1039:密偵(上)
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1796年10月18日
北米複合産業共同体 首都ニューヨーク
北米複合産業共同体が相次いで敗走していても、首都の活気が変わることはない。
主に富裕層などが多く暮らしているエリアにおいては、今日も採れたての野菜や絞めたばかりの羊肉を使ったフルコース料理などが味わえるだけでなく、贅沢品の象徴ともいえる金細工や宝石店なども通常通りの営業を続けており、一等地や特別行政区においては負けているという実感が沸かないのである。
「あら、奥様の金細工……素敵ですわね」
「うふふ……うちの旦那がプレゼントで贈ってくださったんですよ。いつも頑張っているお礼にって……」
「まぁ、羨ましいですわね!私の所は家を装飾するための改装工事で今月は生活が苦しいですのよ」
所謂、上級国民と揶揄されるような富裕層の生活は全国から搾り取った富と金をふんだんに使用し、それでいて国内の主要な産業である製造業と農産業に関しては元締めである社長クラスの人材が多く集まって、日々散財と贅沢を日常として当たり前のように過ごしている場所でもあるのだ。
ここでは四六時中家のために働くメイドが常駐しており、一軒家といっても貴族といっても差し支えない程の豪邸を与えられて生活をしているのだ。
金細工や宝石で装飾を施した鏡であったり、化粧箱やドレスなどが日々飛ぶ鳥を落とす勢いで売れているのも、国民の僅か3%未満に過ぎない彼らに与えられる給与が、一日で庶民が1年掛けて貯める金額と同額であるからだ。
そのため、庶民やヨーロッパ諸国の貴族ですら購入できないような「贅沢」と「豪華」を兼ね備えた生活が確約されているのだ。
「戦争の方はどうなのかしら?フロリダで負けたと聞いているけど……」
「奥様、例えフロリダが落ちたとしても、それまでには長い道のりを踏破しなければここまでこれませんよ?ですからそこまで心配する必要はないですわ」
「そうですわね……子羊肉のナヴァラン(※子羊と野菜を煮込んだ料理)でも食べて忘れることにしますわ~」
戦争とは殆ど無関係であり、あったとしても軍上層部などの一部でしか影響がない彼らにとって、自国で起こっている戦争は遠い出来事のように感じているのである。
一方で、そんな一等地や特別行政区の川を挟んだ向かい側にある複数の工場などが立ち並んでいる工業地帯では、多くの二等・三等市民らが直立不動の状態で話を聞いている集会があった。
自分達を夜遅くまで働かせている工場長が平身低頭で頭を下げて報告書を立派な軍部の制服で整えた者達に渡していたのは決算書と製品の仕様書である。
「この決算書に記されている報告書では、製品の不良率は130分の1と記されているが……納品された現物を確かめてみた結果、不良率は10分の1まであるとはどういう事だ?不良品を出さないようにするために改善したという報告書を贈ってきたが、あれは嘘だったのか?」
「いえそんな……滅相もございません。前任者の指示通りに言われた工程を行って作業をしていたまでであります。こちらの製品の不良率が著しく高くなってしまったのは、製造部門で働いていた三等市民の中でも上層部に反発心を抱いていた一部の従業員がサボタージュを行っていた結果でして……」
「言い訳はいらん!何のために監査部がいると思っているのだ!監査部は不当な金の流れや不正行為を摘発するために存在しているのだ。貴様らの工場において、製品の不良率が高いのも不正行為を行っているが故に、工業製品の質が悪化した結果だろうが!」
「うぐぅっ!」
制服を着ていた者の一人が激高して責任者を殴りつけた。
それも一回ではない、傍にいた者たちも続けざまに殴りつけて制裁を行っているのだ。
ニューヨークにおいて、最も恐れられているのは『監査部』による強制調査であった。
監査部は他国における憲兵隊の役割を担っている組織であり、治安維持のために活動を行っているのだ。その治安維持において監査部の役割は企業内部による不正案件であったり、活動内容によっては逮捕権などを有している特殊な組織でもある。
そのため、国民の多くが監査部からの指摘を受けた場合には直ちにその指摘を訂正して修正したり、場合によっては賄賂などを送ってやり過ごさなければならないのである。
本来なら決算書と報告書の間にそれ相応の金額を挟んでやり過ごすことが暗黙の了解であったが、前任者はそれを今の責任者に述べるのを忘れていたのだ。
結果として、今の責任者が詰められており、それも大多数の人間がいる前で暴力による支配をまじまじと見せつけられたため、多くの二等市民や三等市民には動揺と恐怖が広がっていたのである。
「国の一大事だというのに、このような粗悪品を納品するとは言語道断の所業である!これは企業に対する罪であり、会社に対して莫大な損害を与える行為である。よって、この者を直ちに拘束し囚人として労働刑務所に移送する!私財も全て没収だ!」
「そ、そんな……どうかお慈悲を……!」
「不正行為を見逃していた時点で貴様の責務でもある!それを取らずにしていたのだから当然だろう!」
「いやだ!囚人にはなりたくない!囚人だけは……!!!」
責任者は子供のように泣きじゃくりながら慈悲を願った。囚人に対する扱いが過酷であり、強制労働に等しいやり方で人権という二文字すらないようなやり方で囚人は動かなくなるまで働かされる上に、彼らには休みという言葉は存在しない。
18時間、365日無給で働いて食事は野菜の切り身が少しだけ入ったスープのみ。
建国記念日のみ、ベーコンの切れ端とパンが支給されるが、それ以外は何もない虚無のスープしか食事がないのだ。
北米複合産業共同体が樹立してから10年以上になるが、囚人の身分に落とされた多くの市民が一年以内に体調を壊してそのまま病気になって命を落としている。
その多くが栄養失調と無理な労働時間を強いられてきたことによる過労死でもあった。
囚人になるということは、使い潰されて死んでしまう証でもあるのだ。
今、一人の人間が囚人の身分に落とされていく姿は、多くの従業員にとって恐怖の瞬間でもあったのである。
最終的には数名の監査官によって気絶するまで殴られた末に、引きずられて行ってしまった。
恐る恐る見ていた矢先、監査官は全員に聞こえる声で叫んだ。
「良いか!こうなりたく無ければ企業の為に貢献するべきなのだ!責任者は処分されたが、お前たちにもその責務が下されている事を忘れるな!今日から20日間の間、休みなしで企業のために貢献せよ!虎視眈々と我が企業の所有地を土足で踏み込んでいる侵略者たちから守るために、沢山の製品を世に送り出しておかねばならない!各自、持ち場に戻って朝7時から夜10時まで、監査官の指示の下で仕事を完遂せよ!これは監査部命令である!」
ここにいた全員は内心でため息をついて天を仰いだ。
監査部で指導を受けた場合、休みなしでの労働が義務化されており、ペストやコレラ等の感染症に罹患した等の余程の理由がない限りは休みはもらえないのだ。
そして、過労死ラインを超える残業を行わされる事となった為に、多くの者達は渋々持ち場に戻って仕事に復帰することになる。
……スパイを除いて。




