、少しでもお菓子でストレスを緩和できればいいかなと思っている。
アントワネットは周囲の助けを借りながらも、自分の意志で身分の隔たりなく楽しめる交流の場を設けるために準備をしてきた。
ランバル公妃やルイーズ・マリー夫人などが中心になってヴェルサイユ宮殿にやってきた参加者に事情を説明して、遠方からやって来た人には旅費や宿泊代などを補填して後日改めて招待状を発送するように手筈を付けてくれたようで、アントワネットも王妃としてできる範囲で会場の片付けなどをしてくれたようで、出される予定だったお茶やお菓子などは破棄すると勿体無い事もあってか、宮殿内で働いている使用人達に配ったようだ。
「……アントワネットにどんなお菓子を渡すべきかな?熱いお菓子はダメだよね……料理長に依頼したお菓子が出来上がっている頃合いだからな。オーストリアで有名なお菓子をお任せしたけど、宮殿で受け取ることにしよう」
オーストリアで有名なお菓子を作ってほしいと、会議の休憩の合間に料理長へ伝言を頼んでいたので、そろそろ出来上がっていても良い頃合いだと思う。
どんな料理が出来上がっているのか楽しみしながら宮殿の調理室をのぞき込むと、料理長が出来上がったばかりの焼きたてのお菓子の飾り付けを行っている真っ最中であった。
邪魔をするのも悪いので、10分ほど周囲で時間を潰してから再度、調理室をのぞき込むとデザートが完成していた。
そのデザートの形は21世紀の日本のパン屋でも多く見ることがあるものだった。
「陛下、ご注文を承りました品が完成致しました。キプフェルンでございます」
「これがキプフェルン……オーストリアのお菓子だね?」
「はい、王妃様がフランスに入国した際にお渡しになられたお菓子です。オーストリアやプロイセンでは有名なお菓子だそうです」
キプフェルン……見た目はまさにクロワッサンだ。
というか、クロワッサンの元になったお菓子でもある。
プロイセン王国辺りではキッフェルンとも呼ばれているそうだ。
このキプフェルンが誕生した経緯を話すとかなり時間を食ってしまうので、簡約して説明するとウィーン近郊まで攻め込んだオスマン帝国の国旗をイメージして作られたのだそうだ。
クロワッサンの形が三日月であり、オスマン帝国は三日月をモチーフにした国旗を採用しているので、その国旗を焼くイメージで作り上げたものだそうだ。
詳しい誕生経緯は諸説挙げられているが、どうもオスマン帝国を撃退したからこれが縁起がいいという事で、オーストリアやプロイセンでよく作られているという。
クロワッサンの誕生経緯が物騒すぎるが、これでもオーストリアでは代表ともいえるお菓子なのだそうだ。
キプフェルンの表面にはメープルシロップを掛けて、さらにクルミなどを砕いてまぶしたものを添えている。
ミントもささやかながら付けているじゃないか。
甘い香りが漂ってくるぞ。
パン屋の店頭に鎮座しているクロワッサンも好きだが、この時代……過剰な添加物を加えられていない天然物のシロップでコーティングされたキプフェルンも好きだ。
「すまないね料理長、残業させてしまって……今日は本当にすまない」
「陛下!陛下が謝ることはございません!これも仕事ですから……それに、食材が無駄にならないように使用人の方々に配って機転を実行してくださった王妃様、そして私のような庶民出身の者でも常に気を掛けて下さる陛下のお心遣いに感謝しております。私にできる事であれば何でも申してください」
「ありがとう……では、俺がこのキプフェルンを持っていっても構わないかね?俺が直接アントワネットに渡したいんだ……料理長、今日はもう十分働いただろう。ゆっくり休みなさい」
「かしこまりました……では、陛下のお言葉に甘えて本日はここを掃除してから失礼いたします……」
「ああ、ありがとう……」
料理長は一礼してからキッチンの掃除に取り掛かる。
お菓子作りを担っている彼は、親睦会で出される予定だった大量のお菓子を今日の為に用意していたんだ。
結果的にはお菓子は使用人たちに配られたが、食材が無駄にならなかった事を感謝していた。
彼もまたアントワネットの事を気を遣っているのだろう。
この甘くて美味しいスイーツを持って部屋に帰ろう。
アントワネットが俺の帰りを待っているんだ。
キプフェルンを落とさないように、俺は慎重に運びながら部屋まで持ち運ぶのであった。