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短編箱はお気楽に~

湯けむり猫街、元湯にようこそ

 山間の狭い道をかけくだるように通り抜けた時、見えてきた家並みからは、姿定まることのない、しかし豊かなる真白い湯気が立ちのぼっていた。

 僕は思わず足をとめ、

「ほお」

 吐き出す息とともに、そう声に出していた。

 前を案内していた小さな黒い蓑姿が、見上げるように僕にふり向いた。

「あと少しで、元湯(もとゆ)に着きますんで」

 深いかぶり物に隠された表情は相変わらず伺い知れなかった。

 しかし声はあくまでもやさしい。

 僕は、案内の声に引かれるよう、また歩を進める。

 日はすでに西に傾きつつある、冬のある午後のことだった。


 そこに至るまでの道のりを、少々説明しなければならない。


 アパートの二階、いちばん西のはじの205が僕の部屋だった。

 僕はずいぶん前から、猫を飼っていた。もちろんこっそりと。

 拾った時には小さかった茶トラも、ひと夏を過ぎてそれなりに大きくなった。大人しいヤツだったので、油断もしていたのかもしれない。

 11月も終わるという頃のこと。

 仕事がすっかり遅くなったので、あわて気味に部屋のドアを開けた。そう言ってもいつものくせで、僅かに隙間を作って、猫が近くに来ていないのを確認してから、両脚で出口をブロックしながらドアを開ける。

 中に入って気づいた。

 何故なのかいつもよりも、室内の空気がひんやりと冷たい。

 灯りをつけて、がくぜんとした。

 窓がほんのわずか、開けっぱなしになっていたのだ。そして、比較的新品だったはずの網戸が掻きむしられ、猫が通り抜けられるくらいの丸い穴が開いていた。

 換気のために、少しばかり窓を開けることは今までもあった。しかし、忘れて出かけてしまったのは初めてだった。

 僕は声をころして、1Kの部屋中を探しまわった。

 しかし、彼はどこからも出て来なかった。

 窓の外には、幅の狭いバルコニーもどきがひっついている。バルコニーと呼ぶには赤面してしまいそうな、単なる出っ張り程度だけど。

 黒い手すりに軽いバスタオルなどを干すにはまあまあ使えそうだが、住人にとってはあまり意味のないスペースだ。

 しかし猫は、穴からその足場を利用して外に出てしまったようだ。

 どうしようどうしよう、頭の中にはその言葉しか浮かんでこない。

 拾って間もなく気づいたのだ。

 猫はほとんど目がみえない。

 隣の204は、若い女性のひとり暮らしだ。半月ほど前にここに入ったばかりで、挨拶にも来なかったし、すれ違ったこともない。

 一度だけ、窓から路上を歩く彼女を見たくらいだった。髪が長くて眼鏡をしていて、口元を引き締めて足早に去って行くところだった。もちろん、こちらに気づくはずもなく。

 猫は見えないながらも窓伝いに彼女の部屋に行ってしまったのだろうか、仕切りは頑丈そうだが、無理をすれば細い身体で壁に沿って通り抜けられたかも。

 それとももっと遠くまで行ってしまった? それか、地面に飛び降りた?

 ケガしていないだろうか?

 居てもたってもいられなくなって、僕はまた外套を羽織り、外に飛び出した。

 彼女の部屋からは、物音ひとつしない。すでに眠ってしまったのだろうか、単に留守なのか。

 第一、彼女は猫好きなのだろうか? 

 ノックして猫のことを訊いてみたいのをひとまず堪え、僕はアパートの階段を足早に下りていった。

 深夜にさしかかる時間だったが、駅がほどほどに近いこともあって、人通りはまばらながらに途切れることがなかった。

 でも、猫の姿はどこにも見えない。僕の呼びかけに対していつものかすれたような声で応える様子もない。

 大きな川沿いにある公園脇を通りかかった。橋はまさか渡らないだろう、と僕は元来た方へ少しずつ戻ろうと、公園を斜めに突っ切って行った。

 公園を出かかった時、車道の向こうにあるコンビニの明かりの中、見覚えのある人影をみた。

 ちょうど店から出てきたのは、隣の部屋の彼女のようだった。

 仕事帰りなのだろうか、相変わらず眼鏡の奥の目はきつそうで、白いマフラーに隠された口元もきりっとひき結んでいるようだ。そして、やっぱり足早だ。

 片手に下げた小さなビニル袋は軽そうで、いかにもあんまんか肉まんが入っているかのように揺れている。マフラーが鼻を覆うあたりと袋のところからわずかに蒸気があがるのがみえた。

 待って下さい、あの、僕はそう叫ぼうとして、いや、急に声をかけたらびっくりさせるかと、自分でも混乱したまま車道を突っ切ろうとした。

 彼女と目が合った、確かに。

 思いのほか、丸くて奇麗な目だ。そうまるであれは


「だんなさん」


 次に気づいた時には、暗い杉林の中にひとり、ぽつんと立っていた。


 だんなさん、ともう一度、暗がりの中から呼びかける声に、僕は我にかえる。

 呼びかけていたのは、目の前の、ずんぐりとした小さな影だった。

 身体の大きさからすれば、幼稚園児か小学生くらいなのだろうが、声は見かけによらずしわがれていて、どこか、風が通り抜けるような心もとなさがあった。

 そして、なりも不思議だった。

 大きな笠と蓑をかぶり、手には身の丈に合わせたようなやや小ぶりの行燈を下げている。足もとは草鞋のようだった。

 東海道五十三次の浮世絵をすぐ思い出し、僕は何度か目を瞬かせた。

「だんなさん、こんな遅がけに、お探し物でこちらまで?」

 見上げる顔は影になってまるで表情がうかがえない。ただ、なぜか目のあたりだけが黄緑色にぼんやりと光っているように見えた。

 いいや、と答えてそのままきびすを返して逃げたかった。どうにも気味が悪い。

 しかし

「だんなさん、探しているのは猫ですかい」

 そう決めつけられて、僕はうっと返辞を呑んだ。

「だったら猫湯に来るしかねえ」

 声にはわずかに笑いが含まれているかのようだ。

「急ぎましょう、早くしないと日が暮れる」

 確かに、杉ばえの上に覗く空には茜色がさしつつあった。

「後について来てくださいよ」

 それっきり、小さな影はととと、と杉林の道を駈け下っていった。

 僕もあわてて、後を追う。

 下りていく先の空が次第に、朱に染まっていった。


 湯気は所かまわず、その街を覆い尽くしているかのようだった。

 霧のように全てが霞んでいるわけではない。しかし、黒々とした街道沿いの家並みのそこかしこから、かなりの量の湯けむりが立ち上り、おもいおもいに踊っていた。

 家の裏手にある、ゆるやかな斜面のあちらこちらからも、斜め上の空に向かい激しい湯気が噴き出している。

 何より驚いたのが、歩いている街道、両脇の側溝からも、くるりくるりと目に見えるような線を描いて、白い湯気が僕を歓迎してくれていたのだ。

 このような情景をどこかで見た覚えがある。

 そう、まだ高校生の頃だった。僕は遠くの高校に通うため、いつも朝早く家を出た。

 冬の街、車もまばらな頃に立ちこぎで自転車を走らせていくと、駅近くのクリーニング屋はたいてい明かりが灯っていて、家の前の側溝からはいつも、しゅうしゅうと湯気が漏れ出ていた。ちょうどそんなことを思い出していた。

 手袋ごしの指先のしびれるような冷たさも、急に蘇ってくる。

 急に寒さがこたえてきた。

 丁度、空からすっかり朱の色が醒め、濃紺の中に星がはっきりと煌めきだした頃に、僕らは元湯の前に着いた。


「ではごゆっくり」

 小さな影は笠をかぶったまま深々と一礼して、元来た道を戻って行こうとする。

「ねえ」

 僕はあわてて呼びとめる。「猫は? 僕は猫を探しているんだけど、それも急いで。猫はどこか、知ってるんじゃないの?」

「湯に入れば、分かりまさ」

 どういうことなのか、首を傾げる僕に、

「ほれ」

 彼は笠の顔を元湯の建物を越えたあたりに仰向けてみせた。

 え、何? 僕は彼の目線が向いているだろう方を伸びあがって見据える。

 裏手のなだらかな斜面、雑木の暗い影の合間からも湯気がふんだんに湧いている。「あれが?」

 目を戻した時、いつの間にか、案内の姿が消えていた。

 猫を探していたのに、風呂に入れ? ということなのだろうか?

 僕はこわごわと、元湯という大きな看板のかかった玄関から中に入っていく。

 受付にも広い木の床に覆われた場にもひとけはない、何も誰何されることなく僕はどんどんと奥に進む。やがて、湯屋の入口にたどり着いた。

 なぜかそこには見上げんばかりの番台が設えられており、その上にこれもまた見上げんばかりの黒入道が控えていた。

 黒入道は、案内の小男をそのまんま着膨れして大きくしたようなヤツだった。

 頭巾のかぶり物の中から、薄緑の目の光が漏れる。

『いらっしゃい』

 そう言われたような気がして、僕はそのまま前に進む。

 男湯女湯の区別もなく、まん中の藍色ののれんにはただ

『湯』

 と、白く染め残されていた。僕はそのまま中に入って行った。

 脱衣所にも誰の姿もない。かごがいくつか、四角い仕切りとなった棚に乗っていた。

 脱ぎ捨てたものがそれぞれのかごにつくねてある。どれもこれも、何だか黒っぽく毛羽立って見えた。

 僕の目の前にも、一抱えほどある籐のかごがあった。他のかごより何となく大きく見える。

 そんなに僕は大きいのだろうか、と訝しんだものの、とにかく僕は着ているものをどんどんと脱いでいった。

 改めて気づいたのだが、猫を追って外に飛び出した格好のままだったので、まずは長い外套、ウールニットのベスト、ワイシャツ、ジーンズ、靴下、と次々と脱ぎすてて行く。

 たどり着くまでに、すっかり身体は冷え切っていたようだ。真夜中から夕暮れを経て、また夜中を迎えていたという事実にも何だか心が縮こまっていたようだ。

 とにかく早く熱い湯に入りたかった。

 しかし、下着を取ってもなぜか、脱ぎ足りない気がして、僕は急かされるように手を動かしていた。

 するり、と抵抗もなく自分の身体が脱げた。

 あわてて脱げた身体を丸め、携帯電話と財布、下着と一緒に籐かごの一番底の方に押しこむ。恥ずかしい気もあったのだが、盗まれては大変、と思ったのだろう。

 風呂に入る目の前の壁に、姿見があった。

 そこに映る姿に、僕はああ、と納得する。

 そこに見えたのは、透けすけのクラゲみたいな人型の塊と、頭と思われるあたりに薄緑色に光る――さっきまで気になっていたはずの――ふたつの目玉だけだった。

 そうか、だから何かと軽いんだ、と僕はそれでも誰かにこんな姿は見られたくないな、と思い、あたりを伺いながら風呂場への扉を開けた。

 風呂場はずいぶんと幅があった。ゆうに八間はっけんはあるだろう。

 そして奥はもっと深いようだった。

 中にはやっぱり、あたりいちめん湯気が立ち込めていた。湯気の間あいだに黒っぽい岩がごつごつとのぞいている。岩肌は壁面いっぱいを覆い、所どころ湯船の中にまで入り込んでいるようだ。洞窟に湯が溜まり、そのまま風呂場になったような見かけで、湯気のせいもあって、いっとう奥まではとうてい見渡せない。

 目をさまよわせても、明かりというものは特に見当たらない。なのにぼやりと見渡せるのだ。僕はおそるおそる湯に足を、いや、足と思っていた部分を浸してみた。

 最初は意外なほどに感触がなく、湯はつるりと足を覆った。そのうち、じわり、と熱さがつま先から脛に上がってきた。

 熱すぎる、という程ではなかったが、僕は用心深く、身体を湯船に沈めていった。湯はかなり深く、立ったままでも十分、肩まで湯のぬくもりに包まれた。

 しかしながら腹も胸もそうだ、湯に浸かったばかりには何も感触がない。それこそ、湯気だけが身体を撫でていったような、頼りない温かさだけしか感じない。

 それでもひと息ついてみると、じわじわと湯の熱さが僕の表面を通し、中に沁み入っていくような感覚だった。

 それにしてもおかしいぞ、身体もないのにどうして? と僕は小声でつぶやいた。

 声が出ているのかも、定かではなかった。岩だらけの風呂場で、したたる水滴や流れる湯の音は確かに反響しているのに、声だけは僕の外に出ず、耳の中にもぐってしまっているようだった。

 ふと、少し離れた岩かげに、ぼおと光るものを見かけた。

 犬かきの要領でそこまで泳ぐように湯を渡っていく。

 先客にようやく気がついた。岩のくぼみになったところに、僕と同じような半分透けたような、目だけがぼんやり光った影が、湯に浸かっていたのだった。

 急に気恥ずかしくなって、僕は中途半端な位置で止まった。目がこちらを向いているようだった。少しして、軽く会釈をしたようだ。

 女性なのだろうか? だったらこちらはかなり不躾な感じを与えたに違いない。しかしそう思ってからふと我にかえった。この姿なら、男だろうが女だろうがあまり関係ないだろう。

 咳払いをして、僕は尋ねてみた。「おひとりですか」

 どうも耳をふさいだまま、小声で喋っているように音がこもって聞こえる。まるで響くということがない。

 だが、不思議なことに

「はい」

 相手の声も同じように、耳の中で聞こえた。「おたくさんも、湯治で?」

「いや……まあ、はい、そうです」

 煮え切らない答え方になってしまったが、相手は特に気にするふうもなく

「ほう」

 ぱしゃん、と軽く湯を叩いた。声だけ聞くと、性別は判然としなかった。

「この湯は、ありとあらゆる処に効きますからねえ」

 僕は「はあ」とあいまいにうなずいた。そう言えば、『元湯』とは聞いたが、ここはどこの温泉地なのだろう。

 それに、どうしてここに来てしまったのだろう?

「実は」この人には、ちゃんと聞いてもらったほうがいいような気がした。

 ためらいながら、僕は言った。

「ここは初めてなんです。そんで、なぜここに来たのか、分からなくて」

「ほう」

 同じように、目の前の人が答え、また、ぱしゃんと湯をはたいた。

「探している、と言ったら、案内してくれた人がいて」

「探している、ほう」薄緑の目がまっすぐとこちらを向いた。

「お連れさんですか?」

「はあ」なぜか、心の中に何か声がして、僕は「猫です」と続けるのを止めた。

 代わりに「目が悪いんです、ソイツ」そう続けた。

「目がお悪いんでしたら、」目が湯気を透かしてずっと奥の方を見やった。

「ここよりかずっと元に入っているでしょうよ。ここはまだ一ノ湧きですからね」

「イチノワキ?」

「そうですよ」さも当然と言ったふうに、その人は続けた。

「一ノ湧きは、足腰をくじいた時に、

 二ノ湧きは、どこでも出来物が噴いた時に、

 三ノ湧きは腹が悪い時に、

 四ノ湧きは、胸や気を病んだ時に、

 元ノ湧きは、目病みに特に、効くと言われておりますから」

 私も、足を捻ったせいで腰を痛めましてね、だからここにおるのです、とその人はまたぱしゃりと湯を打った。

 それを合図に、僕は軽く頭を下げて、更に奥に進んでいった。


 どこからどこまでが一で、どこからが二なのかよく判らなかったのだが、僕はとにかく抜き手を切ってやみくもに奥に進んでいった。

 前に進むのに夢中だったが、ふと目をやる岩かげごとに、ほんのりと光る人影をいくつか見かけた。影はどれも静かにちんまりと湯に浸っていた。

 三に入ったあたりで僕はようやく気づいた。

 岩の大きな出っ張りと窪みとで、淵のようになっているのがどうやら、ひとつずつの区切りのようだった。

 一ノ湧きでは、肌にやんわりと当たる、はじめは湯なのか湯気なのかがよく判らない風呂であったのに、二ノ湧きではそれがもう少し、ぴりりと肌を刺す感じだった。

 三ノ湧きは急に湯が熱くなって、僕はぴょんぴょんと跳びながら湯を渡っていった。

 四ノ湧きでまた、ほっとひと息つく。ここはかなり温度が低く、もしかしたら沢の水が入り込んでいるのでは? とまで思えるぬるさだった。

 そしてようやく、元ノ湧きらしき処に入り込んだ。入り込んだ、というのはあながち嘘ではない。湯気を透かしてみても、そこがこの温泉のいっとう奥まった場所であるのは、一目瞭然だった。

 ごつごつした岩肌のいくつもある窪みの、もっとも奥に近い処に、目が光っていた。

 僕はゆっくりと近づいていって、「どうも」とお辞儀をすると少し離して脇についた。


 ここまで来て、やっと気づいたのだ。

 案内の男が妙に小さかったこと、

 猫を探していると知っていて、ここに招いたこと、

 脱衣所のカゴが自分のを除いてどれも小さかったこと、

 そして。

 元ノ湧きの、目病みの湯にいるのが誰かってことも。

「やあ」

 僕はそろりそろりと向きを変え、彼を真正面から見て言った。

「探したよ」

 湯にちんまりと収まっていた彼は、薄緑色の目をこちらに向けた。

「おやまあ」

 声が静かに耳の奥に届く。目はちゃんと見えるようになったようだ。

「どうして辿りつけたのやら」

 面白がっているふうだった。

「私らには簡単な道すじなのですが……」

「案内がいたんだ」

「それにしても、ねえ」くつくつと笑っている。

「猫街にヒトが来たのは、初めてなのでは? しかも元湯に入れたとは」

「キミはなぜここに?」

「髭に風を感じてね、窓が開いていたのに気づきまして」

 ぷるり、と首を振っていったん湯にもぐり、すぐにまた浮きあがる。

「元湯に行こう、とすぐ思い立ったのですよ」

「うむ」

「生き別れた母からも、寝物語によく聞かされておりましたしね。いつか必ず、と思っておりました」

 猫の世界では、この湯けむりの街はかなり有名らしかった。

 ところで、帰るつもりはあるのかい? そう尋ねようと思ったその時。

 ちりちりちり、と妙に軽いベルの音があたりに響き渡った。

 続けて、館内放送なのだろうか、途切れ途切れに声が流れた。

「赤湯気が、発生致しました。元湯裏山にて噴火の恐れがあります。すみやかに湯からお上がりください。すみやかに、避難ください」

 耳の中に、いくつもの声が重なる。「にげろ」「にげろにげろ」

 隣の影もすぐに動いた。僕も遅れを取らないよう慌てて入口に向かって泳いでいく。

 湯がからみつくように重い。それでもようやく、脱衣所まで戻ることができた。僕は慌てて手近なカゴを掴む。いや、これではない、これは小さいし中身は赤茶けた毛皮と長い尻尾だ。

「お急ぎください!」

 すぐ耳元で誰かが叫ぶ。床が波うって、低い轟きが腹の底まで震わせた。

 仕方ない、外に出るには何か着なければ。僕は焦って袖を通す。

 少し遠いところで、薄い影が僕の大きな脱衣籠を持ち上げているのが、霞む景色の中に浮かび、急に世界が回って、僕は。


 気づいた時には、元のアパートにいた。

 いや、元の、ではない。妙に明るいカーテンが見える。

 似ているようで、ちょっと違う。ここはどうも、他の部屋だ。

 そして、僕を覗き込んでいる人影がふたつ。

「良かった」

 そうだ、この眼鏡の顔は。

 二〇四のあの人だ。

 そしてその脇に寄り添っていたのは……

 まぎれもない、僕だった。

 柔らかい笑みをたたえ、僕を見おろしている。

 僕はようやく、

「やぁ」と声を絞り出し、なぜかついている尻尾を振った。


 コンビニ前で軽乗用車に撥ねられた僕に駆け寄って、彼女はすぐにそれが隣室二〇五の男だと気づいたのだそうだ。

 彼女も、僕のことを探していた。

 その日の昼近くたまたま窓を開けた時に、僕の部屋の窓から、猫が外に飛び出すのが見えたのだと。

 二階から地上に飛び降りた猫は、硬い地面に当たり肩から崩れ落ち、余力で草むらに走り込んだものの、そこから出てこようとしなかった。

 心配になった彼女は急ぎ表に飛び出して、深い草叢の中に倒れていた猫を見つけ出し、部屋に連れ帰った。

 猫は単に、気を失っているだけのようだった。息づかいも緩やかで、どこか大きなけがをした様子もない。それで、彼女は気になりながらもそのまま仕事に出かけた。

 猫の飼い主に話をしなければ、と思いながらの帰り道、夜食を買いにコンビニに寄った時、僕と衝撃的な出会いをしたのだそうだ。

 幸いにも僕は厚着をしていたおかげで、ケガ一つせずに済んだ。ただ、しばらくは気を失っていたらしい。


 僕の身体を着こんだ『彼』はずいぶん要領よく、彼女とお近づきになれたようだ。

 間もなく二人は一緒になった。

 やれやれだ。

 それでも少しは良かったことに、二人は郊外に庭のついた小さな家を構え、そこに移り住んだ。もちろん、茶トラの僕も一緒に。

 すっかり目も良くなった僕は、今ではこの生活にもすっかりなじんでいた。


 今日は久しぶりによい天気だ。北風は冷たいが、外出にはもって来いだろう。

「お出かけかい?」

 彼が僕に問う。僕は彼の耳の中でしか聞こえない声で応える。

「いや、久々に元湯にね」

 彼はちょっとばかり残念そうに笑い、手を振った。

「そうかい、じゃあ、ごゆっくり」

 僕はこれ見よがしに尻尾をぴんと立て、ゆうゆうと生垣をくぐり抜け、外に出て行った。

 今日も猫街は、湯けむりに満ちているだろう。



 < 了 > 

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― 新着の感想 ―
[一言]  いい思い出のある場所は、もう一度尋ねたくなります。
2019/03/29 19:23 退会済み
管理
[一言] 最後まで読んで、「あっ」となりました。 この結末は予想していませんでした。 躯を脱ぐという行為は、してはいけない禁断の行為のような気がします。それをいとも簡単にするすると脱ぎ捨てる主人公は…
[良い点]  不思議な味わいがあって、のんびりとした気分で楽しみました。  猫を追っての道行きが、驚く結末ですが、なんだかみんないるべき居所に落ち着いているよう。『僕』も『彼』も、もしかしたら『彼女』…
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