133:微小動物
「おお、サンソン!よく来たね、ささっ、そちらの席に座って座って!」
「これは陛下!大変恐縮です……では、お言葉に甘えて……」
サンソン兄貴がやって来たので、俺は早速紅茶をティーカップに注いで渡した。
こうした二人っきりの会談の場ではリラックスしてほしいからね。
注ぎ方もそれなりに練習を重ねてお上品な淹れ方をマスターしたんだぜ。
王室の一員……とうか今現在フランス王国を担うトップだし、礼儀作法というのは物凄く大事だ。
とはいえ、サンソン兄貴には度々世話になっているので、彼の前ではフランクな感じで接することが出来る貴重な人物だ。
英国式の作法でフランス産の紅茶を淹れるあたり、俺はさぞ無礼者かもしれないが、美味しければ俺は基本的に良しとするズボラな性格だ。
というか、元々紅茶はフランスで飲まれるようになって、それがイギリス側に伝わると何時しか英国式の作法で飲む紅茶というのが西欧各国でマナー化しちゃったのは知られていないんだよねぇ。
これ豆知識な(恐らく今後この豆知識は披露しても受けないと思うので、これに関しては言及しない)。
「よし、出来た!おまたせ、ホットティーしかないけどいいかな?」
「はい、陛下が汲んで下さる紅茶はいつ飲んでも美味ですので有難く頂戴致します」
サンソン兄貴は一礼してから俺が紅茶に口を付けるまで決して飲まない。
目上の人が飲むまでは絶対に口を付けない、そんな紳士的なサンソン兄貴が暖かい紅茶を直ぐに飲めるようにと、俺は紅茶にサラサラとした砂糖をサーッ!と滑らせて、うまい具合に溶かして飲み始める。
それと同時にサンソン兄貴も紅茶をゆっくりと飲んでいる。
やはりフランス産の紅茶はイギリス産よりも風味があって美味しいなぁ。
アントワネットと一緒に飲む紅茶もフランス産のものを使用しているぜ。
「最近は暖かくなってきたからねぇ……こうして紅茶を飲みながら会談するのが一番リラックスできるよ」
「同感です。確かに紅茶を飲むと身体が温まります。私も息子や父親と一緒に紅茶を飲むのを日課にしております」
「おお、それは何より。紅茶をよく飲んでいる人は風邪を引きにくいそうだしね。私も最近は毎日紅茶を飲んでいるよ。朝と寝る前に一杯の紅茶……これが健康の秘訣さ!」
紅茶の話題から話をスタートさせる。
話の掴みだしはまずまずといった所だな。
紅茶は身体が温まるからいいよね。
実際に紅茶にはポリフェノールやカテキンといった抗酸化・抗炎症作用のある物質が沢山含まれているので風邪を引きにくいし、心臓病で命を落とすリスクを減らしてくれると言われている。
それに紅茶を飲み始めてからだいぶ眠りが良くなっているような気がするからね。
毎日水筒一杯分……500ml入りのペットボトル1本分の紅茶を飲んでいるからかもしれない。
ただ砂糖の入れすぎは高血圧や虫歯、糖尿病の元になってしまうので紅茶を飲む際には小さじ一杯分だけの砂糖のみ入れて、残りの紅茶を飲む時はノンシュガーだぜ。
さて、ここで話の本題に切りこんでいこう。
「健康といえば……サンソンに依頼している医療の研究はどんな感じだい?」
「ハッ、現在改革派の科学者9名と我々に協力してくれているパリ市内の医師6名の合計15人と共に去年の7月から実施している人体に害成す微小動物の研究は進んでおります。以前陛下がおっしゃっていた感染症というものが微小動物によって引き起こされて我々の生命が左右されているのかもしれません……」
微小動物……これは17世紀にアントニ・ファン・レーウェンフックというオランダの科学者が顕微鏡を使って細菌を発見した際にそう呼んだことに由来している。
19世紀半ばぐらいまでは細菌の事を微小動物と呼んでいたんだよね。
細菌のことを動物と呼ぶのはこれ如何にという感じになってしまうかもしれないが、既に顕微鏡が発明されているので、こうした細菌類を発見して観察することも可能になっているんだ。
俺はサンソン兄貴の医師としての腕を見込んで、去年の7月に微小動物による人体への影響について調査を依頼しているんだ。
まぁ、細菌による影響がどのくらいあるのかという調査でもある。
最初サンソン兄貴にこの事を伝えた際には、自分は科学者ではないので……細菌の事については分かりませんと述べていたので、当時はまだ科学的に知られていなかった細菌による人体への有効性・有害性の調査を医学的観点から調べて欲しいと依頼したんだ。
「陛下、本当に私がその微小動物についての研究を指揮するのですか?私はあまり……」
「サンソン、この微小動物が医学において重要な役割を担うかもしれないよ。もしかしたら病気の患者の中に、この微小動物が潜んでいるかもしれない。現時点ではまだ仮説だけど……もしその事が事実だとすれば……科学だけでなく医学と医療の基礎を変える出来事になる。その重大な役割を君が指揮をして欲しいんだ。改革派の科学者のチームの代表者と共に医療学的観点から微小動物の調査を頼む」
「……分かりました。陛下がそこまで仰るのでしたら全身全霊で取り組んで参ります」
こうしてサンソン兄貴は俺の命令を受けて微小動物に関する調査を粛々と行っていたというわけだ。
医者としての傍らで微小動物の調査を頼むのもどうかと思うかもしれないが、改革派で最も信頼できる医師がサンソン兄貴だったのよね。
勿論休みの日はしっかりと休んでもらい、死刑執行のオフの日……休診日に微小動物を研究している科学者を探したんだが……ウキウキしていた俺に残念なお知らせが一つ報告された。
なんとこの時代、微小動物……つまり細菌に関する科学者は全くと言っていいほどいなかったんだよ!
細菌だけじゃなくて微生物学全体で殆ど1世紀前の基準でストップしている状態だ。
つまりフランスどころかこの時代最先端の技術を有していた欧州でさえ、微生物学に詳しい専門家が誰一人としていないというわけ。
そんなバカなと思い、HOBFをやりつくした俺は科学者一覧の項目を脳内で必死に検索サーチを掛けてもヒットしなかったし、科学者に聞いても殆ど「微小動物?ああ、あまり科学アカデミーなどでは重要視されていないので誰も研究していませんよ」という衝撃的な回答を得られました。
まぁ、ウイルスも存在そのものが判明したのも20世紀初頭ぐらいだしね。
微生物学は近世じゃなくて近代……それも1830年以降に発展を遂げた分野であり、人間にとってまだまだ未知の多い学問でもある。
ショックを受けたと同時に、これは大きなチャンスだと思った。
何故なら、こうした微生物学を誰も取り組んでいないという事は、最初にフランスで微生物学を研究すれば、今後の微生物学の基礎研究が全てフランス発祥のものになるじゃんという結論に至ったわけだ。
史実ではプロイセン王国の研究者によって微生物学の研究を進めて現代に至るまで世界をリードする事になったが、この世界ではフランスがリードしてやるぜ!
そういった意気込みを込めて、サンソン兄貴に依頼した微小動物への研究は現在順調に進んでいるようだ。
サンソン兄貴は現在行われている実験も兼ねた研究について、口頭で説明をしてくれた。
「以前陛下が仰っておりました微小動物が人体に与える影響ですが……私が想定していたよりも大きいものになっております。熱湯に付けたタオルや器材を使って事前に熱湯で沸かしてから冷ました水で手を拭いた者と、そうでない場合との術後の感染症の再発リスクは大いに違っておりました」
「ほう、やはり微小動物が関わっている可能性が出てきた……というわけか?」
「はい、そうとしか思えません。私も科学者たちと共に医学的視点から何度も検証をしましたが……ここまで効果があるとは思いませんでした……」
サンソン兄貴に依頼した実験……それは、熱殺菌処理を済ませたタオルや器材を使用して手術をした場合と、従来通りの何も処置をしていない状態で手術を行った後の経過観察をしてもらったのだ。
ただの罪なき一般人にはそうした実験はしていない。
この実験で参加したのは、囚人たちだ。
術後に感染症などで死亡するリスクを考慮した上で、手術が行われてから3年間は医療の保障を無料で受けれるようにするという条件付きで承諾した鞭打ち刑などの拷問刑に処された囚人278名を使っての実験だ。
「囚人で熱処理を行ったタオルや器材での治療では術後の感染症発症率は、熱処理をしなかった従来通りの方法よりも圧倒的に低くなりました……それぞれ50名ずつ行いましたが、熱処理を行ったタオルで行った手術後の感染症発症者は6名だったのに対して、従来通りでの手術で感染症を発症した者は19名でした。食事・生活行動が同じで多少の体質の事を考慮しても……これは圧倒的に違います」
サンソン兄貴は神妙な顔をしながら報告をしてくれた。
現代でこんなことをやれば恐らく非難が殺到するかもしれないが、この時代の倫理的には椀飯振舞な待遇でもあった。
基本的に拷問関連の刑を受けて、傷口などからばい菌が入って死亡する囚人の率は多かった。
なんせサンソン兄貴のように死刑執行を行う人がいる一方で、拷問刑があるので拷問執行人という職業の人も存在していた。
鞭で表面の皮膚が剥がれて血塗れになっても叩いたり、四肢の関節をぽきぽき脱臼させて30分ぐらい耐えないと無罪にしてもらえなかったりと、女王様からお仕置きされるのが好きなマゾな人が見ても流石に血の気が引くような光景だ。
鞭打ちとか普通にグロいぞ。
因みに拷問執行人は割と連続して人を痛めつけるとPTSDを発症しやすいらしく、一年間で拷問刑を行うのは20日から30日間程らしい。
そうした拷問刑を行った後で、ショック症状や刑執行後に死ぬ人が多かったことを受けて、サンソン兄貴もそうした刑を執行した後で治療していたりもするんだよね。
無料で治療を受けられるという条件に拷問刑に処される囚人たちは挙って参加を表明したのも、刑が施行された後の後遺症を診て貰える事に賛同的だった。
つまり術後の経過観察をしたい医師たちと、刑後の医療診察や治療をしてもらえる受刑者のお互いの利害が一致してWIN-WINというわけでもあったのだ。
サンソン兄貴は術後にこれ程までに感染症を患うリスクに差が出た事で、大いに驚いたという。
まだ残りの囚人の結果を集計してからでないと完全な結果は出ないが、ここまで思っていた以上に結果が出ている。
それを考慮した上で、神妙深そうにサンソン兄貴は医師としての観点からこの微小動物に関する事を述べた。
「陛下の仰っていた病気の中に微小動物がいるという仮説はどうやら正しいようです……本当に私としても目から鱗でした」