1040:密偵(中)
フランスの国土管理局の職員であるジェシーは、調査のために【ニューヨーク第3工場群】の視察に訪れている最中に監査部による調査に巻き込まれてしまったのだ。
労働者としてその状況と実態を調査していたのだが、工場群ではそれぞれ役割があり、いずれも多くの場所において新造艦とされている蒸気船の部品を製造していることを突き止めて、それをニューヨークのアジトである交易会社に持っていく事は容易な事ではなかった。
(参ったわね……今日は交易会社の代表として訪れていたんだけど……持ってきた資料を見られたら査問される可能性があるわ……どうにかしてここから逃げ出さないと……)
ジェシーは焦りながらも、脱出を優先して監査部からの追跡を逃れるために行動を開始していた。
持参していた資料などは証拠が残らないように焼却炉の中に入れてから油を撒いて燃やし、必要な書類などは下着の中に隠し、自身は無関係な第三者を装うために工作行為をしていたのである。
この工作行為もまた、諜報員としての活動を経て取得したものである。
ジェシーは身に着けていた服や資料などを破棄した上で、別の第三者に成りすまして行動をすることになった。そうでもしないと監査部の尋問に遭った場合、高い確率でダミー企業のアジトがバレてしまうからだ。
(資料はこれで燃やしておいて……服も労働者が身に着ける服にして、この工場勤務ではない別の企業の制服に着替えなきゃ……ここでは服だって規定された物以外を身に着けているだけで態度が悪いと見なされて処罰の対象になってしまうわ……)
厳格な身分制度を徹底し、三等市民や二等市民といった市民階級を構築し、社会において一等市民が諸外国における貴族や聖職者の役割を担わせているだけに、この厳格な制度はこれまでの植民地時代や北米連合時代よりも権威主義体制が強まっている証拠でもあった。
故に、ジェシーは権威主義体制下における監査部の権力がそれ相応のものであることを知っているために、彼女は徹底して監査部に目を付けられないように工作をするのである。
工作行為はこれだけに終わらない。
輸送業務を行う人物であるという事を証明するために、万が一の時に偽の身分証明書なども用意してそれに見合った服装や仕草をしなければならない。
監査部の人間に見つからずに工場群から去らなければならない状況において、彼女は過去一番に緊張していたのだ。
偽装証明書を作った上で、工場群の商品搬入口として使われている場所から抜けだしたのだ。
搬入口には輸送用に使っている馬車が置かれており、この工場群で生産されている商品の積み荷が沢山入っていたのである。
ただし、既に不良品を多く搬入している事を監査部から指摘されている状況であり、この状況において不良品の製品を沢山持っていくのは怪しい。
そこで、積み荷が空になっている馬車を見つけて、原材料を届けにきた輸送員として成りすますことにしたのだ。
偽装した報告書を急いで作り、外部の工場の勤務者であることを装うことにしたのである。
「すみません!次に向かう所があるので、ここで失礼してもよろしいでしょうか?」
「外部の者か?」
「はい、輸送員のジェネットと申します。次に向かう工場への時間が差し迫っております」
「報告書はあるか?」
「はい、こちらにございます」
「……うむ、通っていいぞ」
搬入口にはすでに監査部の者がいたが、輸送員である証明書と次の仕事場に向かう必要がある旨を説明すると、監査部の者は一通り目を通した上でジェシーを通してくれたのである。
一番奥で待機していた馬車を使い、ジェシーは監査部の目からすり抜けるように工場群を後にした。
(危ない所だったわね……)
偽装した報告書には次に向かう工場の情報などがきめ細かく記載されていたが、それらは全てジェシーが覚えていたこの工場での作業日程でのスケジュール管理に書かれていた日程などを通じて納品される品々などを記載した物を時間区切りで記載したものである。
故に、監査官もジェシーが輸送員であるという認識で素通りさせてしまったのだ。
この企業国家だけに実績を作らなければならない。
国土管理局のスパイ機関として、彼らは実際にパリ大学において経済学部を次席で卒業した人物や、技術技師としての腕の立つ人間の中でも信念と誇りを持っている人物をスカウトし、経済関係においてまだまだ参入が容易であった分野に浸透したのだ。
これらの住民はヌーベルフランス出身としての偽りの戸籍を与えられ、この地域における公務員に協力者を作った関係で戸籍情報を作成することが容易でもあったのだ。
ジェシーは国内向けの輸送業務を担う企業の役員として、偶々居合わせてしまっていたのだが、この時には既に国土管理局のフロント企業やダミー企業は複数存在しており、公文書の中でもニューヨークだけで7社が存在していたことが明確に記録されているのだ。
その中でも、特に収入があったのは蒸気機関関連の企業であった。
蒸気機関のリバースエンジニアリングであったり、当時まだ国交のあったプロイセン王国などから輸入された蒸気機関などを販売・修理する分野での参入を行い、これが見事大成功を納めたのである。
この頃には、北米複合産業共同体は欧州協定機構からは取引禁止を通達されていたため、外交関係は中南米地域にある植民地政府程度しかなかったのだ。
一部ではアフリカまで遠路はるばる人身売買関係の交易のために渡航を行っていた企業も存在していたが、表向きには奴隷制度が廃止となったため、この企業は後に別の企業に編入されている。
人身売買や阿片などの商売が出来なくなった影響により、低コストで莫大な利益を叩きだす蒸気機関を手に入れようとする企業は東海岸で溢れており、既に輸入できなくなったフランス製やプロイセン製の蒸気機関を手に入れるために大枚を叩いて購入する企業が続出していたのである。
新規参入で躍進した企業故に、目を付けられているのも事実だ。
表向きは新規参入の新興企業であり、ニューヨークにおいて蒸気機関関連の部門において上位5番目に入る程の収益を叩きだしていたのである。
これにより、ニューヨークの中でもとりわけ経済状況としての役割が集約されている『首都工業地域建設部』との交流を持ち、ダミー企業とはいえ会社経営の実態も行っているため、実際にスパイ行為をしていると言っても利益を出して収益も税収として納めているので、北米複合産業共同体からは税収入確保の面から見逃されていた面もある。
自由に出資者として第3工場群の責任者と面談を行い、必要な部品や製造関係の書類を入手してから、これらの製造で使われる大型機械の導入に必要な蒸気機関などの組立や輸送などを交易会社側で行っていたのである。つまり、ジェシーもたった今囚人の身分に落とされて強制労働の刑に処された元責任者との関わりを指摘された場合、アジトが露見する可能性が高くなってしまったのである。
ジェシーはそれを防ぐために、この事をスパイの情報網を通じて報告するのであった。




